「アジア主義」批判 Archive

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「アジア主義」再評価論批判④――竹内好と日本のアイヒマン(1)

【7/27 追記】環境によって文字化けするため、チョンポンジュンの表記を漢字から片仮名に差し替えました。

 では、竹内好が「アジア主義」再評価に即して歴史を独創的に「修正」していく手法について、内田良平を例に検討を重ねていこう。内田良平は竹内が「樽井藤吉の創見を継承した」として大いに再評価している人物である。

 鄭敬謨氏は自著『日本を問う』(原題は「どう生きるべきか――在日朝鮮人二世・三世への提言」)で、朝鮮人が内田良平を「知らないとすれば、それは例えばユダヤ人にしてアイヒマンの名前を知らないのと五十歩百歩」(鄭敬謨、『日本を問う』、径書房、1985年、p.92)であると指摘されている(強調は引用者による。以下同様)。とすると、日本人が内田良平を「知らないとすれば、それは例えばドイツ人にしてアイヒマンの名前を知らないのと五十歩百歩」だということになるわけだ。内田の経歴紹介を兼ねて、同書から引用させていただこう。

 「いわゆる日韓合併のとき一進会という売国組織を造り、ときの日本政府に対し一日もはやくわが朝鮮を日本の版図の中に入れてくれるよう「合併請願」運動をやったのが、李容九とか宋秉とかのやからですが(「シアレヒム」六号参照)、これらの売国奴どもを背後から操りながら、この運動を牛耳っていたのが、内田良平です。

 彼はすでに明治三三年(一九〇〇年)、黒龍会なる国家主義団体をつくり、「大陸浪人」どもを狩り集め、日本のアジア侵略のためにその先鋒の役をつとめた人物でもあるのですが、この人物は関東大震災のときの朝鮮人虐殺について、次のような発言をしております。

 「彼(か)の不逞鮮人が赤化主義の徒と相策応し、我が国の不幸に乗じて或は爆弾を罹災民の家屋に投じ、或は毒素を飲料水に入れ、或は無辜の老若男女に対し暴行を逞ふしたことは人道上断じて恕す可からざる罪悪にして、我が官民が危急の場合、之を殴殺するの挙に出でたのは実に已むを得ざる自衛の手段に外ならぬのである。決して之を常軌に逸したる行為のみと断言することは出来ぬ」(橋本健午『父は祖国を売ったか』より引用)

 この同じ人物が日本の国家理念については、次のように発言をしております。

 「日本帝国の天職は、八紘一宇(はっこういちう)」の精神にもとづいて行政改革や軍備の拡充をはかり、アジア大陸の人文を開発することによって、大日本の基礎を建設し、世界の平和に貢献することにある」

 以上は教育社文庫『日本のファシズム』(栄沢幸二)からの引用ですが、この本が「日本ファシズムの源流」だと断定している内田良平の頭脳の中に、日本の国家理想としての「八紘一宇」の精神と、「朝鮮人殴殺は日本人の自衛の手段であり常軌を逸した行為ではない」という思想が共存している点に注目して下さい。」(pp.92-92)

 続いて竹内好の「アジア主義の展望」を読んでみよう(便宜上、文中に番号を割り振った)。


 (1)樽井の創見を継承したものは、大井憲太郎ではなくて、内田良平である。(2)彼は天佑侠を通じて李容九と結んだ。(3)李は『大東合邦論』の趣旨にもとづく合邦を条件として、内田と協力し、東学党の後身である一進会の農民組織をあげて請願運動をおこした。(4)そして日本政府に裏切られたと知ったとき、授爵を断って、須磨で憤死した。(5)この間の経緯は黒龍会『日韓合邦秘史』(上下、一九三〇年刊)およびその縮約である内田自身の「日韓合邦」に詳しい。

 (6)内田は「思想」として侵略主義ではあるが、李容九と朝鮮の農民に対する日本政府の背信に責任を感じ、そのつぐないの一部として『日韓合邦秘史』を出版し、「日韓合邦記念碑」を立てて、その碑に李完用(併合当時の総理大臣)の名をけずって李容九の名を加えたかぎりにおいて、やはりアジア主義者だった。

 (7)李容九の遺児李碩奎は日本名を大東国男と名のっている。けだし「大東国」の記念である。彼には『李容九の生涯』(一九六〇年、時事新書)の著がある。今日の朝鮮で、伊藤博文を倒した安重根が愛国者で、父親の李容九が売国奴の汚名を着ているのを不当として、汚名をそそぎたい動機で書かれた本である。(8)李容九の政治的判断の誤りは誤りとして、汚名をそそぐ連帯責任はわれわれにもあるだろう。(『アジア主義』、pp.36-37)


 結論から述べれば、上記引用部の(1)から(7)のうち、史実の歪曲または捏造を含まないと言える叙述は、わずかに(7)のみであるように思う。(8)の厚顔無恥な結論部分と合わせて歴史修正主義のベタな見本と言えるのではないだろうか。

 では、順を追って説明していこう。なお、以下は主に姜在彦による竹内批判(「大陸浪人におけるアジア主義と朝鮮問題――その一典型としての内田良平の思想と行動――」、『朝鮮近代史研究』、日本評論社、1970年)に依拠しているので、より体系的な解説を望む読者には、同書を直接読まれることをお勧めしたい。

(1)「樽井の創見を継承したものは、大井憲太郎ではなくて、内田良平である。」

 樽井藤吉が、『大東合邦論』再版で、日本の朝鮮植民地支配を、「第二第三」に留まらず「第十第百」から「無限」に続くらしい、天皇制国家によるアジア(世界?)支配の第「一歩」として、全力で礼賛していることは、前回述べた通りである。「樽井の創見を継承したものは・・・内田良平である」という主張は、「(対等な)合邦」という空虚なスローガンを掲げて天皇制政府の朝鮮侵略を先取りした(樽井が「大東合邦論」を発表したのは日清戦争前の1981年である)点においては成り立つかもしれないが、「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」の傍証としては、(後述の理由からも)完全に破綻していると言わざるを得ない。

(2)「彼は天佑侠を通じて李容九と結んだ。」

 この点に関して、竹内は「アジア主義の展望」で次のように「解説」し、「朝鮮における一八九四年の農民蜂起のとき、その指導者である李容九は、日本のアジア主義者である内田良平と結ばれたという、史実とは全くかけはなれた虚構のうえにたって、「それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった」ようにえがいている」(『朝鮮近代史研究』、pp.341-342)。


〔前略〕日清間の風雲が急になると、玄洋社は天佑侠という秘密組織をつくって朝鮮へ送り込み、東学党と連絡をとって戦争を挑発した。この陰謀の中心人物は、内田良平のほかに、武田範之、鈴木天眼らである。東学党は元来、民間信仰を中心とする農民組織であって、清国の義和団とおなじく徹底した排外主義だが、この農民蜂起を助けて日本の味方にしたということが天佑侠の自慢の種であって、『東亜先覚志士紀伝』でも天佑侠の項はとくに詳しい。東学党は連絡不十分のため日本軍の攻撃を受け、指導者のチョンポンジュンや李容九は負傷する(チョンポンジュンはのちに刑死)。天佑侠も日本官憲から追われる身となる。しかし、このために農民運動の指導者と日本の「志士」の間に意志の疎通ができた。それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった。

 〔前略〕この時点ではともかく農民との結合が考えられており、やはり一種のアジア主義の発現形態と見なければならない。少なくとも主観的には、挑発だけが目的ではなく、連帯の意識がはたらいていた。そして利欲は眼中になかった。もし利欲が目的なら、生命の危険をおかすはずがない。また、チョンポンジュンや李容九のような排外主義者の信頼をかちえるはずがない。(『アジア主義』、pp.27-28)


 何やら事情通ぶった断定口調が続いているが、梶村秀樹らの聞き取り調査によれば、天佑侠はチョンポンジュンらと会見できたかどうかすら疑わしいというのが真相であるようだ(▼7)天佑侠が朝鮮に侵入したのも、そもそもが東学党を利用して日本の国権発揚を謀るためであり、しかも彼らが「チョンポンジュンを指導者とする農民軍の陣営にもぐりこんだのは、すでに政府軍との間に全州和約ができて一時休戦状態にあった七月初旬」(『朝鮮近代史研究』、p.348)だったという。彼らが「生命の危険をおかすはずがない」という、その一節だけを取り上げれば、確かに竹内は正しいことを言っているわけである(▼8)

 「そもそも天佑侠グループがチョンポンジュンにあったのは、連帯のための共闘が目的であったのだろうか。玄洋社の三傑の一人といわれる頭山満にきくことにしよう。「天佑侠とは、そもそも何者ぞ。端的にいえば川上将軍(日清戦争当時の参謀次長川上操六のこと……引用者)のいわゆる『火付け役』であった。……時たま東学党の騒乱が各地に勃発したので……東学党を助けて、その騒乱を助長せんことを決議し、もって帝国の大事決行の種まきをしようとしたのである。〔藤本尚則『巨人頭山満』四四七~八頁〕

 チョンポンジュンがこういう浪人グループの関与を許さなかったのは賢明であったし、革命的農民指導者としての面目躍如たるものがある。軍国主義の別働隊、侵略と戦争の「火付役」――こういう天佑侠の活動にこそ、アジア主義の具体的な表現の一端をみることができる。」(『朝鮮近代史研究』、p.349)

 また、竹内は李容九を朝鮮の「農民運動の指導者」であるかのように描いているが、これも何を根拠にしているのか甚だ謎である。

 「甲午農民戦争は〔中略〕「東学党」を主体にした農民戦争ではなく、チョンポンジュン、孫和中、金開男らによって指導され、農民を主体とする農民戦争であり、「斥倭洋」の反侵略と、「権貴滅尽」の反封建をかかげた「保国安民」の救国闘争であった。それに東学の影響をうけた広汎な農民が参加したのはもちろんである。チョンポンジュンが湖南地方(全羅道)を中心として農民戦争を指導していたさい(内田は、全羅道の淳昌でチョンポンジュンとあった)、東学第二代教主崔時亨およびその幕下の孫秉煕、李容九らは湖西(忠清北道)にいながら、チョンポンジュンらの農民蜂起に反対した。一八九四年一一月、日本軍および政府軍の連合部隊との間に、忠清道公州においてさいごの決戦が迫っていたときでさえ、崔時亨一味は「南伐旗」をかかげ、通文を発して「乱をもって道をうったえるのはかんばしくない。湖南のチョンポンジュンと湖西の徐璋玉は国家の逆賊であり、師門の乱賊である。われわれはすみやかにこれを討つべし」とした。ところが農民がそれに呼応しないばかりか、湖南のたたかう農民に連帯行動をもってたちあがったとき、崔時亨一味は「人心則天心」であるから、チョンポンジュンに協力するようにしたが、公州の決戦にさいして孫秉煕、李容九らはほとんど戦わずして雲がくれしたために、かえって農民軍内部の混乱を助長し、農民軍敗北の重要な一因となったのである。〔姜在彦「朝鮮における封建体制の解体と農民戦争」(『歴史学研究』一九五四年七月・十一月号)〕」(『朝鮮近代史研究』、pp.348-349)

 注釈を含めてずいぶん長くなってしまったが、以上を踏まえて、もう一度だけ(2)に関する竹内の講釈をおさらいしておこう。


〔前略〕日清間の風雲が急になると、玄洋社は天佑侠という秘密組織をつくって朝鮮へ送り込み、東学党と連絡をとって戦争を挑発した。この陰謀の中心人物は、内田良平のほかに、武田範之、鈴木天眼らである。東学党は元来、民間信仰を中心とする農民組織であって、清国の義和団とおなじく徹底した排外主義だが、この農民蜂起を助けて日本の味方にしたということが天佑侠の自慢の種であって、『東亜先覚志士紀伝』でも天佑侠の項はとくに詳しい。東学党は連絡不十分のため日本軍の攻撃を受け、指導者のチョンポンジュンや李容九は負傷する(チョンポンジュンはのちに刑死)。天佑侠も日本官憲から追われる身となる。しかし、このために農民運動の指導者と日本の「志士」の間に意志の疎通ができた。それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった。

 〔前略〕この時点ではともかく農民との結合が考えられており、やはり一種のアジア主義の発現形態と見なければならない。少なくとも主観的には、挑発だけが目的ではなく、連帯の意識がはたらいていた。そして利欲は眼中になかった。もし利欲が目的なら、生命の危険をおかすはずがない。また、チョンポンジュンや李容九のような排外主義者の信頼をかちえるはずがない。(『アジア主義』、pp.27-28)


 よくもまあこれほど適当なことを言い続けられるものだと感心するが(おかげで私の竹内批判も当分終わりそうにない)、チョンポンジュンを「排外主義者」呼ばわりする(元)侵略者の思想レベルなど、もともとこの程度のものなのかもしれない。


▼7 「かなり最近まで、天佑侠が東学といっしょになって朝鮮で反権力の闘いをした事実があるのだという受けとり方が普遍的にあり、学者が書いた本や、アカデミックな書物の中でも事実として触れられているものが、戦後になっても少なからずある。ところが、事実はどうであったかというと、幸いにしてぼくは数年前、天佑侠の唯一人の生き残りの人にお会いすることができました。

 『天佑侠』という本に井上藤三郎という紅顔の美少年が登場します。その人は――他の人は死んでしまったのですが――最年少であまり細かいことは分からず偶然参加するいきさつになった人で、いま幸せな晩年を送っているようには見えませんでした。身体もちょっと不自由でしたが、頭の方は非常に明晰で率直に記憶を語ってくれました。我我は、天佑侠が一体なんのために朝鮮へ行ったのかについての疑問はふせておきまして、つまり誘導尋問にならないように気をつけながら率直にお話を伺いたいという姿勢で話してもらったのですが、その結果出てきたのは結論的に言ってこういうことです。

 朝鮮の東学軍といっしょになろうと意図して朝鮮に行ったことは事実だけれども、ついに行きあえず参加できなかった。仕方がないから東学軍の活動していた中心地域をそのまま通りぬけてソウルへ行ってしまった。そこで後の一進会を作る手がかりが得られたわけで、戦闘に参加したことは全然ありません、ときわめて正直な話でありました。一度だけ内田良平たち重立った人間が二、三人東学の部隊が駐屯しているところがあるから話をしに行くと言って出かけて行ったことがあるが、その時は断わられたようで、そのまま帰ってきたことがあったようだとのことです。

 なんのために朝鮮に渡ったのですかということについて、井上さんがあまり警戒心もなしに正直に語ってくれたところによりますと、「問題は清国だよ」ということでした。つまり朝鮮の民衆が苦しんでいる、これを助けようなんていうあとからつけた理屈は、井上氏の記憶からは出てこない。清国が朝鮮で横暴をきわめ、日本の国権を侵しているから、これと一戦まじえなければいかん。そのために朝鮮に東学というものがおこっているようだから、これが日清間の対決の場を開く一端として利用できないかをさぐるつもりで出かけたのが事実であるという答えでした。「清国は憎らしい」というようなお話を、さんざん聞かせていただいたわけです。

 そういうことできわめてはっきりしたわけで、今日ふうに言えば、玄洋社の活動は東学のために心から尽くすといったものとはおよそかけ離れたものであり、一種の謀略団体というか、そういうもののはしりで、東学を利用しようとしたわけです。そうであったから当然、東学の側の警戒心によって婉曲に拒否されたというのが真相でしょう。とにかくこの事からもわかるように、玄洋社・天佑侠の流れには一貫して日本の国権をいかに発揚していくか、という問題意識が非常に強烈にあって、それとの関連でしか朝鮮問題というのはありえない、というふうに言って間違いないだろうと思います。例証はまだたくさんありますが、この一つの例だけに止めておきます。」(梶村秀樹、「自由民権運動と朝鮮ナショナリズム」、『梶村秀樹著作集 第一巻 朝鮮史と日本人』、明石書店、1992年、pp.127-129)

▼8 以下、楠原利治・北村秀人・梶村秀樹・宮田節子・姜徳相「『アジア主義』と朝鮮――判沢弘「東亜共栄圏の思想」について――」(『歴史学研究』、1964年6月号、pp.25-26)より引用する。長文だが、これも竹内の妄論を排する実証的な研究であるため、ダメ押しとしてご一読いただきたい。

 「従来,「天佑侠」が東学党の乱に参加して,それが日清戦争開戦の端緒となったということが,一部の人々によって主張されている.「天佑侠」の者達が当時朝鮮に跳梁していたことは事実のようであるが,それは直ちに彼等が「東学党」と「共闘」したということにはならない.当時の朝鮮側および日本側の公的・私的記録の中にその様な記録を発見することは出来ない.いわゆる天佑侠の「快挙」が主張されだしたのは「黒竜会」編,雑誌「黒竜」第1号~11号(明治34年)所載の「韓山虎嘯録」(以下単に「虎嘯録」とする)をもって嚆矢とする.以後,「天佑侠」(明治36年),「玄洋社史」(大正6年),黒竜会葛生能久著「日韓合邦秘史」(昭和5年),「中野天門・鈴木天眼両氏追悼会概状及び追悼談」(同上),「東亜先覚志士記伝」(昭和8年)等,「玄洋社」あるいは「黒竜会」系統の文献にのみ収録されている.しかも,これ等の文献も,それぞれ記述が区々で一貫性を欠いている.思うに,最初の文献たる「虎嘯録」が一種のフィクションであったことから,再録に際して,引用者の任意の判断が多くの相違をつくり出したものであろう.

 かりにこの「虎嘯録」によれば,内田等の「天佑侠」は,6月27日釜山で揃い,7月10日頃,淳昌にいたチョンポンジュン等「東学党」幹部と会見し,その後2日間にわたって「京軍」と交戦したことになっている.この「天佑侠」と「東学党」との会見は事実かも知れないが,「東学党」と「京軍」との交戦は,5月11日から始まり,6月11日までの間に終了しているのが史実である.特に,6月11日,全州の戦闘で「東学党」が敗退した後,農民軍は四散しており,「京軍」との大規模な戦闘はあり得ない.従って,時期的に言って「天佑侠」が「東学党」軍に参加して,政府軍と戦ったこともあり得ない.又,「虎嘯録」では事件の日時が殆ど記されていないし,特に彼等の行動に於いて最も重要な「天佑侠」徒と「東学党」幹部との会見及び交渉の日時も記録されていない.それでも,「虎嘯録」の著者は「天佑侠」の農民戦争参加を誇示するつもりか,交戦軍隊の編成に言及している.それによると,チョンポンジュンを総督とし,田中侍郎・鈴木天眼・吉倉汪聖の3人は軍師となり,以下遊撃隊(70名),東面軍・西面軍・南面軍・北面軍(各100名),輜重軍(50名),赤十字軍(30名)が編成され,各軍の大将・副将はすべて日本人であったとされている.「東学党」と「天佑侠」の会見以後軍編成までにどんな交渉がどれほど行なわれたかは不明だが,「東学党」が軍の責任を全く日本人に渡すということがあり得るだろうか.たといあり得ても,天佑侠徒14人がすべて軍事専門家になっているというこの記録こそが,かえって「東学党」と「天佑侠」との共闘の事実を否定すると言ってもよいであろう.

 軍師となったはずの鈴木天眼の「追悼録」やこれ等「侠徒」の事蹟を顕彰する「東亜先覚志士記伝」に軍隊編成の事実が全く記載されていないことは「虎嘯録」の信憑性が彼等によっても否定されている証拠である.〔中略〕

 上記5種の文献を綜合する限り,「天佑侠」徒は「東学党」の本拠淳昌に至るまでは,その性格なり東学党の置かれた状況等については明確な知識をもっていない.僅かに,淳昌近辺の南原府に入って,初めてその概要を知ったに過ぎない.まして,南原府までの道程に於いて東学党と連絡があったことはどこにも記されていないばかりか,逆に朝鮮の「暴民ども」からしばしばその旅程を妨げられているのである.

 「斥倭洋」を唱える東学の影響下にあった「暴民ども」が日本人の通行を阻止することは当然の行動であるが,「天佑侠」徒の「暴民ども」に対する態度には一片の同志的心情もない.彼等は単に自己の野望を実現するためにこの戦争を利用したというに過ぎない.「東学党は王を挟みて政権を握り天佑侠はこれが顧問となって共に天下に号令する」(東亜先覚志士記伝)といった表現が何よりもその意識を明らかに示している.

 しかも,「虎嘯録」によれば,「天佑侠」徒の一人は「朝鮮の死命は是に於て全く我徒の掌中に制せらるる者なり.既に其の死命を制するとなれば我徒はこれより更に朝鮮に拠って天下を制する所以の道を講ぜざるべからず.如何となれば朝鮮独立は我徒一時の手段にして天下平定は我が徒多年の宿望なり」と述べている.ここでいう「天下平定」とは朝鮮・満州・蒙古・中国・インドシナ・フィリッピン更にインドに亘るアジアの「平定」であったと言われている(黒竜11号).

 当時の日本の支配者が日清・日露戦争を遂行するに当って「朝鮮の独立」「東洋の平和」を大義名分としたことと何と奇妙に一致する言葉ではないか.」

 自分たちが連帯するに値する(しない)者たちが誰であるかを、「朝鮮の「暴民ども」」は明確に見抜いていたが、竹内好には生涯そのことが理解できなかったのだろう。今日でも、これと同じことが、アジアの「反日」と、それを忌避(憎悪?)する日本のリベラル・左派について、言えるのではないだろうか?

「アジア主義」再評価論批判③――竹内好は歴史修正主義者ではないのか?

 引き続き、竹内好の歴史認識と「論理」がどれだけ粗雑であるかを実証していこう。竹内は、岡倉天心の著書と同様に、樽井藤吉の『大東合邦論』が「日本ファシズムによって」「悪用された」(「アジア主義の展望」、『アジア主義』、筑摩書房、1963年、p.43)という主張を随所で繰り返している(強調は引用者による)。


 興亜思想の一典型として、樽井藤吉の『大東合邦論』(一八九三年刊)をあげることができるだろう。樽井の主張は、日本と朝鮮が対等合邦して、総名を大東とし、この大東国が中核となって、中国その他と連合して西方の侵略を食い止めよ、というのだ。今日からはいささか空想的にみえる議論だが、当時としては真剣かつ独創的な意見だった。そしてこの国家連合方式は、今でもまったく未来性がないわけではない。

 この興亜策に真っ向から対立したのが、福沢諭吉の「脱亜論」(一八八五年発表)だろう。福沢は、はるかに鋭く現実政治の上に立って、アジア連帯はなまぬるいと考えた。むしろ日本は、遅れている近隣諸国をふり捨てて、独力でまっしぐらに文明を取り入れるべしと主張した。

 「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず……われは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。」

 歴史の歩みは、一度は福沢の正しさを立証した。その後の日本は、ひたすら脱亜の道を歩んで、世界の三大強国の一つにのしあがった。樽井の理想は結局実現されなかった。一九一〇年の日韓併合は、まったく一方的な合併であって、樽井の当初の考えとは縁もゆかりもないものだった。(竹内好、「日本人のアジア観」、『日本とアジア』、ちくま学芸文庫、1993年、p.99)


 後述のように、樽井藤吉が「韓国併合」を絶賛していたことは、『大東合邦論』再版(1910年6月刊行)を読みさえすれば、容易に確認できることである(原文傍点は下線に改めた)。「再版の付録として付けられた「再版付言」において、自らを日韓合邦首唱者と誇称して、日本の韓国併合を手放しで喜んだ樽井にとって、合邦と併合の厳密な区別はなされていなかった」(長陵書林編集部、「大東合邦論覆刻に際して」、『大東合邦論(覆刻)』、1975年、p.208)のであり、侵略と民族差別を内包する樽井らの「興亜」を、福沢らの「脱亜」に対峙する「連帯」の思想として見出そうとする竹内の「思想」は、歴史的検証には到底耐えがたいと言わざるを得ない。「歴史の歩みは、一度は福沢の正しさを立証した」という言葉も、竹内が結局は侵略の「正しさ」を認める「思想家」であることを明快に「立証」していると思う。

 ところで、キムチョンミ氏は、竹内のこうした主張について、「「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」(虚偽)の最初の発見者(宣伝者)は、栗原幸夫ではなく竹内好であった(キムチョンミ「国民国家日本、二〇〇一年  日本人は、いつ、どのように日本国家主義から解放されるのか」、『飛礫』32号、二〇〇一年一〇月)」と指摘されている。『飛礫』の当該号は絶版になっているため未読だが、「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」が虚偽であることは、比較的簡単に確かめることができるだろう。

 まず『大東合邦論』の「再刊要旨」(第三条)を読んでみよう(▼4)

 「たとえ日韓聯合の約成るといえども、また韓人をして合成国の大政にただちに参与せしむべからず。何となれば、現今、韓国はわが保護の下に立ち、毎歳、一千余万の補助を受く。その富力なお未だ合成国の政費を分担する能わざるは明かなり。いやしくも政費を分担する能わざるものをして、その大政に参与せしむれば、則ちわれ自らわが国権を損ずるのみならず、あるいは不測の弊習を遺さざらんか。故に聯合の条規を協定せんと欲すれば、すべからく先ず、その富力充実して政費を分担するに至るの日を待ち、始めてその国民をして政権に参与せしむるの約を立てざるべからず。これ当然の事理なり。」(『大東合邦論(覆刻)』、pp.189-190)

 要するに、日本の朝鮮植民地化(支配)には金がかかるから、「日韓聯合」の暁には朝鮮人の参政権を認めるべきではない、と言っているのである。これが竹内の「発見」した「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動き」とやらの論理的帰結だというのだから、あまりにもひどい話ではないか。

 次に『大東合邦論』の「再版付言」(▼5)の終わりの部分を読んでみよう(なお、原文の片仮名を平仮名に、漢字および平仮名を現代表記に改め、句読点を追加した。原文傍点は下線に改めた)。

 「皇上は実に世界無比の盛徳者なり。我臣民は其盛徳者より爵位勲章等の栄典を賜る。又以て万邦無比の光栄を賜るものと言う可し。然るに未其盛徳者の盛徳を表すべき尊号を其盛徳者に上つらんとする発議者有るを聞かず。是唯賜る事を知て上る事を知らざるに由るか。」(p.204)

 ざっと現代訳すると、こんな具合である。

 「天皇陛下は実に世界に比類なき聖人君子である。我々臣民は、その聖人君子より爵位や勲章などの栄典を賜っている。つまり、これによって世界に比類なき光栄を賜っていると言える。けれども、いまだに天皇陛下の聖人君子ぶりを称える尊号を天皇陛下に献上しようと提唱する者はいないようである。我々臣民は天皇陛下から賜ることを知るだけで、天皇陛下に献上することを知らないからであろうか。」

 これまた岡倉天心に「おとらず」壮絶な天皇主義者ぶりであるが、樽井の本領からすれば、これでもまだ生ぬるい。引用を続けよう。

 「普国人は其国君に独逸皇帝の称号を上つり、英国人は其国君に印度皇帝の尊称を上つれり。我国民たる者又我皇上の盛徳を表す可き尊号を上らずして可ならんや。島国日本の名称をのみ冠し奉るは未其盛徳を表するに足らず。何ぞ大陸を兼有する尊号を上らざるや。思うに千里の行も一歩より始む。朝鮮の如き小国言に足らずと雖も之を合するは連合国創業の一歩なり。宜く適切なる尊号を以て之を上るべきなり。〔中略〕」(p.204)

 ――プロイセン国民はその国王にドイツ皇帝の称号を献上し、英国民はその国王にインド皇帝の尊称を献上した。我々国民たる者もまた、我らが天皇陛下の聖人君子ぶりを称える尊号を献上しないなどということがあってはならない。一島国にすぎない日本の名称だけをつけて献上するのでは、天皇陛下の聖人君子ぶりを充分に称えることができない。大陸をも支配する尊号を献上しなければならない。思うに千里の道も一歩からである。朝鮮のような小国など取るに足らないが、これを「合邦」するのは連合国創業の第一歩である。ぜひとも天皇陛下には適切な尊号をもってこれを献上すべきである。云々。

 「東方の気運尚余に黙示する所あり。曰く上らざる可らざるものは第二第三に止らず、第十第百其数無窮なりと。今や国運進行の初歩に方り昊天の明命即気運の黙示尚斯の如きものある事を我同胞に謹告して、其無窮数のものを上つる其人有ん事を仰望するものなり。

日韓合邦首唱者 樽井藤吉 拝識」(p.205)

 ここから明らかなように、樽井は日本の朝鮮植民地支配を、「第二第三」に留まらず「第十第百」から「無限」に続くらしい、天皇制国家によるアジア(世界?)支配の第「一歩」として、全力で礼賛しているのであった。「樽井の理想は結局実現されなかった。一九一〇年の日韓併合は、まったく一方的な合併であって、樽井の当初の考えとは縁もゆかりもないものだった」という竹内の言葉は、まさにデマとしか言いようがないものであり、樽井の思想を根拠に「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」と断じる「ひとつの歴史的事実」が虚偽に他ならないことは、ひとまず確かめられたのではないかと思う(▼6)

 ちなみに、竹内は、前掲書『アジア主義』の「Ⅰ原型」という章で、樽井藤吉の「大東合邦論」を岡倉天心の「東洋の理想」に並べて「抄録」しているが、もちろん同書には上記の「再刊要旨」も「再版付言」も収録されていない。竹内が読者を原典から遠ざけて、岡倉の「真意をねじまげて」いることはすでに述べたが、ここでも同じ手法が用いられているわけだ(というか、これこそが竹内好の常套手段なのだが)。

 ところで、樽井が「侵略は、日本が侵略されるときには反対であるが、日本がやる場合には反対ではない」(旗田)と考えていたように、竹内は「史実の改竄は、他人がするときには反対であるが、自分がやる場合には反対ではない」と考えていたようである。再び「アジア主義の展望」から引用しよう。


 樽井藤吉の名は久しく埋もれていたが(田中惣五郎の研究を除いて)それを発掘した功績はやはり平野義太郎に帰せられるだろう。しかし彼は、発掘と同時に次のような改竄(かいざん)をおこなった。〔中略〕

 事実がすべてを語っているので、一々の歪曲(わいきょく)を指摘するまでもあるまい。樽井は、日本と韓国が対等合邦して「大東」という総称を冠する提案をしているので、中国(当時の清)との合邦などは考えていない。むしろ清とは合邦できぬと彼は考えて、清には大東国と合縦(がっしょう)することを奨めているのだ。樽井は、まさか後年、彼を侵略思想の道づれに引きずり込む思想家があらわれようとは予期していなかっただろう。

 日韓の紛争を解決するために、また韓国の近代化を推進するために、また列強の侵略を共同防衛するために、日韓両国が平等合併せよという主張は、樽井が誇っているように、たぶん彼の創見であって、しかも絶後の思想ではないかと思う。〔中略〕

 著者自身をふくめての解釈の変遷は別として、対等合邦という主張そのものは、空前にして絶後の創見だが、心情としては引きつがれている。そして全体としては不純な動機と、欺瞞にみちた「満洲国」のなかに暁の星ほどには隠顕している。(「アジア主義の展望」、『アジア主義』、pp.35-37)


 いい加減うんざりしてくるが、「事実がすべてを語っている」というのは、どの口で言えるのか、という突っ込みを抜きにすれば、なかなかよい台詞ではあると思う。まったく竹内は自説に都合の悪い「事実」をことごとく隠蔽して憚らない「思想家」であるようだ。これまであまり(まったく?)指摘されていないように思うが、竹内好は言葉の正確な意味において歴史修正主義者と呼ぶに相応しい人物ではないだろうか。

 竹内が評価する、「日韓の紛争を解決するために、また韓国の近代化を推進するために、また列強の侵略を共同防衛するために、日韓両国が平等合併せよという主張」とは、要するに朝鮮民族の自決権を全否定する主張である(当たり前のことだが、朝鮮民族は大日本帝国との「対等合邦」を望まなかった)。そして、その意味では、『大東合邦論』がとりわけ樽井の「創見」であったり「絶後の思想」であったとは言えないだろう。侵略を肯定し、アジアの他民族の自決権を根底では否定しながら、「連帯」を謳って恥じない樽井の思想は、竹内を始めとする人々に正統に「引きつがれている」のであり、欺瞞にみちた「平和国家」日本のなかにしぶとく生き延びているのだから。


▼4 原文は漢文であるため、ここでは旗田巍による和訳(「樽井藤吉の朝鮮観――朝鮮併合の前夜――」、『日本人の朝鮮観』、勁草書房、1969年、p.66)を参照した。なお、遺憾なことに、旗田も同書の論考「大東合邦論と樽井藤吉」で、福沢の「脱亜論」と樽井の「大東合邦論」について「両者は全く相反する方向をうちだした」(p.54)と評しており、竹内の見解を一部受け入れている。

▼5 『大東合邦論』は「再版付言」を除いては、すべて漢文で執筆されている。竹内が引用している樽井の伝記『東亜先覚志士紀伝』によれば、「この書は全部漢文をもって綴ったもので、その朝鮮人の繙読(はんどく)に便せんことを期するの意に出でしことは明らかである」(「アジア主義の展望」、『アジア主義』、p.34)とのことなので、「再版付言」では朝鮮人の「利便」は考慮されていないらしい。

▼6 もちろん、これに対しては、『大東合邦論』再版時の樽井が「変節」したのであり、「樽井の当初の考え」は「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる」ものだった、と反論することもできるだろう。けれども、旗田巍が正しく指摘しているように、「元来、かれは日本政府の大陸発展政策、朝鮮に対する武力干渉に反対したことはない。そもそも侵略を悪とみなしたことはない。『大東合邦論』のどこにも、朝鮮への干渉反対、侵略反対の考えはない。逆に日本の朝鮮政策を謳歌している。侵略は、日本が侵略されるときには反対であるが、日本がやる場合には反対ではない。日本の侵略・膨張に反対するという考えは、かれにはなかった」(「樽井藤吉の朝鮮観――朝鮮併合の前夜――」、『日本人の朝鮮観』、勁草書房、1969年、p.67)。

 『大東合邦論』が、一進会のようなごく少数のウルトラ親日派を除いて、朝鮮民族にまったく相手にされなかったことは、竹内自身の訳による『大東合邦論』本文においてすら歴然としている。


 朝鮮人にして合邦の利不利を論ずるものは、余いまだこれを聞かず。〔中略〕朝鮮人この説を聞かばまさに言わん、これ日本人の詭弁(きべん)を弄してもって我を瞞(あざむ)くなりと。ああ。余を目するに詭弁の徒をもってするか。(「大東合邦論」、『アジア主義』、p.118)


 「帝国主義段階において、侵略と被侵略の民族間における連帯というのは、反侵略・反帝という共通の基盤のうえでしか成立しないものである。」(姜在彦、『朝鮮近代史研究』、日本評論社、1970年、p.364)

 過去においても現在においても、「反侵略・反帝という共通の基盤のうえで」闘おうとしない日本の「アジア主義者」たちが掲げる「連帯」や「対等な「合邦」」は、所詮は空虚な言葉遊びにすぎないだろう。

「アジア主義」再評価論批判②――竹内好のDV史観

 さて、「論壇」(の一部)にはびこる「アジア主義」再評価のトレンドを効率的に叩くためには、同じく近年再評価が進んでいる別の人物に対する批判から始めるのがよいだろう。竹内好である。

 竹内は「日本人のアジア観」(『竹内好評論集 第三巻 日本とアジア』、筑摩書房、1966年)で次のように述べている(強調は引用者による。以下同様)。


 朝鮮の国家を滅ぼし、中国の主権を侵す乱暴はあったが、ともかく日本は、過去七十年間、アジアとともに生きてきた。そこには朝鮮や中国との関連なしには生きられないという自覚が働いていた。侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。(竹内好、『日本とアジア』、ちくま学芸文庫、1993年、p.95)


 私はこの文章を初めて読んだとき、右派の歴史観に対して感じるよりも遥かに切実な嫌悪が込み上げるのを抑えることができなかった。竹内の歴史観は、端的に言ってDV史観とでも呼ぶべき代物である、と私は思う。言うまでもない(と思いたい)が、侵略は連帯に入らないのである。

 「レイプはよくないことだが、しかしレイプには、愛情のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。

 もし、レイプ犯がこんな性根をさらけ出せば、たちまち社会的な非難が殺到すること請け合いだが、「兵士として、そして「日本文学報国会」に所属する文筆者として、アジア太平洋侵略を主体的におこなっていた」竹内がDV史観を公言しても、たいして批判を受けないどころか、いまだに竹内を持ち上げる人々が後を絶たないのであった(その筆頭が丸川哲史だろう)。

 さて、竹内は同論文で以下のように岡倉天心を「弁護」している。


 大東亜戦争の最中に、大東亜共栄圏というシンボルを操作するために岡倉天心の「アジアは一つ」ということばがよく利用された。そのため天心は、まるで日本帝国主義の賛美者であるような印象を与えられて、戦後その名は埋もれてしまった。これなども、大東亜戦争が、日本の近代化と並行してあった興亜と脱亜のからみあいの産物だったことをよく示している。「アジアは一つ」というのは、天心の最初の英文の著書『東洋の理想』(一九〇三年刊)の書出しの一句である。いま改めてこの本を読みなおしてみると、天心の真意は、帝国主義を賛美しているのでもなければ、日本にお山の大将になれと勧めているのでもないことがわかる。

 現状では汚辱にみちているアジアが、本性の自覚に立ちもどることによって、力の信仰を基礎とする西洋文明の欠陥を救う日が来るのを待ちのぞむ、というのが彼の真意である。そのアジアの本性とは美であり、天心はこの美の発掘を、日本と中国とインドについて試みているのだ。〔中略〕

 天心の真意をねじまげて、侵略に利用した日本軍部は、津田〔左右吉〕の学問をも暴力で葬ろうとした。しかし、それによって日本軍部は、冷静なアジア認識の目をくもらせ、同時に高邁なアジアの理想も失った。(pp.101-103)


 岡倉が現代日本の歴史修正主義者と変わらない「論理」で日本の朝鮮侵略を正当化しており、「日本のシオニスト」とも呼ぶべき人物である(控えめに言っても帝国主義に大変融和的である)ということは、前回紹介した岡倉の著書『日本の目覚め』を普通に読みさえすれば、否定しがたいことだろう。ところが、竹内はそうした岡倉評価は「誤解」であるとして、その根拠に岡倉の別の著書『東洋の理想』を持ち出してきているのである。

 とすると、直ちに次の疑問が湧いてくる。

(1)仮に、ある人物X(岡倉天心)が帝国主義的な主張A(「日本の目覚め」)と非帝国主義的な主張B(「東洋の理想」)をしており、どちらの主張も取り下げていない場合、Xの思想は非帝国主義的であると言えるのか?

(2)そもそも、X(岡倉天心)の主張B(「東洋の理想」)は非帝国主義的であると言えるのか?

 まず(1)から考えてみよう。<佐藤優現象>にどっぷり漬かっているリベラル・左派なら「YES」と答えるのかもしれないが、もちろん正解は「NO」である。この点は説明するのも気が引けるほど自明なことだと思うのだが、竹内の岡倉評価にせよ、丸川らの竹内評価にせよ、リベラル・左派の佐藤評価にせよ、この自明性を無視することによってのみ成り立っているように私には思われる(▼3)

 では次に(2)だが、実はこれも「NO」である。ZEDさんが要約されているように、『東洋の理想』には「イスラム、儒教、インド哲学、日本的思考が同じ民族圏に該当し、「しかしながら、この複雑の中なる統一を特に明白に実現することは日本の偉大なる特権であった」としてその根拠は万世一系の皇室がおわすからだ」ということが書かれており、例によって朝鮮半島が「元来日本の領土」であったという荒唐無稽な歴史観が繰り広げられている(引用部の旧字体は新字体に改めた。以下同様)。

 「武勇に富む神功皇后の心を燃え立たせ、彼女をして敢然海を渡り、大陸帝国をものともせず、朝鮮にある朝貢諸国の保護に赴かしめたものも、この意識〔「われわれの民族の誇りと有機的統一体」〕であった。権勢をほしいままにする隋(ずい)の煬帝(ようだい)を、「日没する国の天子」と呼んでこれを瞠若(どうじゃく)たらしめたものもこれであった。やがてウラルの山脈を越えてモスコーに達すべき勝利と征服の絶頂にあったクビライ汗(かん)の、傲慢な脅迫を退けて動じなかったものも、これであった。そして、日本自身にとって決して忘れてはならないことは、今日日本が新しい問題に直面しているのは、この同じ英雄的精神のしからしめるところであって、これらの問題に対しては、日本はさらに自尊の念を深くする必要があるということである。」(「東洋の理想」、『岡倉天心集』、筑摩書房、1968年、p.10)

 ところで、竹内は、岡倉の「東洋の理想」を収録した編著『アジア主義』(筑摩書房、1963年)においても、同様の岡倉弁護を展開している。


 この「アジアは一つ」という命題は、のちに日本ファシズムによって『大東合邦論』におとらず悪用された。天心が「アジアは一つ」と言ったのは、汚辱にみちたアジアが本性に立ちもどる姿をロマンチックに「理想」として述べたわけだから、これを帝国主義の賛美と解するのは、まったく原意を逆立ちさせている。〔中略〕

 『東洋の理想』は、イギリスのインド研究者ニヴェディタ女史の序文をつけて、一九〇三年にロンドンで出版された。その内容構成は次のとおり。(ここには総論部分と終章を収録した。全文は『現代日本文学全集』第五十一巻、筑摩書房刊にある)

 (1)理想の範囲 (2)日本の原始芸術 (3)儒教――北方中国 (4)老荘思想と道教――南方中国 (5)仏教とインド芸術 (6)飛鳥時代(五五〇年~七〇〇年) (7)奈良時代(七〇〇年~八〇〇年) (8)平安時代(八〇〇年~九〇〇年) (9)藤原時代(九〇〇年~一二〇〇年) (10)鎌倉時代(一二〇〇年~一四〇〇年) (11)足利時代(一四〇〇年~一六〇〇年) (12)豊臣および初期徳川時代(一六〇〇年~一七〇〇年) (13)後期徳川時代(一七〇〇年~一八五〇年) (14)明治時代(一八五〇年~現在) (15)展望(「アジア主義の展望」、『アジア主義』、筑摩書房、1963年、pp.43-44)

 
 樽井藤吉の『大東合邦論』が「日本ファシズムによって」「悪用された」という点については後ほど批判的に検討するが、重要なのは、竹内が同書に収録しなかった6章から14章に何が書かれているのか、ということである。結論から言えば、岡倉はこの部分で天皇制をひたすら絶賛しまくっているのであった。気が滅入るが、いくつか紹介してみよう。

 「日本の国民生活は、永劫(えいごう)の昔から連綿と途切れなき万系一斉の皇統の光輝がその上を純一無垢(むく)に覆っている高御座(たかみくら)を中心としている。」(「東洋の理想」、『岡倉天心集』、筑摩書房、1968年、p.51)

 「国民宗教に於けるこの要素〔「仏教渡来以前の日本に存在していた先祖崇拝の純粋な形式」〕は、常にその中心を、神の後裔(こうえい)としての天皇の御人格に置くものである。その〔神道の〕復興は、したがって、常に愛国的自覚の増大を意味するものでなければならない。」(p.52)

 「孝明天皇――今上陛下の御父君で、日本が今日の偉大さの多くをその先見の明に富まれた御眼識に負うている方――がお作りになられた、短いが意味深い御歌がある。すなわち、「みなひとの心のかぎりをつくしてし後にぞたのめ伊勢の神風」というのであって、まことにわが国民の自らを頼む(たのむ)雄々しさにみちた御製である。」(p.52)

 「かくして、明治維新は、帝(みかど)の神々しい後光を中心として、忠義というわが国民宗教の偉大な再生たる愛国精神の火に燃えかがやいているのである。〔中略〕かくして、高きも低きも、国民を感奮させた偉大な新しい活力の中でひとつとなり、軍隊に徴せられたもっとも賤(いや)しい兵も、さむらいのように、死を栄誉としたのであった。

 政治上の抗争――一八九二年に帝王から大らかに下賜された立憲政治(実は、一八八九年帝国憲法発布、一八九〇年帝国議会開設)の自然にして不自然な子ども――にもかかわらず、玉座からの一言は、なおも政府と反対党とを和解せしめ、両者のもっともはげしい意見対立の時でさえ、双方とも恭々(うやうや)しく沈黙して畏(おそ)れかしこむのである。

 学校で教える日本倫理のかなめ石をなす道徳の法典は、他のすべての提案が、要望されていた一切を包む敬恭(けいきょう)の調子を打ち出すことができないでいた時、勅語(教育勅語)によって与えられたのであった。」(p.53)

 ・・・・・・と、まあこれは一部にすぎないのだが、岡倉が神がかり的な天皇主義者であり、日本民衆の天皇(制)への屈服と、天皇(制)によるアジア侵略への動員・統合を促進するイデオローグであると言って差し支えないことは、これでおわかりいただけるのではないかと思う。さらに追い討ちをかけておこう。

 「日清戦争は、東方の海上に於けるわが国の優位を明らかにし、しかも、われわれを相互の友愛に於ていっそう密接に近づけたものであったが、この戦争は、一世紀半にわたって自己を発現しようとつとめていた新しい国民的活気の自然の結果であった。それはまた、この時代の元老政治家たちの非凡な洞察によって、そのあらゆる方面にわたって予見されていたもので、今日、新しいアジアの強国としてのわれわれを待っている大いなる問題と責任とにわれわれを目覚めしめるものである。われわれ自身の過去の理想に帰るというだけでなく、古いアジア統一体の眠れる生命に触れてこれを甦(よみがえ)らすということが、われわれの使命となる。」(p.55)

 岡倉によれば、日本帝国主義者による朝鮮・中国侵略戦争は、「わが国の優位を明らかにし、しかも、われわれを相互の友愛に於ていっそう密接に近づけたもの」であり、天皇制国家における「国民的活気の自然の結果であった」のだという。

 前出の問いに戻ろう。

(2)そもそも、X(岡倉天心)の主張B(「東洋の理想」)は非帝国主義的であると言えるのか?

 答えは無論「NO」である。これまで見てきたように、岡倉の「アジア主義」が非帝国主義的である(どころか反帝国主義的でさえある)かのように読者に錯覚させようとする竹内の詭弁は、読者を原典から遠ざけることによって初めて成立するものである、と言える。竹内の言葉を借りて言えば、「天心の真意をねじまげて」「アジア主義」再評価論に「悪用」しているのは、竹内自身に他ならないのではないだろうか。竹内の歴史認識と「論理」がいかに私たちを愚弄するものであるかについては、次回も引き続き考えていこう。


▼3 そもそも、竹内の言説にはあまり論理性というものが存在しないように思う。試しに同論文から二箇所だけ拾ってみよう。


 たしかに大東亜戦争という呼び名の復活は、危険な兆候ではある。しかしその危険は、回避するのでなくて、まともに取り組むことによって克服しなければならぬものだ。(p.93)


 周知のように、竹内こそが「大東亜戦争という呼び名の復活」に加担した主要な言論人の一人であり、竹内自身、同論文を執筆した1963年(共同通信記事への掲載は1964年)に、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」、と感想をのべていた(「中国問題についての私的な感想」、『世界』一九六三年六月)。竹内は、「危険は、回避するのでなくて、まともに取り組むことによって克服しなければならぬものだ」という弁明をあらかじめ用意した上で、「チャンコロ時代」を「まともに」「なつかし」む侵略者の嗜みを生涯捨てようとはしなかった、と言えるだろう。


 私は林房雄氏のように、大東亜戦争を全的に肯定するのは賛成できない。林氏の論もまた、戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はあると思うが、しかし、大東亜戦争の侵略的側面はどんなに強弁しても否定できぬと思う。ただ、侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる。それでは日本人はいつまでたっても目的喪失感を回復できないからだ。
(pp.95-96)


 「大東亜戦争」全面肯定論が「戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」という「論理」は、人権や正義といった「普遍的」価値について、少しでもまともに物を考えたことのある人間には、到底首肯できないのではないだろうか。ここで竹内が言っているのは、突き詰めれば、歴史修正主義は「(「自虐史観」が蔓延する)戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」ということだと思う。竹内が反動に「存在意味」を見出しているのは、結局のところ「戦後の風潮」(として竹内が捉えているもの)に対する竹内自身の反発のためではないのか(例えば、バックラッシュは「戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」と述べる人物が、「戦後の風潮」とフェミニズムの関係をどのように認識しているかを考えてみればよくわかる)。

 「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定する」限り、「日本人はいつまでたっても目的喪失感を回復できない」(「レイプを憎むあまり、レイプという形を通じてあらわされている愛情までを否定する」限り、「僕はいつまでたっても目的喪失感を回復できない」)という気色の悪い言い分にも心底うんざりさせられる。「目的」自体が間違っていた(いる)ことをいい加減認めろ!と言いたいが、これまた周知のように、竹内はそのことを死ぬまで認め(ようとし)なかった。

「アジア主義」再評価論批判①――岡倉天心は「日本のシオニスト」

 やや間が空いてしまったが、前回のエントリーに登場した、進藤榮一らの「岡倉天心と東アジア共同体」といった言説(「アジア主義」再評価論)について、何回かに分けて批判してみたい。

 先日紹介した『環』2008年秋号(Vol.35)の「小特集 岡倉天心と21世紀のアジア」は、「国際アジア共同体学会」(代表・進藤榮一)が同年2月23日に有楽町朝日ホールで主催したシンポジウム(「東アジア共同体と岡倉天心:21世紀アジアを展望する」)を受けて組まれたものである。ご覧の通り、このシンポジウムは政官財・マスコミ(朝日、NHK)・大学に加えて、中韓の大使館、さらにEU代表部まで抱き込んだ(▼1)一大イベントであり、その社会的影響力は一マイナー季刊誌の枠を遥かに超えている。


「東アジア共同体と岡倉天心」国際会議委員会

会長・西原春夫(早稲田大学元総長、アジア平和貢献センター理事長)
実行委員長・進藤栄一(筑波大学名誉教授、国際アジア共同体学会代表)

主催:国際アジア共同体学会
共催;東アジア共同体評議会、日中関係学会、北東アジア研究交流ネットワーク、日本ビジネスインテリジェンス協会
協賛;藤原書店、アジア創造美術展実行委員会

後援;朝日新聞、日本放送協会、筑波大学、EU(欧州連合)代表部、中国大使館、韓国大使館、(財)日欧産業協力センター、 (財)日本アセアン・センター、桜美林大学、茨城県

助成:国際交流基金

開催日時;08年2月23日(土)午後2時~6時15分。

場所:有楽町朝日ホール(マリオン内)
 大会委員長挨拶;西原春夫(早稲田大学元総長、本学会顧問)
 来賓挨拶;青木保(文化庁長官)「都市中間層文化が促す東アジア共同体」


 国際アジア共同体学会:「岡倉シンポ」
 http://www.soc.nii.ac.jp/isac/001/isac.files/Page485.htm

 というわけで、今さらながら放置しておくには実害が大きいので、この場でまとめていくつか批判しておこう。「東アジア共同体」の歴史的参照軸(の一つ)に岡倉天心らの「アジア主義」を担ぎ出してこようとする進藤らの言説は、論理的にも倫理的にも異論の余地なく最低であると私は思うが、それだけに彼ら・彼女らが企図する「東アジア共同体」なるものの実体を饒舌に語ってくれていることも確かである。

 岡倉の「アジア主義」を持ち上げる「リベラル」の頽廃については、(かつての)高橋哲哉が的確に批判しているので、『前夜』2005年秋号(5号)から転載しておこう(引用部の強調および注釈は高橋による)。長文の引用で恐縮だが、未読の方はぜひご一読いただきたい。とりわけ岡倉天心は「日本のシオニスト」であるという鄭敬謨氏の指摘は大変重要であると思う(▼2)

 「岡倉天心は一九〇四年二月十日、まさに日露戦争開戦の日に米国へ出発。ボストン美術館東洋部(中国・日本部)部長となり、同年十一月にニューヨークで『日本の目覚め』(The Awakening of Japan)を出版した。この書の「原著出版者の序」には、「日本の現代の政治家、国民、軍人をして、英邁なる天子の御統率の下に、忽ち一等国として諸国民の班に加わることを得しめた知的及び道徳的特性は如何なる所に拠るものであるか」を説明するために書かれたとある。全体の結論ともいえる最終章「日本と平和」を見れば、この本の狙いが事実上、日露戦争に際して欧米諸国に日本の戦争理由を説明することにあり、とりわけ日本の朝鮮支配を正当化することにあったことは否定しがたいであろう。

 天心はここで、「我が文明の真の性質は、外国民への侵略を禁止することである」から、「戦争への我々が最後の依頼は、我が国民的生活保護の必要によって、我々の上に強いられるものだ」という(以下、岡倉天心『日本の覚醒』聖文閣、一九三八年より引用。旧字体は現代字体に変更)。平和主義的に聞こえるが、要するに、日露戦争も朝鮮支配も「侵略」ではなく、「我が国民的生活保護の必要」から「強いられ」たものであるから正当だ、ということである。天心が日本の朝鮮支配を正当化する「論理」は、現代日本の歴史修正主義者のそれとなんら変わらない。


 何処かの敵対国がこの半島〔=朝鮮半島〕を占領せる暁は日本へ軍隊を送るのは容易に出来ることであろう。何となれば朝鮮は、いつも尖っている懐剣の如く、日本の真の胸に向って横たわっているからである。その上、朝鮮及び満州の独立は、経済上からも、我が人種保全に必要なのである。何故かと言えば、若し常に増加しつつある我が人口は、これらの国々の耕作稀なる面積に於て、若しその合法的な捌け口が奪わるるならば、そこには飢餓が待っているからである。今日ロシア人は、我々を措いて誰も何等盾をつく者なきこれらの地方にその手を掛けた。これらの事情の下に我々は、余儀なく我が古代の領土たる朝鮮を、合法的・国民的防御の我が線内に入るものと見做すに至る。我々が支那と開戦するの余儀なきに至れるのは、一八九四年にこの半島の独立が支那によって脅かされたときであった。我々が一九〇四年にロシアと戦えるのも、この同じ独立のためであった(一二二頁)。


 日清戦争でも日露戦争でも日本の目的は朝鮮半島の「独立」を確保するためであり、その「独立」を確保しなければならないのは朝鮮半島が日本の「生命線」だからである。朝鮮半島は日本の「生命線」だから、「合法的・国民的防御の我が線内に入るもの」と見なしてよいのであり、つまりはその「独立」とは日本の支配下に入ることなのである。天心はさらに、「我が古代の領土たる朝鮮」は「元来日本の領土」だったのだから、それだけですでに日清も日露も「開戦の名分は欠けてはいなかった」のだという。そして朝鮮が「元来日本の領土」であったことを欧米人に示すために、あらゆる無理を積み重ねていく。


 多分朝鮮半島は、元来有史以前の時代の間に我々によって植民地を開かれたらしい。朝鮮における考古学上の遺物は、我々の原始的のドルメンに於て見出されたるそれらのものと全く同型のものである。朝鮮語は今日でさえも、総てのアジア語の中で我々の言語に最も近く類似している。我々の上代の伝説は、我が皇祖の御弟君、素戔鳴尊(すさのおのみこと)の朝鮮御移住を物語っている。そして朝鮮の始祖檀君王は、或る歴史家の中には、素戔鳴尊の御子であったと考えている者もある。第三世紀は、我が神功皇后が、幾多の小独立王国の勃興によって脅かされたる我が主権を再興せんために、この半島の征伐軍を導き給えることを語っている。我が年代記は、第八世紀までは、植民地の上に加えられたる我等の保護の記事に充ちている(一一九頁)。


 素戔鳴尊が朝鮮に移住して檀君を生んだなどという奇説まで動員して「論証」されなければならないのは、朝鮮半島が「元来日本の領土」であったこと、だから現代にあっても日本は朝鮮半島を支配する権利を有するということである。

 鄭敬謨(チョンギョンモ)はつとに一九八〇年代から、こうした思想を持つ岡倉天心を「日本のシオニスト」と呼んでその問題点を指摘してきた(「窮極の悪の枢軸」『粒』第四一号、三〇頁以下参照)。鄭の言うように、「元来ありうべくもない荒唐無稽な歴史を根拠として縁故権を主張し、よその国の国土を奪い取ろうとする思想」を「シオニズム」と呼ぶならば、天心の主張がそれに当たることは明白だ。鄭の指摘によれば、朝鮮を標的にした「日本版シオニズム」は、『武士道』を著して日本を米国に宣伝した新渡戸稲造にも見られ、米国の覇権主義を取り込むのに成功した。それは、一九〇五年七月、米国のフィリピン支配を日本が認めるならば米国も日本の朝鮮支配を正当と認めるという「桂―タフト密約」にもつながっているという。「戦後」の東アジアにおける日米同盟の意味を考える際にも、忘れることのできない指摘だ。」(高橋哲哉、「「不気味な日本人」について」、『前夜』2005年秋号、pp.14-15)

 では、岡倉の「論理」をこのように押さえた上で、次にそれを持ち上げる側の「論理」を見ていこう。


▼1 「国際アジア共同体学会」の共同代表は、進藤榮一と、金泳鎬・韓国通産資源省元長官、蒋立峰・中国社会科学院日本研究所長の三名である。ちなみに姜尚中も同学会の役員(評議員)を務めている。

 ところで、「姜尚中 国際アジア共同体学会」をGoogleで検索したところ、次の記事に遭遇してしまった(強調は引用者による)。


 和田教授は「姜教授はスーパースターになった。多くの日本人が姜教授を通じ韓国系日本人の存在を再認識している」と述べた。保守主義が根強い日本社会で、時に急進的な主張をする韓国系有識者の社会的地位が高まり影響力が増すということは、非常に珍しいことだと説明した。


 聯合ニュース:「日本の「姜尚中ブーム」に注目、和田春樹東大名誉教授」
 http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2009/11/27/0400000000AJP20091127001400882.HTML

 ・・・・・・なかなか突っ込みどころが多くて困るが、「多くの日本人が姜教授を通じ韓国系日本人の存在を再認識している」という発言は、普通に解釈すれば、姜尚中が(も)「韓国系日本人」である(日本に「帰化」した)、ということにならないだろうか?その後の「韓国系有識者」という表現も、「韓国系日本人」に対応しており、単なる言い間違いとしては片付けられない問題を含んでいると思うのだが、これは翻訳ミス(誰の?)か何かなのだろうか?それとも和田のリークなのか?

▼2 この点については、ZEDさんが詳しくまとめてくださっているので、ぜひご覧ください(鄭敬謨氏の日本語訳記事も読むことができます)。


岡倉天心というどこに出しても恥ずかしくない立派なアジア侵略主義者を、アジア平和・友好論者であるかのように捏造・歪曲し、それを以って軍事同盟たる東アジア共同体を平和的な関係であるかのように歪曲する…。何もかも一から十まで全て嘘とデタラメで塗り固められているのが、岡倉天心を利用した東アジア共同体推進論に他ならないのです。
しかし彼らがいかにイカサマじみた事を言おうと、そんなものは内輪の日本人かそれに媚びて協力する「親日派」朝鮮人にしか通用しないでしょう。朝鮮半島本国の民衆の間では、今でも岡倉天心は新渡戸稲造、福沢諭吉、伊藤博文、西郷隆盛、原敬らと同様の侵略論者・侵略主義者として認知されているからです。


 スーパーゲームズワークショップエンターテイメント:「日本のシオニストと東アジア共同体」
 http://sgwse.dou-jin.com/Entry/137/

 冒頭のシンポジウムでは、孫歌が「アジア主義の光と影」という「問題提起」をしたようである。「アジア主義」の「光」というのは、端的に言って侵略の「光」でしかないと思うのだが、竹内好の再評価に便乗・加担する孫歌のような「研究者」にとっては、日本の「論壇」の「光」にも見えるのかもしれない(「論壇」自体が暗いと思うが)。ちなみに、パネリストの岡倉登志(大東文化大学文学部教授)は岡倉天心の曾孫なのであった。あまりにもZEDさんの「内輪の日本人」という指摘そのままで驚く・・・。

Home > 「アジア主義」批判

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