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「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (6)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述

2.植民地支配責任の黙殺

 日韓会談・日韓条約をめぐる武田の叙述も、予想に違わずひどい。


 中国と同じく〔サンフランシスコ講和会議に〕招聘されなかった韓国との国交回復は二国間協議に委ねられたが、国籍問題、既得権の継続保有などの懸案が解決できず、とくに漁業権問題が紛糾した。そのために、講和発効直前(五二年四月二五日)に日韓会談は打ち切られ、両国間の正式国交は開かれないまま、六五年まで持ち越されることになった。(p.7)


 武田によれば、日韓会談が「五一年一二月に開始されて以来一進一退を繰り返し」(p.123)たのは、「李承晩政権の崩壊と、後継の張勉政権に対する軍部クーデターの影響」(p.124)などによるものであり、もっぱら韓国側に責任があるとされている。第三次日韓会談を中止させた久保田暴言(▼8)も本文中では言及されておらず(▼9)、第七次日韓会談時の高杉暴言(▼10)は完全に無視されている。

 この理由は簡単で、武田自身の歴史認識が久保田や高杉らとさほど変わり映えしないため、これらが暴言であることすら、武田にはうまく理解できていないのだろうと思う(「既得権の継続保有」とは要するにそういうことである)。武田の歴史認識によれば、「植民地支配責任」とは、日本が朝鮮に対して負うべきものではなく、朝鮮が日本に対して負っているものなのかもしれない(植民地支配による搾取を否定するような人物なのだから当然ではあるが)。

 武田はさらに、在日朝鮮人による日韓会談反対運動を誹謗するような言説さえ振り撒いている。


 日本では、すでにベトナム派兵を決めていた韓国政府との国交正常化は、日・韓・米の軍事的関係を強化すること、南北分断を恒久化すること、などへの懸念から反対運動が展開された。北朝鮮を支持する人も少なくないなど、在日の人々にも意見の違いがあり、帰還協定など微妙な問題も残っていた。(p.125)


 武田が本書で在日朝鮮人にいくらかでも触れた箇所はここだけである(▼11)。武田は在日朝鮮人について、「北朝鮮を支持する人も少なくない」ということだけを述べ、それが日韓条約に反対する在日朝鮮人の主要な動機であると読める書き方をしている。つまり、日本人が「南北分断を恒久化すること」を「懸念」して日韓条約に反対していたのに対し、在日朝鮮人は南北分断を既成事実化する立場から条約に反対していた、という誤解を読者に与えかねない叙述をしているわけである(▼12)。そのくせ自らが「微妙な問題」と呼ぶ帰還協定については、わずかに年表の「世界」欄(「日本」欄ではない)で「1959年(昭和34) 8 北朝鮮帰還に関する協定調印」と記すだけなのであった。

 武田が日韓条約における在日朝鮮人の法的地位協定を露骨に無視していることや(▼13)、「一九六五年の不況から回復した日本経済は、それまで以上に高率の経済成長のもとで、経済大国としての地位を確立していった」(p.140)と語り、高度経済成長と日韓条約の関係をまったく論じていないことも、植民地支配責任に対する武田の黙殺ぶりをあからさまに物語っている。

3.侵略戦争責任の黙殺

 武田は日中国交正常化についても『朝日年鑑』に倣って勝手なことを述べている。


 田中〔角栄〕内閣に期待された「実行力」は、その年〔1972年〕の九月の日中国交回復の実現によって示された。〔中略〕

 九月二五日に田中首相と大平外相は中国を訪問し、二九日には国交正常化の共同声明に調印した。二五日夕方からの周恩来首相主催の晩餐会で、田中首相は「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と、日本の対中国侵略に事実上の謝罪を行うとともに、国交正常化に強い意欲を表明した(『朝日年鑑』一九七三年版)。(pp.196-197)


 田中の上記の発言が、周恩来を始め中国側を激怒させたのは、かなり有名な話である(侵略者の「深い反省の念」とやらが「多大のご迷惑をおかけした」程度では、被侵略者は激怒して当然だろう)と思うのだが。

 武田は、東南アジアの「反日」についても、「金大中事件とアジアの反日」という節をわざわざ設けて一方的に論じている。


 翌七四年一月の東南アジア諸国訪問では、田中首相は激しい反日暴動に遭遇した。東南アジア諸国における反日感情は、韓国との関係と同様に日本の急激な経済進出に対する反発によるものであった。(p.218)


 まるで日本の「経済進出」が「緩慢」でありさえすれば、東南アジア諸国や韓国の民衆に「反日感情」が生まれることもなかった(日本はもっと上手く立ち回るべきだった)、とでも言いたげである。もちろん、武田は「反日デモ」の「暴徒化」を殊更にアピールすることも忘れていない。


インドネシアでは反日デモが暴徒化し、一万人以上の群集がジャカルタの日本系企業に放火し、日本政府の車を焼き打ち、日本大使館の国旗を引きずり降ろした。このため、ジャカルタには外出禁止令が出され、大統領府に閉じこもった田中首相はインドネシア空軍のヘリコプターで空港に移動して帰国の途につくことになった。(p.218)


 武田は、「ベトナム戦争の激化」という節でも、「カシミールをめぐるインドとパキスタンの紛争が武力衝突に発展し、インドネシアではクーデターが発生し、それによりスカルノ大統領の政治的基盤であるナサコム(民族主義、宗教、共産主義)体制が崩壊した。アジアは紛争の火種と戦火が絶えることがなかった。不安な材料は増すばかりだった」(p.117)と断じ、日本の歴史的責任をすっかり棚上げした、アジアに対する偏見・予断が見え隠れするような記述を行っている。


▼8 「日本としても朝鮮の鉄道や港をつくったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は、当時、多い年で2千万円も持ち出していた。これらを返せと主張して韓国側の政治的請求権と相殺しようということになるのではないか」

「記録にとらないでほしいが・・・私見としていうが・・・、当時日本がいかなかったら中国かロシアが入っていたかもしれない」

「〔「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」としたカイロ宣言について〕私見ではあるが、それは戦争中の興奮した心理状態で書かれたもので、私は奴隷とは考えていない」(1953年10月6日)

「〔金溶植・韓国側代表の「日本が韓国を統合することによって韓国に恩恵を与えた、と今でも信じるのか」という質問に対して〕その言葉は韓国側で日本の韓国統治のマイナス面だけを述べるので、プラスの面もあるということを述べたのである・・・もちろん個人として述べたものではなく、公的資格で述べたものである」(1953年10月20日)

▼9 「表3-1 日韓国交正常化交渉」内の「<第3次>53年10月6日~21日(いわゆる「久保田発言」で中断)」(p.124)という一言で片付けられている。

▼10 「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ。いま韓国の山には木が一本もないというが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからで、もう二〇年日本とつきあっていたら、こんなことにはならなかっただろう。……日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みなおいてきた。創氏改名もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない」(1965年1月7日)

▼11 127ページには「朝鮮の人々」という言葉が見られるが、それは「五四年」の「小学校六年生の教科書『社会』」からの引用にすぎない。

▼12 もちろん、北朝鮮は日韓条約(の締結)に一貫して反対してきた。北朝鮮政府が1962年12月13日に発表した声明と、日韓条約締結翌日の1965年6月23日に発表した声明の日本語訳は、在日朝鮮人社会・教育研究所編『帰化(上巻)』(晩聲社、1989年)で読むことができる。

 「金定三――〔中略〕共和国の声明の内容というのは二点に集約できると言っております。両国間に生じた不幸な歴史を清算し、平和と友誼に基づく新しい正常な関係を樹立するためには、ふたつの解決すべき問題がある。ひとつは、植民地統治時代における物的な被害・損害。それから、はかり知れない人的な損害、虐殺、および朝鮮の歴史的な文化遺産というのがほとんどこの時期に略奪されているわけなんですが、これにたいする補償の義務が日本にはあるということです。もうひとつは、植民地統治の負の遺産として在日朝鮮人問題があると。これは日本の植民地統治に由来するものであり、また一五年戦争中における強制徴用などによる結果存在するものであるから、その歴史的な責任において在日朝鮮人にたいし就業の権利、民族教育の権利、祖国への自由往来の権利、その他の民主主義的権利の保障の義務が日本にはあるんだということを明らかにしております。

 「韓日会談」は朝鮮戦争が起きている最中に不当にはじめられている。朝鮮が統一された後に解決すべきことを故意に、一方的に韓国との間で解決をしようというのは認められないと言っております。」(在日朝鮮人社会・教育研究所編『帰化(上巻)』、晩聲社、1989年、pp.21-22)

 上記の指摘は、日朝国交正常化が日韓条約を踏襲する形で決着されようとしている、今日的な文脈において、日本人こそが主張するべき原則論であると思う。

▼13 これに関する自民党の内部資料(自民党広報委員会『日韓交渉の経過と妥結後の両国内の反響』(一九六五年四月))を以下に紹介する。日本政府の本音は<嫌韓流>そのものである。

 「日本政府が、なぜこういうふうな特殊な永住権をどこかで切ろうという考えをもったかというと、あまり特殊な権益をもった外国人を、子々孫々永久に存在を認めるということになると、連中は要するに外国籍のほうが便利なわけであるから、いつまでも外国人の特権として、特別永住権を享楽するであろう。そういうことでは実は日本は非常に困るのであっていずれかの時代には日本人になってもらいたい。本人が日本人になっても、つまり帰化しても、あいつは帰化人だ、帰化人だということで変な目で見られるかもしれないが、二代、三代、四代とだんだん時がたつにつれて日本人化していくであろう。

 大体朝鮮人というのは非常に犯罪率が高いし、生活保護を受けている率も、日本人のパーセンテージの約十倍で、むしろ日本社会としては迷惑な分子になっているわけであるが、しかし大きな目で見ると、朝鮮人がそういったように犯罪に走ったり、あるいは生活保護を受けたりするのは、結局ある意味では、日本社会の社会構造とか、たとえば一流会社は、朝鮮人の就職を認めないとか、あるいは大学を出て日本人のお嫁さんをもらおうとしたら、戸籍謄本を取りよせたら、実は朝鮮人だということがわかって破談になったというようなことでぐれたりする。そういったケースが非常に多くて、結局犯罪率が高いのであって、だから朝鮮人は悪いやつだとか、生活保護を受ける率が高いから、あいつらは貧乏なやつらだとか、そういう考え方ではないし、もう一つさかのぼって、社会的な構造が、朝鮮人に対する一種の差別、蔑視観というものをもっている。そのために彼らが〔ママ〕犯罪率が高いのであって、生活保護を受ける率も多いのではなかろうか。

 しかもこの連中を強制的に追い出すということは、どう常識的に考えてもできない現状、あるいは将来も追い出せないであろう。それならば、むしろ積極的に同化していって、二世、三世となれば、もういつの間にかわれわれ日本人と全然変わらない存在にしていこうではないかという考え方から、特殊な外国人として安住できるような地位は、どこかで切ろうということで、こういった協定になったわけである。そういうことで、われわれはもう少し大らかな気持ちで接触しなければいけないという考え方で、日韓協定に臨んでいるわけである。

 あとこまかい問題として、そういうふうな特殊な永住権をもったものについては当分の間、生活保護を続けてやるとか、あるいは日本の公立の学校にただで入れてやるとか、そういった附随的な合意もしようということで、現在仮調印が長びいているわけである。結局述べたいことは、こういった永住権を取って、レッテルを張る朝鮮人のほかに、残った朝鮮人というものをどう処遇するかという問題が、今後の日本政府の大きな問題になるのではなかろうか。

 それから、同化政策というものを一体どういうふうに打ち出すかということが、第二番目の大きな問題であると思う」(吉江勝保文書 ファイル名『アジア・アフリカ外交(二)』フーバー研究所所蔵)」(在日朝鮮人社会・教育研究所編『帰化(上巻)』、晩聲社、1989年、pp.259-260)

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (5)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』

(3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者

 シリーズ日本近現代史⑧『高度経済成長』の著者は、岩波書店から『日本人の経済観念』(1999年)を刊行した経済学者の武田晴人である。武田は、『経営に大義あり――日本を創った企業家たち』(日本経済新聞社編、日本経済新聞社、2006年)や『世紀転換期の起業家たち――百年企業への挑戦』(講談社、2004年)といった、書き写すだけで気恥ずかしくなるようなタイトルの著作も多数手掛けており、まさに日経文化人とでも呼ぶに相応しい人物である。

 武田の「経済学」者としての本質は、1992年から1993年にかけて武田が世田谷市民大学で行った「日本経済史」および「日本財閥史」の講義録をまとめた『日本経済の事件簿――開国から石油危機まで』(新曜社、1995年)に最も端的に窺えると思う。以下に抜粋しよう。

 「戦前の日本の植民地、朝鮮や台湾を例にとってみると、植民地支配はもうかる商売ではありません。言い方は悪いかもしれませんが、植民地を支配するためには大量の軍事力や警察力を投入しなければならないし、それには金がかかります。ある程度の経済開発をしなければならないし、治安を維持し経済の発展をある程度うながすためにはそれだけの資金を本国から持ち出さなければなりません。その持ち出した分に見合うだけの利益が植民地から上がるかどうかは保証されていません。少なくとも第二次大戦前に日本の植民地であった朝鮮や台湾がそういう意味で日本に利益をもたらしたかどうかは正確には測れません。もしかすると損をしたかもしれません。損して当たり前なのですけれど。それに比べれば、現在のように経済力をバックに南の国からさまざまな経済的資源を商業ベースでもって来られる方が、はるかに安上がりで都合のいいシステムかもしれません。それが植民地についての問題です。」(p.218)

 ・・・・・・岩波書店は、雨宮に続いて、こんな人物を自社の「日本近現代史」の編者として起用しているのであった。比喩ではなく本当に現代版「石橋湛山」そのままだ。

 ちなみに、武田は本書の「あとがき」で、「最初の執筆者会議に私が出した、戦後経済史を想定した目次案は、編集委員の皆さんから、あっさりと却下された」(p.241)、「専門領域は近代経済史で、戦後史ではないから経済のことだっておぼつかない」、「とりあえず『朝日年鑑』を順番に読んで、メモをとっていくこと」で「専門外の事項にもできる限り言及するようにして〔本書を〕まとめた」(p.242)ことを告白している。岩波新書編集部の人選基準やその叙述の採用基準は私には計り知れないが、編集部による著者紹介には、この『日本経済の事件簿』も挙げられているから、少なくとも編集部が上記の武田の主張を知らずに武田を起用した可能性は低い、と見てよいだろう。

 武田が正直に語っている通り、本書は半ば『朝日年鑑』史とでも言うべきものであり、そのため他の二冊よりはいくらかマシなのだが(それもどうかと思うが)、アジアとの関係をめぐる言説には特に批判するべき点が多い。以下にその一部を指摘しておこう。

1.日本の金ヅルとしてのアジア観

 武田は本書で「高度経済成長」をテーマにしながら、それを可能にしたアジアとの敵対関係――戦後賠償の不履行や朝鮮戦争特需に象徴される侵略責任の上塗り――をまったく批判的に省みようとしていない(植民地支配による搾取を否定するような人物なのだから当然ではあるが)。武田が朝鮮戦争の日本経済への影響に言及しているのは、ほとんど以下の箇所のみである。


 朝鮮戦争の特需によって復興のきっかけを得た日本経済は、休戦による特需消滅が、復興の足下をすくうのではないかという不安に陥っていた。資源が不足している日本経済の自立には、原材料の輸入が必要であり、そのためには外貨が不可欠であった。しかし、その外貨を稼ぐ輸入は産業の競争力に乏しく、日本品は「安かろう悪かろう」と海外市場で評判が芳しくなかった。それだけでなく、戦前日本で重要な輸出地域となっていた中国や東南アジアは、賠償問題の未解決や国交回復の見込みが立たないなど、市場として多くを期待できなかった。

 そうした弱点を補うことが期待されたのが、アメリカの防衛力強化要請とともに浮上した相互安全保障法(Mutual Security Act 五一年一〇月成立)に基づく援助(MSA援助)問題であった。(p.16)


 これだけでも武田がアジアをもっぱら日本の金ヅルと見なしていることは明らかだろう。さらに厚顔なことに、武田は戦後日本の東南アジアへの経済侵略を「積極的な」「賠償への日本の取組み」として評価している。


 講和条約に明示された原則(日本の経済的自立を妨げない範囲で請求に応ずる、役務による賠償を中心とし金銭賠償を行わない)を貫くことが、賠償交渉における日本の基本的な態度であった。戦争によって一方的に損害を被った国々に対して賠償に応ずることは日本の当然の責務であったが、他面でこの問題を解決し正常な通商関係を回復していくことが、日本の経済的自立に不可欠であった。このような事情が賠償への日本の取組みを積極的なものにした。東南アジア諸国は、日本の経済発展に必要な原料資源に恵まれた国々が多く、あるいはまた、製品の輸出市場としての期待も大きかったからである。

 たとえば、通産省は、「これら各国に対し、賠償およびこれに伴う経済協力を誠実且積極的に実施することによりわが国としては、重工業製品の安定市場の確保と工業原材料の輸入市場の育成が期待でき、又投資先の開拓が大いに期待できる」ことを強調していた(前掲『通商産業政策史』第五巻)。こうして賠償支払いは、金銭ではなく「実物賠償」として日本からの輸出品ないし役務の提供となり、相手国の経済開発計画や、工業化政策に協力するものとなった。(pp.32-33)


 武田は、東南アジアへの「賠償支払い」が「日本からの輸出品ないし役務の提供とな」った理由として、「日本の経済発展に必要な原料資源に恵まれた国々が多く、あるいはまた、製品の輸出市場としての期待も大きかった」ことを明け透けに語る一方で、それが「相手国の経済開発計画や、工業化政策に協力するものとなった」と矛盾したことを述べている。武田によれば、日本は東南アジアへの戦後「賠償」をどこまでも自国の経済発展に利用し、それらの地域をあくまで日本の原料供給地および製品輸出市場として従属させ、(「経済開発計画」や「工業化政策」を含む)現地の自立した経済発展を阻害してきたことによって、「相手国の経済開発計画や、工業化政策に協力」してきたことになる。先に武田は経済学者としても三流以下ではないかと書いたが、これほど短い文章の中でこうも矛盾したことを平気で述べてしまえるようでは、単に御用学者としても一流への道は遠いのではないだろうか。まあ余計なお世話だろうが。

植民地支配責任から撤退する左派 (後半)――『世界』の場合

■目次
(1) はじめに
(2) 再論:「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性を問う
(3) 三・一独立運動と五・四運動と「小日本主義」?
(4) 植民地なき植民地主義――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判①
(5) 「東アジア共同体」構想の原点?――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判②
(6) 現代版「石橋湛山」としての『世界』の論調
(7) おわりに


(4) 植民地なき植民地主義――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判①

 荒井氏がここで引用している石橋湛山の社説は、1921年7月30日と8月6日、8月13日号の東洋経済新報に連載された、「大日本主義の幻想」である。同社説は岩波文庫の『石橋湛山評論集』(松尾尊編、岩波書店、1984年)にも収録されている(▼5)ので、以下では同書を参照する。

 結論を先に述べれば、「大日本主義の幻想」における石橋の言説は、「戦後」日本の植民地なき植民地主義を先取りする主張であった、と私は思う。石橋が植民地の放棄を主張する理由は、端的に植民地の維持が「国益」に適わないという点に尽きる。

 「〔中略〕海外の土地を我が経済上に利用するには、かくの如き方法〔引用者注:入植〕によるは愚である。人口稀少にして、先方に利用すべき労力がない場合は別であるが、しからざる限り、労働者は先方の者を使い、資本と技術と企業脳力とだけを持って行く。その上に労働者も持って行くなら、持って行っても、勿論差し支えないが、それは必ず持って行かねばならぬものではない。悪くいうなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプロイツト)する。もし海外領土を有することに、大いなる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。されば例えばインドを見ても、英国人は幾許(いくばく)も行ってはいない。一九一一年の調査に見るに、総人口三億一千余万の中、欧州人およびその同族なるものは二十万人足らずしかいない。英人は、またその一部であるのである。これで、英国がインドを領有する意味は、十分達せらるるのだ。」(p.110)

 一見して明らかなように、石橋はアイヌモシリへの入植や、英国によるインド植民地支配を積極的に肯定している。石橋が「満州・台湾・朝鮮・樺太等」の放棄を訴えたのは、それが国防に適うという理由に加えて、「満州・台湾・朝鮮・樺太等」に対する植民地支配は経済的に割に合わないという、植民地主義への自己批判なき「現実主義」に多くを負っている、と考えられる。

 「〔中略〕朝鮮・台湾・樺太ないし満州を抑えて置くこと、また支那・シベリヤに干渉することは、果してしかく我が国に利益であるか。〔中略〕まず経済上より見るに、けだしこれらの土地が、我が国に幾許(いくばく)の経済的利益を与えておるかは、貿易の数字で調べるが、一番の早道である。〔中略〕朝鮮・台湾・関東州のいずれの一地をとって見ても、我がこれに対する商売は、英国に対する商売にさえ及ばぬのである。〔中略〕

 もっとも貿易の総額は少ないが、その土地にて産する品物が特に我が工業に、もしくは国民生活上に欠くべからざる肝要の物であり、この点において特殊の経済的利益があるという事もある。しかし幸か不幸か、朝鮮・台湾・関東州には、かくの如き物はない。我が工業上、最も重要なる原料は棉花であるが、そは専らインドと、米国とから来る。また我が食物において、最も重要なるは米であるが、そは専ら仏領インド、シャム等から来る。その他石炭にせよ、石油にせよ、鉄にせよ、羊毛にせよ、重要というほどの物で、朝鮮・台湾・関東州に、その供給を専ら仰ぎ得るものは一もない。〔中略〕米にしても、朝鮮および台湾を合せて、我が国に移入し得るはようやく二、三百万石だ。この位の物のために、何故我が国民は、朝鮮・台湾・関東州に執着するのであろう。吾輩をして極論せしむるならば、我が国がこれらの地を領有し、もしくは勢力範囲とした結果、最も明白に受けた経済的影響はただ砂糖が高くなったことだけである。」(pp.102-104)

 ・・・・・・これ以上読み進めるのは苦痛だが、もうしばらく頑張ってみよう。

 「〔中略〕汝の議論は総て現在の状況を基礎にしておる、台湾にせよ、朝鮮にせよ、関東州にせよ、将来大いに発展するかも知れぬではないかという人があるかも知れぬ。こんな疑いは、吾輩が前号から提出した諸材料を、もし真面目に研究したならば、決して起らないはずである。

 しかし吾輩は簡単に次の如くいおう。台湾を領有して二十五年、朝鮮・関東州を我が勢力下に入れて十五年、この間我が国民は、随分の大努力をこれらの地方に対してした。而してその成績が以上の如くだ。〔中略〕あれだけの大努力をして、いずれもの貿易がインドとの貿易だけにさえ進まぬとすれば、前途の予測も大概つきそうのもの〔原文ママ〕ではないか。」(pp.111-112)

 「列強の真似をして、能(よ)くそれに対抗し得るだけの有利なる海外領土が得られるならば、大日本主義も、まだ多少の意味はあろう、しかし朝鮮・台湾・樺太または満州という如き、これぞという天産もなく、その収入は統治の費用を償うにも足らぬが如き場所を取って、而して列強にその広大にして豊穣(ほうじょう)なる領土を保持する口実を与うるは、実に引き合わぬ話しである。」(p.117)

 まるで日本人こそがアジアに対する侵略と植民地支配の被害者である、と言わんばかりの図々しさである。念のため述べておけば、私は曲がりなりにも石橋がこの時代に植民地の放棄を主張した意義を過小評価するつもりはないが、過大評価するつもりもさらさらない。石橋の「大日本主義の幻想」をもって、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」根拠にしようとする荒井氏の言説は、それこそ「幻想」の謗りを免れないし、何よりアジアの民衆に対してあまりにも失礼であると思う(▼6)


(5) 「東アジア共同体」構想の原点?――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判②

 荒井氏は、先の引用部に続けて、以下のように述べる。


 韓国を焦点とする東アジアの大乱の展望とそれにともなう東アジア共倒れの予感はそのごの歴史に照らして正しかったということができよう。東アジアの平和的な共同体の構想は、三国共通の平和思想として歴史の検証に耐えて生き残ったものである。また先人たちが東アジアの平和を実現するキー概念として韓国の独立を位置づけたことは、植民地主義の克服が違法戦争の清算とともに東アジアの平和秩序を作ろうとする試みにとって基本的な前提であることを示唆しているのではないだろうか。韓国併合一〇〇年の年にそのことをあらためて強調しておきたい。(p.95)


 「東アジア共倒れ」という表現は、侵略―被侵略という日本とアジアの敵対関係を覆い隠すものであり、「そのごの歴史に照らして正しかったということ」も到底できないと思うのだが。それはそれとして、石橋湛山が唱えていたという、「東アジアの平和的な共同体の構想」とは、どのようなものなのだろうか。再び社説を読んでみよう。

 「吾輩は思う、台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由解放の政策に出づるならば、それらの国民は決して日本から離るるものではない。彼らは必ず仰いで、日本を盟主とし、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき親密を続くるであろう。支那人・台湾人・朝鮮人の感情は、まさに然りである。彼らは、ただ日本人が、白人と一所になり、白人の真似をし、彼らを圧迫し、食い物にせんとしつつあることに憤慨しておるのである。彼らは、日本人がどうかこの態度を改め、同胞として、友として、彼らを遇せんことを望んでおる。しからば彼らは喜んで、日本の命を奉ずるものである。〔中略〕賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある、而して彼らの道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場とを十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山(たいざん)の安(やすき)を得るであろう。」(pp.114-115)

 ・・・・・・これまた「東アジア共同体」構想を一部先取りしたような主張であり、その限りにおいて石橋湛山には確かに「先見の明」があったとは思うが、こうした「東アジアの平和的な共同体の構想」が「三国共通の平和思想として歴史の検証に耐えて生き残った」というのは、どう考えてもおかしな話である(当たり前だが、被侵略国の民衆が「必ず仰いで、日本を盟主とし」たり、「喜んで、日本の命を奉ずる」筋合はどこにもない)。

 繰り返すが、石橋の同社説を根拠として、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」と主張する荒井氏の言説には、相当の無理がある、と言わざるを得ない。このことは原典を読めば明らかなのだから、荒井氏も理解していないはずはないと思う(▼7)


(6) 現代版「石橋湛山」としての『世界』の論調

 それではなぜ、荒井氏はこのように破綻した主張をする羽目に陥っているのだろうか?一つには、<抵抗>の歴史的経験と記憶を持つアジアに対するコンプレックスが挙げられると思うが、それだけでは説明がつかない(念のため書くと、日本人はこうしたコンプレックスを大いに持つべきである、と私は思う)。おそらく問題は、荒井氏の言説がリベラル・左派の自己肯定の欲望に寄り添ってしまっている点にあるのではないだろうか。日本にも「戦前」から受け継がれてきた「リベラル」な参照軸がある、と主張したがる人々にとって、「戦前」に植民地の放棄を唱え、「戦後」に首相にまで登り詰めた石橋湛山は、格好のモデルになるからである。例えば、金子文子のような<抵抗>を参照してしまえば、こう上手くはいかないだろう(▼8)

 「戦前」の石橋湛山に当たるのが、おそらく現在の朝日新聞であり、岩波書店であり、その他<佐藤優現象>に群がる「護憲派」である。彼ら・彼女らの多くは、すでに日本の植民地支配責任から勝手に撤退しており、(帝国の)「良心的」な立ち位置からアジアとの「和解」を願い、それを拒否するアジアの「反日」を憂えている。荒井氏がどこまで自覚的にこの潮流に乗っているかは、私には正確に判断できないが、実際ここ数年の荒井氏の言説には気になる点が多い(▼9)

 いずれにせよ、最近の『世界』の論調は、最大限好意的に見積もっても、現代版「石橋湛山」とでも言うべき「リベラル」なものである(▼10)。もっとも、『世界』では自衛隊海外派兵の恒久化に邁進する川端清隆が頻繁に活躍しているから、こうした評価も甘すぎるかもしれないが。


(7) おわりに

 以上から、『世界』があたかも「植民地支配責任と向き合」っているかのようなアピールは、やはり見掛け倒しであることが確認できた。岡本厚は今号の編集後記で民主党政権による辺野古「移設」案への回帰を批判して(それにしても、あれだけ民主党政権を礼讃してきた分際で、今さら何を言っているのか不思議だが)、「いずれにせよ、米国と同意したら、鳩山首相も担当閣僚も、それを県民、あるいは国民に説得しなければならない。しかし、「負担軽減」だの「環境配慮」だの、彼らの言葉を一体誰が信じるだろうか」と書いている。

 一向に自覚がないらしいところが本気で怖いが、その言葉は岡本ら『世界』編集部と岩波書店上層部にそのままお返ししよう。まったく、「平和」だの「人権」だの、彼らの言葉を一体誰が信じるだろうか。


▼5 これは邪推かもしれないが、荒井氏がこの社説の日付とタイトルを明記していないのは、読者が原典に当たることを好ましくないと考えているからではないだろうか。というのも、荒井氏は新聞記事からの他の引用に際しては出典(少なくとも発言の日付)を明らかにしているからである(▼7)

▼6 ちなみに、岩波文庫の表紙には次のようにある。

 「明治44年から敗戦直後まで,『東洋経済新報』において健筆を揮った石橋湛山(1889-1973)の評論は,普選問題,ロシア革命,三・一独立運動,満州事変等についての評論のどれをとっても,日本にほとんど比類のない自由主義の論調に貫かれており,非武装・非侵略という日本国憲法の精神を見事なまでに先取していた。39篇を精選。」

 こういうのを文字通り誇大広告と言うのではないだろうか。

▼7 本エントリーを書き終えた後に、ZEDさんのコメントを読んで気づいたが、荒井氏は佐高信の著作から引用部を孫引きしている可能性が高い。改めて確認したところ、引用部は正しくは、「もしが国にして支那またはシベリが縄張りしようとする野心を棄るならば、満州・台湾・朝鮮・樺太も入用でないという態度に出るならば、戦争は絶対に起こらない」(『石橋湛山評論集』、p.107)であり、下線を引いた七箇所も微妙に異なっている。ということは、荒井氏は必ずしも「読者が原典に当たることを好ましくないと考えている」わけではなく、そもそも原典に当たっていない可能性が高そうだ。どちらにしてもまったく誉められたものではないと思うが・・・。

▼8 『金子文子 わたしはわたし自身を生きる――手記・調書・歌・年譜』(鈴木裕子編、梨の木舎、2006年)参照。

 「金子文子は夫、朴烈と共に1923年、関東大震災朝鮮人虐殺事件の国家の責任逃れのため作られた大逆事件の被告にさせられて死刑判決を受けたあと、無期懲役になり、宇都宮刑務所に収監。獄中で、すさまじい転向強要を受けたが、それをきっぱり拒否して、26年獄中で自殺した。鈴木さんは獄中死した文子について、「死に急いだという一部の見解について」疑問を呈す。「はたしてそうだろうか。彼女は死に急いだわけではない。天皇制との対決に文字通り命をかけてたたかったのである。『わたしはわたし自身を生きる』ことを実践したと思う」と語る。」

 「文子が生きたのは、まさに日本が朝鮮を植民地支配下に置き、普通の日本人は朝鮮人をべっ視、差別し、虫ケラのように思っていた時代であった。その狂気の時代にあって、「左傾」し、朝鮮人のたたかいに共感した文子を理解できる日本人はほとんどいなかった。文子はそうした孤独の中でも、既成の価値観に妥協せず、自己に忠実に生き抜いたのだ。」

 朝鮮新報:「金子文子没後80年 記念出版 鈴木裕子さんに聞く」
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/06/0606j0908-00002.htm

▼9 例えば2004年9月2日に行われた以下の講演など。

 「〔前略〕日本人の集団買春問題とか、西安大学での文化祭問題とか、あるいは日本軍の遺棄した毒ガスの問題であるとかが中国内で次々に報道されて中国人の対日不信感をかきたてています。〔中略〕日本側でも、中国の存在感の増大、渡日中国人の犯罪の多発、凶悪化を背景に中国や中国人にたいする反発や極端な言論が報道される状況があります。こういうことで中日相互に大衆感情が悪化し、不信感が不信感を呼ぶ悪循環が始まりつつあるようにさえ思われます。」

 日本の<嫌中>と中国の「反日」ナショナリズムはどっちもどっち、という荒井氏の発言が、リベラル・左派の倫理的怠慢を助長するものであることは、論を待たない。

 「〔前略〕中国青年の対日印象の悪化は新幹線導入のような経済問題にまで影響するようになっていると思います。中国経済にとって非常に重要なインフラ整備の一環であります。こういう問題までが大衆感情というバリヤーに阻まれて円滑にいかない。私は遺棄毒ガスの問題でするどくあらわれたようにその根底に戦争被害の問題の未解決ということがあると思います。とくに遺棄毒ガスの問題については9月29日に東京地裁が日本政府の賠償責任を認めたばかりであるのに、実務的経費の支払いという名目で両国政府が合意し、中国風にいえば戦争遺留問題を積極的に解決しなかった。」

 アジア経済に対する日本の影響力を維持・強化するために(も)過去清算が必要であるという論理は、(日本の経済力の低下を必然的な帰結とする)植民地支配責任・侵略戦争責任の誠実な履行をかえって妨げる方向に作用するのではないだろうか。

 「歴史認識の問題としていえば、相互の歴史認識の違いを理由として相手を差別化するか、相互理解と粘りつよい対話によって違いをのりこえるか、今はその分かれ道であると思います。」

 どうして侵略者と被侵略者が「相互理解と粘りつよい対話によって違いをのりこえ」なければならないのだろうか?問題の解決は侵略者の側が変わること以外になく、被侵略者は妥協すべきではない。

 「抗日戦争記念館の出口には田中角栄首相の言葉と、村山談話の一節が大きくかかげてあります。これは中国側が戦争遺留問題を日中共同声明と村山談話の精神で解決したいという意思表示として私は受けとめています。しかしこの和解のプロセスはまだ成功していません。」

 中国政府の意図はともかく、(一般民衆を含む)「中国側」が「日中共同声明と村山談話の精神」を重んじているという表象は、端的に誤りである。

 「毒ガス問題の時に感じたのですが、中国の世論形成に、インターネットの比重が大きいことです。インターネットというのはその性質上、権力による統制にはおよそむかない。それだけに政府のコントロールから逸脱する可能性があります。下手をすると、日本との関係の不安定要因に発展する要素が常に存在するという状況があるわけです。

 そして、もしそういう形で日中関係が非常に不安定化すると、すでに小泉首相の靖国参拝問題で日中間の正常な外交関係が阻害されている現実があるわけですから、経済・安保の問題に影響して、日本にとってもおおきなマイナス要因となることは明らかです。新幹線の問題にその一端が現れています。日本の国益としても、〔引用者注:中国の〕「大衆ナショナリズム」に合理的な回路をつくるために、積極的に必要な役割を果たしていくことが、非常に重要になってきているといえるのではないでしょうか。」

 731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟:「最近の中日関係に思う」
 http://www.anti731saikinsen.net/nicchu/kouenroku/arai.html

 しつこく再掲するが、「遅くとも民主党政権成立以降、戦後補償を求める日本の左派の言説は、極言すれば、アジア諸国の「反日」感情を飼い馴らして「和解」を実現するための有益な投資として「戦後補償」が必要である、というものになっており、民主党の東アジア共同体構想や日韓「和解」キャンペーンにも無理なく回収されてしまったようである」。

▼10 外国人労働者に対する石橋湛山の露骨なレイシズムも参照しておこう。

 「我が国にしても、風俗・習慣・言語を異にし、しかも余り教養のなき外国の労働者が、多数に部落をなして国内に住むとすれば、随分迷惑を感ずるであろう。」(『石橋湛山評論集』、p.118)

植民地支配責任から撤退する左派 (前半)――『世界』の場合

■目次
(1) はじめに
(2) 再論:「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性を問う
(3) 三・一独立運動と五・四運動と「小日本主義」?
(4) 植民地なき植民地主義――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判①
(5) 「東アジア共同体」構想の原点?――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判②
(6) 現代版「石橋湛山」としての『世界』の論調
(7) おわりに


(1) はじめに

 『世界』の最新号(2010年7月号)に、「韓国併合」無効などを確認する日韓知識人の共同声明(「「韓国併合」100年 日韓知識人共同声明」)が掲載されている。今号の『世界』には、「声明」の発起人であり立役者である和田春樹と荒井信一による解説文(和田春樹、「日韓知識人共同声明の発表にあたって」)および論考(荒井信一、「植民地支配責任と向き合うために」)も併載されており、『世界』があたかも「植民地支配責任と向き合」っているかのようなアピールがなされている。

 このアピールが見掛け倒しであることは、ごく最近の一例では『世界』6月号に登場した遠藤哲也の論文を思い起こすだけで明らかだろうが、今回の荒井氏の論考に関しても、「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性について執拗に指摘してきた立場上、不本意ながら批判せざるを得ない。


(2) 再論:「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性を問う

 荒井氏に対する私の批判は、必然的に過去のエントリーと重複する点が多いので、以下については手短に済ませよう。

1.「東アジア共同体」構築の手段としての過去清算の位置づけ

 以前述べたことの繰り返しになるが、「遅くとも民主党政権成立以降、戦後補償を求める日本の左派の言説は、極言すれば、アジア諸国の「反日」感情を飼い馴らして「和解」を実現するための有益な投資として「戦後補償」が必要である、というものになっており、民主党の東アジア共同体構想や日韓「和解」キャンペーンにも無理なく回収されてしまったようである」。

 荒井氏は本稿で、民主党政権による東アジア共同体構想を、「東アジア全体の冷戦体制の克服、平和的発展の可能性を広げるおおきな機会ともなることが期待される」(p.93)とまで評価する一方で、アジアの「反日」ナショナリズムへの警戒をさりげなく呼びかけている(p.93、p.96)。荒井氏は、「〔引用者注:東アジア共同体を推進する上での〕問題は、未来志向の立場から現在の問題を整理し、諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくことであろう」(p.93)と述べ、日本の植民地支配責任・侵略戦争責任の履行を、民主党政権下における「東アジア共同体」構築の手段として位置づけ、日本国民による植民地主義的・帝国主義的ナショナリズムの克服なきアジアとの「和解」を訴えているように、残念ながら思われる(▼1)

 まさに本末転倒の論理であり、高校「無償化」の適用対象から朝鮮学校が排除された後でなお、民主党政権が「東アジア全体の冷戦体制の克服」や「平和的発展」を推進しうる、と荒井氏が本気で考えているらしいことにも、正直言って大変困惑させられる。

2.官僚を主要敵とする植民地支配未清算論

 これもすでに指摘したことだが、荒井氏も植民地支配の未清算の責任をもっぱら官僚に押しつけようとしているように見える。官僚を主要敵として、「政治家の高度の関与とリーダーシップ」が植民地支配の清算に不可欠であるとする荒井氏の論理は、それ自体危ういものだと言わざるを得ないが、とりわけ現在の政治情勢のもとでは、解釈改憲を可能にする小沢一郎主導の国会法改定に対するリベラル・左派の批判を、より一層弱める働きをするのではないか、と危惧される(▼2)

3.村山談話、日朝平壌宣言に対する肯定的評価

 荒井氏は、村山談話や日朝平壌宣言について、「さまざまな限界はありながら、すくなくともレトリックの上では日本政府は、植民地支配の加害責任を公式に認めた」として、「このことは四〇年の歴史における大きな変化である」(p.100)と肯定的に評価している。どうやら何度でも繰り返さなければならないようだが、宮沢談話にせよ村山談話にせよ日韓パートナーシップ共同宣言にせよ、すべては日本国家の法的責任の否認を貫徹した上での「道義的」な「お詫び」にすぎない。日本政府が植民地支配の法的責任を認めたことは、「四〇年の歴史」を通じて一度もない。「レトリックの上で」さえないのである。

 荒井氏は上記に続けて「問題はこの責任を日本政府がいかに果たすかである。それが日韓和解の前提になる。その場合、まず韓国の主張する旧条約無効の主張を日本政府が認めることが出発点になる」(p.100)と論じている。日本政府は法的責任の否認の上に成り立つ「道義的責任」しか認めていないのだから、「この責任を日本政府が・・・果たす〔引用者注:「道義的責任」を果たす〕」ために「旧条約無効の主張を・・・認める〔引用者注:法的責任を認める〕ことが出発点になる」という荒井氏の主張は、端的に言って、あまり説得的ではないだろう。(▼3)

4.日韓「和解」の落としどころとしての「促進法」

 以上から当然予期されるように、本稿の結論は、「当面の課題としては、現在日本の国会に上程されている戦時性的強制被害者補償のための法案、国会図書館法改正案(平和調査会法案)の制定を実現することが、北東アジアの和解への大きな一歩となろう」というものである。荒井氏は、「基金による一括解決も選択肢にはいるが、アジア女性基金の失敗から学ぶことが重要である」とも述べており(▼4)より完璧な「国民基金」の必要性を主張しているようにすら受け取れる発言をしている。いずれにせよ、荒井氏および『世界』編集部は、日韓「和解」の落としどころを「促進法」(第二の「国民基金」)に求めているわけであり、強く批判せざるを得ない。


(3) 三・一独立運動と五・四運動と「小日本主義」?

 さて、これらを前提とした上で、荒井氏の論考で私が最も問題だと思うのは、次の箇所である。


 日本は第二次日韓協約(乙巳条約)により韓国の保護国化をすすめ、最後には韓国併合条約(一九一〇年八月二二日)によって韓国を植民地化した。韓国併合一〇〇年目を迎えるときに、日本の首相が東アジア共同体の構築を提唱したことの意義をおもく見たい。それは最初の世界戦争が終り、あたらしい平和秩序の構築が問題となった一九一九年に、日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていたからである。(p.94)


 ここで荒井氏は、三・一独立運動と五・四運動と並べて、石橋湛山の「小日本主義」を挙げて、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」ことの論拠にしている。


 日本でもワシントン会議をひかえた二一年夏、東洋経済新報の社説で石橋湛山(のち一九五六年に首相)は「もしわが国にして支那〔中国〕またはシベリアをわが縄張りにしようとする野心を棄てるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太も必要ないという態度に出るならば、戦争は絶対に起こらない」と述べ、侵略と植民地の放棄を東アジアの平和の大前提とした。(p.95)


 三・一独立運動も五・四運動も、朝鮮と中国の民衆による広汎な反植民地主義・反帝国主義運動であり、石橋の一社説を持ち出して、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」と主張すること自体、あまりにも無理がある、と言わざるを得ない。けれども、それ以上に私が問題だと思うのは、上記の社説をあたかも反植民地主義・反帝国主義の主張であるかのように語る、荒井氏の「レトリック」である。これは原典に当たりさえすれば容易にわかることだが、石橋は植民地の放棄を訴えてはいるが、植民地主義の放棄を訴えてはいないのである。

(後半に続く)


▼1 強調は引用者による。以下同様。

 鳩山由紀夫首相は就任早々、中国胡錦濤主席との会談で、「日中の違いを乗り越えて信頼関係を構築し、東アジア全体の共同体を構築したい」と提案した。同様の提案は韓国に対してもなされ、東アジア共同体の構築が三国共通の課題として急速に表面化した。

 東アジアは、冷戦という過去の清算がもっとも遅れていた地域のひとつであったが、日本における政変が単なる政変の域をこえ、東アジア全体の冷戦体制の克服、平和的発展の可能性を広げるおおきな機会ともなることが期待される。

 東アジアにおける共同体への展望を可能にした基盤はいうまでもなく経済的諸関係の発展と緊密化であり、ヒトとモノ、カネの広範な移動と交流である。同時に急激な社会的経済的変化と格差の拡大などにさらされつつある地域の人たちの文化的心情的な側面、とくにナショナリズムの問題に留意する必要がある。しかしまた「韓流ブーム」のように大衆文化の相互浸透が社会間の距離を縮め、相互に等身大の理解を広めつつあることも無視できない。問題は、未来志向の立場から現在の問題を整理し、諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくことであろう。(p.93)


 「急激な社会的経済的変化と格差の拡大などにさらされつつある地域の人たちの文化的心情的な側面、とくにナショナリズムの問題」という、主体を(おそらく意図的に)曖昧にした問題提起は、自らの植民地主義的・帝国主義的ナショナリズムを決して解体しようとしない、「国益」論的再編成後のリベラル・左派にも受け入れやすいものだろう(このような表象においては、日本ナショナリズムの問題は、せいぜい貧困層に特有の問題として処理できるため)。「問題は〔中略〕諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくこと」ではなく、日本国民の植民地主義的・帝国主義的「意識、生活や歴史、文化を」徹底的に変えていくことではないのか。


二〇〇五年、日本政府が国連安保理事会の常任理事国入りを要求したのにたいして、中国で日本の常任理事国入りに反対する署名がネット上で二〇〇〇万人分を超えた。署名は「反日」というよりは、アジアの人々の信頼を得るために日本が歴史問題に正しい態度をとるべきだという趣旨であった。中国人の語感からすれば、日本の国連安保常任理事国入りは、日本が過去の戦争の清算をしないままに連合国の中枢にのしあがる不条理に映じたのである。(p.96)


 別に「中国人の語感」に限らず、反植民地主義の普遍的立場からすれば、「日本が過去の戦争の清算をしないままに連合国の中枢にのしあがる」ことは「不条理」そのものである。荒井氏は、中国の民衆による「反日」と日本への過去清算請求を相互排他的に捉えた上で、中国の民衆(の一部)が「反日」であることを否定していない。第二の「国民基金」を首肯しない被害国・被害者の声を「反日」的論調として片付けようとする「慰安婦」立法推進派の論理に、荒井氏も与してしまうのだろうか?

▼2 

 一般的にいって戦後日本の政策決定には官僚制の影響力が強い。官僚制は行政組織を縦割りに分割し権限と責任を分割する。七〇年代に入り、外交のような高次の政策決定に首相官邸が積極的に関与し、官僚制と一定の距離を置いて政策決定をリードする例があらわれた。日中関係での田中首相と中曽根首相の政治手法がその例である。九〇年代の村山首相にもこの方法は受け継がれた。

 上述の政治文書〔引用者注:「これまで日本が公約してきた宮沢官房長官談話(一九八二年)、村山富市首相談話(一九九五年)、日韓パートナーシップ共同宣言(一九九八年)などの約束や趣旨」(pp.98-99)〕にあらわれた国家間の合意は政治家の高度の関与とリーダーシップの産物であった。しかし今世紀にかけて自民党は単独では政権を維持できなくなり、与党の統治能力は劣化した。その間、歴史問題については、文科省も外務省も上記の政治合意を一見尊重する姿勢をしめしながら実質的にはタテマエ化することで骨抜きにしつづけた。その結果、歴史問題を共同で解決しようとする強い政治意思と統合的な歴史政策を明確にしめせないままに周辺諸国の反発と不信を増幅させる状況があった。(pp.99-100)


 自民党の単独政権時代はそう悪くなかった、と言っているように読めるのだが、気のせいだろうか。

▼3 さらに遺憾なことに、「声明」も同様の論理展開になっている。


 現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代に入って、河野官房長官談話 (1993年)、村山総理談話 (1995年)、日韓共同宣言 (1998年)、日朝平壌宣言 (2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。

 なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強制的なものだった」と認めている。村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。

 そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約について判断を示し、日韓基本条約第2条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提をなしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められている。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。


 「韓国併合」100年 日韓知識人共同声明
 http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/07/105.html

▼4 

 日本政府が旧条約無効を認めた場合、文言は上述の諸宣言の表現でもよいが、むしろ実質的な謝罪と補償をどうするかが問題である。謝罪にはまず真相究明などのプロセスが不可欠である。まず日韓会談の議事録等、政府所有の歴史文書の機密解除と公開、韓国の真相糾明の動きへの協力等からはじめなければならない。補償は謝罪・真相糾明と連動するが、何らかの財の移動(物質的措置)が必要である。基金による一括解決も選択肢にはいるが、アジア女性基金の失敗から学ぶことが重要である。当面の課題としては、現在日本の国会に上程されている戦時性的強制被害者補償のための法案、国会図書館法改正案(平和調査会法案)の制定を実現することが、北東アジアの和解への大きな一歩となろう。(p.102)


 「実質的な謝罪と補償」に責任者処罰が含まれていない点も気になるところである。なお、荒井氏は誤解しているようであるが、「促進法」が上程されたのは、第169回国会(常会、2008年1月18日~6月21日、参議院)が最後であり、今国会でも法案は上程されていない。

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (4)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(2-4) 他民族を無視する「国民の正史」

 「雨宮史観」の独善性の基調をなしているのは、日本人の「主体性」に対するナイーブな信仰と、それと対を成す徹底的なアジア人無視(「軽視」ではない)である。その端的な例が、植民地官僚に対する雨宮の手放しの評価だろう。

 雨宮は、「人々は敗戦をどのように迎えたのだろうか。呆然としていたとか、ホッとしたとか、皇居前で土下座をして天皇にお詫びをしたとか言われているが、これは情報がほとんど与えられない、あるいは情報をほとんど得ることができない人々の行動様式である。現実がどう動いていたかを考えるためには、さまざまなレベルの指導者たちの行動に着目する必要がある」(p.95)と述べ、「満州国などの支配管理をおこなってきた人々や外務官僚たちが、敗戦後を構想して、意外に早い段階で動きはじめている」(p.97)ことを、何やら好意的に紹介しているのであった。

 確かに「満州国などの支配管理をおこなってきた人々や外務官僚たち」は、「敗戦後を構想して、意外に早い段階で」、重要資料の隠蔽工作と植民地における財産の処分を済ませて、安全地帯への遁走を図っていたのだが・・・。「雨宮史観」の特徴の一つは、日本人が何か「主体的」に動いていさえすれば、それだけで肯定的な評価が与えられてしまう点にあるようだ。もうどうしようもないな。

 同様の例をもう一つ紹介しておくと、雨宮は、「戦後」の選挙法改定について、「内務官僚を中心にして立案されたもので、婦人参政権の付与、選挙権、被選挙権の年齢のそれぞれ二〇歳、二五歳への引き下げ、大選挙区制、制限連記制の採用、在日の旧植民地の人々の選挙権からの除外、などを骨子としたものであり、いずれも日本側が主導権をとっておこなった」(p.115)と述べており、朝鮮人からの選挙権剥奪を含む選挙法改定を、「占領がなくても改革は進行したという問題の主体的な条件」(p.94)の傍証として無批判に評価している。

 もっとも、「戦前」と「戦後」の連続性と、日本人の「主体性」を無条件に賛美するのであれば、雨宮がどこまでそれを表面化するかは別として、侵略と植民地主義、民族差別こそがその要にならざるを得ないだろう。雨宮は本書で「戦後の一〇年」(巻末年表では1944年から1956年まで)を扱っているが、本書には「朝鮮人」という言葉は一度も出てこない。当然ながら、解放後の在日朝鮮人運動とその弾圧(帰国運動、「政治犯」釈放運動、労働争議、「外国人登録令」反対闘争、南朝鮮単独選挙反対運動、生活権擁護闘争、民族教育、強制送還反対闘争、「韓日会談」反対運動・・・)についてもまったく触れられておらず(「外国人登録令」公布や阪神教育闘争、朝連の強制解散さえ完全に無視されている)、唯一、「1951(昭和26)10 出入国管理令公布」という一行が年表に見られるだけである(▼6)。もちろん、朝鮮民族以外の他民族に関する言及も皆無である。

 雨宮は「一九五〇年代の日本社会」を「ノスタルジアの対象」(p.181)として語っている(▼7)。雨宮の「ノスタルジア」には朝鮮戦争や日本政府による在日朝鮮人弾圧も含まれているのだろうか。1950年代を「ノスタルジアの対象」にすることは、植民地支配時代を懐かしむことと同様、日本人には決して許されないことである、と私は思う。

 なお、こうした他民族無視の歴史叙述――「国民の正史」の立ち上げ――は、雨宮に限らず、本シリーズの「戦後」史に通底する問題であるため、次章以降でも引き続き検討していく。


(2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?

 やや蛇足的に付言しておくと、雨宮は本シリーズの⑩『日本の近現代史をどう見るか』の第7章で、本書に対して「合評会などを通しての学界は勿論、出版関係者、マスコミ、現役の高校や中学の先生方、各地域の近現代史研究会、学生、自治体や公民館の職員などの皆さん」から「いただ」いた「たくさんのご意見」(p.168)について言及している。要するに、「戦前」との連続性を絶賛する歴史観を読者に叩かれたために、ひたすらその言い訳をしているだけなのだが、その中でも一際浮いている一節があった。雨宮は以下で、自身の「研究」について言及した道場親信のコラムを取り上げているブロガーのエントリーを、自説を補強するために引用している。


 著者も最近では、協同主義社会が解体されて自由主義社会になるという捉え方よりも、前述のようにコミュニティーとアソシエーションは、共時的に存在しているという立場に立ちつつあります。〔中略〕一九五〇年代の、国家や資本から自立した多用な空間=コミュニティーが、サークルなどによってこの表現への欲望を出発点としつつ集団のダイナミズムにつながり、分断された個が欲望を通じて共同性を編み出していく、との指摘がありました(前掲、道場〔道場親信「五〇年代日本 サークル運動の意味」、『朝日新聞』2009年11月26日夕刊〕)。これに対し、最近のあるブログ(Katsunontheweb 二〇〇九年一一月二七日)では“まるでウェブ2.0〔双方向の通信〕について語っているみたいだ!”“「国家や資本から自立した多様な空間=コミュニティー」が仮に、21世紀になってウェブ上に勃興しているとすると”などとも指摘されています。このウェブにおける相互扶助もふくめたコミュニティーの存在、連続性、継続性は注目すべきことだと思います。(pp.176-177)


 ネットで検索すればすぐにわかるように、このブログは「はてな」である。「はてな」で自説(「ウェブにおける相互扶助もふくめたコミュニティー」の評価)を補強しようとする岩波書店の著者に対しては、個人的には哀愁を感じないこともないが、それ自体は別にどうでもよい。気になるのは、このブロガーがどのような人物であるかということである。同ブログの2010年2月13日付エントリーのコメント欄を覗いてみよう。


逆に言うと、「参政権を付与しない」程度のことじゃ、“反日勢力”の力を削ぐことはできませんよ。多分。
もっと踏み込んだ「反日勢力への対抗策」が必要なんだ、ということであれば、別の方法を探るべきだろう、というのがこのエントリーの主旨です。
スパイ防止法を作ろう、という議論があってもいいと思います。それは、参政権付与とのバーターであってもいいと思います。
アメリカの市民権獲得には、簡単なペーパーテストみたいなのがあって、あくまで文面上ですが、アメリカへの愛国心が問われる、という話を聞いたことがあります。そういう手続きが日本の帰化手続きにあってもいいと思います。


 チダカツ on the WeBLOG:「「外国人地方参政権」と「内政干渉」」
 http://d.hatena.ne.jp/katsuontheweb/20100213

 ・・・・・・雨宮はこんなブロガー(「はてな」右派)のエントリーをありがたがっているのであった。雨宮が賛美する「ウェブにおける相互扶助」とやらは、あからさまにネット右翼の「相互扶助」を含むようである。雨宮といい、岩波書店といい、一体どこまで堕ちているのだろうか。


▼6 さすがに朝鮮戦争に関しては本文でも取り上げられているが、日本の朝鮮戦争への加担と、その特需による経済復興は、まったくなかったことにされているようである。


 朝鮮戦争勃発直後の五〇年七月八日、マッカーサーは日本政府に対して七万五〇〇〇人の警察予備隊を結成することを指令した。警察予備隊は五二年一〇月保安隊に、五四年七月には自衛隊に改組され、「再軍備」はすすんだ。しかしアメリカが意図した大規模な再軍備にはならず、憲法改正への道もひらかれなかった。〔中略〕まず大規模な再軍備による経済の軍事化をおこなわなかったがゆえに、その後、民需中心の経済が展開され、憲法改正を阻止することにもなった。(p.180)



▼7 正確に言えば、「ノスタルジアの対象」として語ると同時に、単なる「ノスタルジアの対象」を超えたメタ(?)「ノスタルジアの対象」として語っている。


 占領が終わった一九五〇年代については、「なつかしい時代」としてノスタルジアの対象になることが多いが、はたしてそれだけの意味しかない時代なのだろうか。この時代を一定の普遍性をもつ固有な社会としてみる必要があるのではないか。そのことを農民、漁民、都市労働者、子どもなどの実態を通して考えてみたい。(p.181)



 五〇年代には、子どもたちはおおむね「ガキ大将」に率いられた地域の遊び集団に属していた。学級やクラブとは異質の、地域単位で年長から年少の「みそっかす」に到るまで異年齢の縦集団のなかで、べーごま、めんこ、石けりなど伝承遊びのルールや技術、さらに集団行動における個人の役割や勝負の厳しさなど、人間社会の「掟」の原型を身につけていった。この遊び集団は大人の指導や管理から解放された、大人立ち入り禁止の「子ども共和国」であり、大人社会から比較的自由であった。(p.185)


 個人的体験が時代の「一定の普遍性」を映し出さないわけではないにせよ、このあたりは単に雨宮の昔話ではないのか、という気もする(ジェンダー的なバイアスも、とても見過ごすことはできない)。

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