伊勢崎賢治 Archive

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伊勢崎賢治のぶっちゃけトーク★vol.2――普天間「移設」先は独島!?

 年末から体調不良でブログの更新が滞っていましたが、そろそろ再開することにします。久々の更新なので、あまり(私の)頭が回らなくても済みそうなTwitterログの紹介を。

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 普天間基地は済州島に移設すればよいという酷すぎる主張をしているのが辺真一だが、Twitterにはその辺真一すら絶句すると思われるつぶやきを発している人物がいる。言わずと知れた(?)伊勢崎賢治であった。


普天間基地移設。海兵隊を「竹島」に。延坪島事件で、「日米韓」の強化が盛り上がりつつあるから、案外? 先々週に来ていただいた小川和久さんの講演を聞いた後、わが韓国人学生のアイディア。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/10733796705959936

 ・・・・・・「わが韓国人学生のアイディア」とやらについては、(1)そもそも「韓国人学生」は実在しないのではないのか(非実在韓国人問題)、(2)「韓国人学生」は実在するが「アイディア」は伊勢崎の曲解ないし誘導によるものではないのか(「美しい誤解」問題)、(3)「韓国人学生」は伊勢崎ゼミのレベルを忠実に反映しているだけなのではないのか(教育汚染問題)、などといった様々な疑惑が瞬時に浮かんでくる。(2)の場合に交わされたであろう会話を憶測してみるのも一興かもしれない。

------------ここからフィクション------------

「ところで、普天間基地を済州島に移設しようって話もあるよねー。済州島ってほら、『韓国のハワイ』って言うんでしょ?ちょうど海軍基地も作ってるところだしさ、意外と受け入れてくれたりしないかなあ。」

「そんな話聞いたこともないですよ。だいたい在日米軍の受け入れと抱き合わせたら、反対運動で海軍基地ごと潰れますよ?」

「いや、そこは『逆転の発想』とか『逆療法』で何とか乗り切ってよ。虚数に虚数を掛けて実数にするような斬新なブレイクスルーっていうかさあ。」

「・・・じゃあ、もういっそのこと、独島でいいんじゃないですか?」

「なるほど、『ソフト・ボーダー』(▼1)の発想としては悪くない・・・いや、延坪島事件で、「日米韓」の強化が盛り上がりつつあるから、案外?」

「・・・・・・・・・え?」

(※実在の人物とは関係ありません。)

------------ここまでフィクション------------

 何と言っても、「普天間」独島移設案を思いついたのがあくまで韓国人であるという点をさりげなく(?)アピールしているあたりに、伊勢崎の性根の卑しさが透けて見える。伊勢崎が、目的のためには(非)当事者を利用して自らの意図を代弁させることを躊躇わない人間であるらしいことは、次の台詞にもよく現れていると思う。


「脆弱国家の脆弱性に理解を」、いや「冷静に見よう」でも、日本人研究者が北朝鮮問題で発言したら即、売国奴ってレッテル張りされるだろうな。やだなー。でもそれが現実。だから非当事者の外国人がそれを言うといいんだろうな。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/22960978599

 伊勢崎の差別的な朝鮮観は140文字の制限内でも健在である。


インドにパキスタンに”ケア”をって、日本で北朝鮮に思いやりをって言うのと同じだな。実際、戦火を交えてるし。でも、”相手を付け上がらさないケア”を何とか外交方針として翻訳しないと、相手はほとんど核保有破綻国家だから。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/22777759429


”相手を付け上がらせないケア外交”の鍵は、こちら対峙する側のコンフィデンシャリティの連携にあると思う。ロープロファイルにやらないと、どんなケアの提示も、過激派は「勝利」としてプロパガンダに使うから。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/22778004595


講義の最後。核武装破綻国家への”ケア”外交について。日本は北朝鮮に対してそれをやる能力と度量はない。だけど、インドはパキスタンに対してそれができると思う。なぜなら、インドは、日本と違って、常に新しい哲学を生む国だから。しーんとなったが、受けた。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/26010097201

 それにしても、伊勢崎のパキスタン(人)に対する蔑視も半端ない。呆れることに差別語の訂正すら上から目線である。


ドイツの議員との会談:4年以上の撤退計画じゃ有権者は納得しない 。経済投資(援助ではない)というブランディングじゃないと中長期的な支援は維持できない。パキスタンがキイ。パキのイメージ悪過ぎる。イメチェン戦略が必要。有権者を説得する戦略。これが対テロ戦のカギ。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/15091049486
   ↓ ↓ ↓

「パキ」はパキスタン人にとって差別語。「パック(Pak)」が正しい。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/15151245477

 さらに、こんなつぶやきも。


九条の集会で呼ばれて吹田へ。質疑応答の時間で、護憲命のジーサンが噛みついてくる。あんたは平和がいかに困難かばかり言って、九条を信じる我々にケチつけているように見える、と。そうなんだけど、困ったな。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/5437636973961217
   ↓ ↓ ↓

でもな~。お年寄りには、信じるものが必要かもな~。むやみに取り上げるものな~。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/5537215832657920

 最後に。


ツイッター、備忘録がわりに使っているけど、フォローしてくれている人たちからの返信ってあるのかな。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/22789631291

 ・・・・・・もうTwitterやめれば?


【追記】 これは一体何ですか?

 マガジン9条:「第6回「マガ9学校」参加者募集」
 http://www.magazine9.jp/gakko/006/


(▼1) 「ソフト・ボーダー」の実態も伊勢崎自身がTwitter上で暴露している。


いくら日本のODA外交が戦後賠償から始まったとは言え、対中ODAは累積3兆円。そのほとんどが有償援助。日本ほど中国に援助している国はない。こういう国と領土・海問題があること自体おかしい。ODAはODA外交になっていなかったということ。


 http://twitter.com/isezakikenji/status/27114492216

 「ソフト・ボーダー」=「国境を柔らかくしよう」=「平和構築の決定版」=「侵略はカネで片を付けろ」という伊勢崎方程式(証明)。

伊勢崎賢治のぶっちゃけトーク★vol.1――沖縄米軍基地と集団的自衛権

【6/28 追記】一部不正確な記述があったため加筆・修正しました。


 図書館で『環――歴史・環境・文明』の最新号(Vol.41)を手に取ると、「「日米安保」を問う」という特集の座談会に伊勢崎賢治が登場していた。


●旧来の「肯定論VS否定論」とは異なる地平から問い直す。

<座談会>安保をめぐる「政治」と「外交」の不在――沖縄米軍基地が問うもの

渡辺靖(文化人類学・アメリカ研究)
松島泰勝(経済思想・島嶼経済)
伊勢賢治(紛争処理・平和構築)
押村高(国際政治・思想史)

司会・編集長


 私は『環』という雑誌のことはよく知らないが、2008年秋号(Vol.35)には佐藤優も登壇し(「<シンポジウム> 今、なぜ榎本武揚か」)、さらに以下のような「小特集」が組まれていたことからも、本誌の傾向の一端を窺い知ることはできそうである。(在日)朝鮮人や中国人の書き手が多いところもポイントであると思う。


小特集 岡倉天心と21世紀のアジア
 岡倉天心と東アジア共同体・・・・・・・・・・・・・・・・・・進藤榮一
 岡倉天心を媒介にして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・孫歌
 東アジアにおける共同体と空間の位相・・・・・・・山室信一


 問題の座談会は38ページとやたら長いため、逐一突っ込む余裕はとてもないが、この中で渡辺と伊勢崎は、集団的自衛権の行使の容認と引き替えに、沖縄の米軍基地を削減するという「提案」をしている(▼1)。あまりにも明け透けな本音トークに驚くが、解説の手間が省けてこちらは楽である。ではご覧いただきたい(強調は引用者による。以下同様)。


渡辺 沖縄米軍基地を削減するための現実的な方策の一つとして考えられるのは、もしかすると日本の自衛隊基地を防衛目的で海外に向けて稼動可能にすることかもしれません。端的に言えば、ある程度の自主防衛と集団的自衛権を認めることです。そうなれば、米軍基地は現在ほど必要ない。どの程度か分かりませんが、半減できるかもしれない。そういう可能性について、松島さんはどう思われますか。

松島 自衛隊による自主防衛という形ですね。琉球人にとっては、本土との関係で言えば、自衛隊も、やはり日本軍を引き継ぐ存在です。集団自決への日本軍の関与をめぐる教科書問題が示すように、アジアと日本との間だけでなく、琉球・沖縄と日本との間でも、歴史問題は依然解決していません。そうした状況ですので、米軍が減る代わりに沖縄の自衛隊が増えてもいい、とはとても思えない。(p.152)


 この「自衛隊基地を防衛目的で海外に向けて稼動可能にする」(!)という渡辺の「提案」に対して、松島は説得的に反論しているが、渡辺も伊勢崎も松島の反論をまともに聞こうとはしていない。


渡辺 しかし、基地は減りますよね。

松島 そうかもしれませんが、歴史と差別の問題が解決しないかぎり、自衛隊のプレゼンスを琉球人は受け入れられないと思います。〔後略〕

伊勢崎 護憲派の立場で、これを言うと非常に波風が立つのであまり口にしていないのですが、いま言われた「集団的自衛権」に関して、僕もすでに民主党の議員と議論をしています。

 手続きとしては、まず自衛隊を法的に軍隊として認め、軍法も定め、そして集団的自衛権も認める。そうなれば、軍事基地は全体としてかなり減るはずです。とくに沖縄に関してはそう言えます。ただ問題は、日本の今のような現状では……。

 沖縄の人々に受け入れてもらう方法として、例えば、日本が被害者側にある二つの地位協定(日米地位協定と国連軍の地位協定)を一本化したらどうか。すべて国連軍にしてしまい、国連の旗で基地を持つ。もちろんすぐに国連PKOという形はとれないでしょうから、NATOのような枠組みをアジアでつくり、これに国連が承認を与える形をとる。具体的にはこの場合、朝鮮半島の非核化や北朝鮮政策が関わってくる。しかも国連軍の地位協定は朝鮮戦争勃発を受けてのものですから、日米地位協定もこれに吸収してしまう。そうなれば、基地もかなり減り、沖縄に基地が残っても、そこには国連の旗が立つ。

渡辺 中国が賛成するでしょうか。

押村 中国に対してどう説明するかが問題ですね。

伊勢崎 ですから中国も含めてNATOのような枠組みをつくる。鳩山首相の「東アジア共同体構想」をこんなふうに展開したらどうか。沖縄の人は、これで納得するでしょうか。

渡辺 まずアメリカが反対するでしょう。(pp.152-153)


 暴力団にいい加減出て行ってもらいたいと主張する地元の人間に対して、「いや、今度の暴力団はメイドインジャパンですから」(受け入れろ)というのが渡辺流であり、「いや、今度の暴力団はグローバルスタンダードですから」(受け入れろ)というのが伊勢崎流であるようだ。下線部の「ただ問題は、日本の今のような現状では……」に続く台詞は、おそらく伊勢崎が注1でボヤいているように、日本国民にその「気概」がないのではないか、というようなものだろう(▼2)

 「国連の旗で基地を持つ」という伊勢崎の発言はもちろん比喩的なもので、伊勢崎が実際に述べているのは、米国を含めた「東アジア共同体」軍(の前身)を沖縄に引き続き駐留させることである。端的に言えば、これこそが沖縄を「日米両軍の軍事要塞」として固定化しようとする「日米共同声明」の忠実な実行なのであり、したがって、渡辺が「危惧」しているように「アメリカが反対する」はずもないのである。その意味で、伊勢崎の主張は民主党のマニフェスト(Manifesto 2010)を単につなぎ合わせたものにすぎない、とさえ言える。

 「集団的自衛権の行使」容認という路線が、普天間「県外移設」の落としどころとして、一部の護憲派や左派の暗黙の了解事項になっていた(いる)のではないか、という指摘を金光翔さんがされているが、似たような路線は、実は『世界』でも川端清隆(常連執筆陣の一人)らが披露している(▼3)。佐藤優と同じく、伊勢崎や川端も「護憲派」メディアの覚えはめでたいようだから、この指摘も大変正しいのではないだろうか。いずれにせよ、そうした護憲派や左派の認識に一役(以上)買っているのが岩波書店であるということは、断言してしまって一向に差し支えないように思う。


▼1 正確に言えば、渡辺も伊勢崎も、沖縄の米軍基地削減を本気で提唱しているわけではなく、それを口実にすることで、集団的自衛権の行使を左派に認めさせようとしているのだと思われる。渡辺と伊勢崎が、沖縄に対する基地の押しつけを真面目に考えようとしていないことは、例えば次の発言からも伺える。


渡辺 私は沖縄の状況に詳しいわけではありませんが、一方で、「沖縄の人も、やはり日米安保の継続を欲しているんだ」という話はよく耳にします。振興開発が期待ほどの成果は上げていないとしても、「やはりそこには恩恵はある」と。ですから反対している人の意見を、そのまま「琉球人の声」として受けとめていいのかどうか。そこは本土から見ていて、正直よく分からないところがあります。(p.149)


 マイノリティにも「多様」な声があるんだから、結局は現状維持が落としどころだよね、と言わんばかりの渡辺の発言は、本土の「開発援助」によって沖縄に「いびつな“植民地構造”が形成され」、人々が分断させられて(「多様」な声を上げさせられて)いることへの松島の批判を受けたものである。


伊勢崎 〔前略〕「日米安保全体の問題」と「沖縄の基地問題」をどう考えるべきかという問題にぶち当たる。沖縄の負担を本土に移せば、それで済むのかと言えば、そうではない。それでは、日米安保そのものの問題が見えなくなる。どちらを先に考えるべきか。個人的には、やはり沖縄の問題を優先すべきという気もしますが、「いや、そうではない」という自分もいる……ということで、僕としても、全く考えがまとまっていません。(p.156)


 「沖縄の負担を本土に移せば・・・日米安保そのものの問題が見えなくなる」という論理がそもそも理解しがたいが、では伊勢崎が「日米安保そのもの」に反対しているかと言えば、そんなこともないのであった。上の発言の続きを見ておこう。


伊勢崎 ただ、日本国民そのものが、そんな状態にあって、ないものねだりをしても仕方がない。理想論で言えば、僕も、日本国民に安全保障問題に正面から向き合ってほしい。対テロ戦でも、アメリカも困っているのだから、アメリカができないようなことを同盟国として日本に主体的に取り組んでほしい。それは、インド洋の給油活動などよりも危険を伴うかもしれない。人的犠牲も生じるかもしれない。しかし、そもそもわれわれは、それだけのコスト、代償を払ってまで主体性を追い求める国民なのか。僕は、この頃、否定的になってきました。(p.156)


 要するに、伊勢崎の主張の核心は、「平和国家」日本が「対テロ戦争」で「主体性」を発揮するべき、ということであり、「日米安保全体の問題」にせよ「沖縄の基地問題」にせよ、それをより円滑に遂行する観点から配慮されているにすぎないのではないか、と思う。

▼2 日本国民の「気概」を奮い起こさせるために、伊勢崎がこのところ決まって持ち出しているのが、「北朝鮮」の脅威である。


 実は、日本は今こそ主体的に動くべきなんです。過激化の中和は、中立な人間にしかできない。アメリカの同盟国でありながら、なおかつ中立に見られているのは、日本しかない。ここにこそ、日本が主体的に行動するチャンスがあるのに、なかなかそうならない。なぜかと言えば、日本全体が、右も左も「保守」だからです。テロリストが日本国内に来ないかぎりは、どうでもいいんです。

 危機を煽るような発言にもなってしまいますが、現在の対テロ戦の主戦場はアフガニスタンです。しかし、アメリカにとって最も深刻なのは、パキスタンです。パキスタン・タリバンという新しい問題がどんどん巨大化しています。パキスタンが核保有国であることを忘れてはいけない。もしパキスタンが保有する核兵器がテロリスト、過激派に渡ってしまったらどうなるのか。北朝鮮とのつながりは、まだ分かりませんが、日本もこのくらいの危機感は持ってもいいはずです。(pp.141-142)


 それにしても、「北朝鮮とのつながりは、まだ分かりませんが、日本もこのくらいの危機感は持ってもいいはずです」というのは、あまりにもひどすぎるのではないか。「過激化の中和は、中立な人間にしかできない。アメリカの同盟国でありながら、なおかつ中立に見られているのは、日本しかない」というくだりも、何度読んでも根拠がまったくわからないが・・・。

▼3 ①星野俊也・川端清隆「対米追随から地球規模の主体的平和協力へ――民主党政権への提言」(『世界』2009年11月号、pp.186-195)

②川端清隆「「進化する国連平和維持活動――ハイチPKO参加が意味するもの(上)」(『世界』2010年6月号、pp.157-168)

③川端清隆「「進化する国連平和維持活動――ハイチPKO参加が意味するもの(下)」(『世界』2010年7月号、pp.240-249)

 論点が多いので詳しくは別エントリーで扱うが、川端らは「対米依存が続く限り、日本は基地再編下の沖縄や日米地位協定の見直しなど、米国との同盟関係に直結する諸懸案の根本的解決を果たせないのである」(p.189)と述べ、「対米依存」から脱却する手段として、「自衛隊の国連PKOへの本格的参加」(武器使用基準の緩和)やアフガニスタンISAFへの軍事参加、安保理常任理事国入り(工作)などを積極的に提言している(①)。

 川端はまた、PKOでの武器使用基準緩和について、「自衛隊の交戦規定を、少しでも現行の国連基準に近づける必要があろう。第一の課題は、他国のPKO要員やNGO職員などを対象とするいわゆる「駆けつけ警護」の是非である。日本は二〇〇一年に法改正を行い、自衛隊が武器を使って防護できる対象を「自己の管理下に入った者の生命、身体の防護」に拡大した。しかし、他国のPKO部隊や自己の管理下にない者は、今も守ることができない。防護する対象を、「PKOの展開地域で、国連活動に従事するか、国連と協力関係にある者」という、平和活動全体の安全を念頭に置いた基準に拡大すべきであろう」(③、p.247)として、いわゆる「駆けつけ警護」の容認を主張している。

 川端らの提言は、その多くが集団的自衛権の行使(「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」(1972年10月14日「政府資料」))の容認を(暗黙の)前提とするものである。

「在特会」化する「平和国家」日本 (後半)――伊勢崎賢治著『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』所感

●「掃討」の別働作戦としての「和解」、米軍の別働隊としての日本

 本書で伊勢崎が売り込んでいるもう一つの「構想」が、日本を仲介役とするタリバンとの「和解」である。結論から言えば、これは米軍・NATO軍によるタリバン「掃討作戦」(実態はあからさまな無差別攻撃)と連携して、「信頼される中立国」たる日本が仲介役となって、タリバンとの「和解」を成功させ、「戦争を終わらせる」という、実にふざけた「構想」なのであった。もちろん、米軍・NATO軍による「掃討作戦」と連携するところがポイントであり、「SSゾーン」構想にも引けを取らない、腐り切ったプロジェクトである(もちろん左派はほとんど批判していないが)。


 オバマ政権は、米軍増派という手段をとる一方で、タリバンとの和解を口にする。自分が和解の当事者になるということだ。

 しかし、勝機はタリバンの方に向いている。「穏健派」タリバンを特定できたとしても、そのタリバンは、今度は「裏切り者」として命を狙われることになる。

 そもそも、「増派」と「政治的和解」は両立しない。アメリカという紛争の当事者が、その両方を言えば、なおさらである。一方、「増派」で戦う意思の表明をしていないと、つまり威勢を張っていないと、「政治的和解」の席で「交渉」が成り立たないのも現実である。(p.42)



〔前略〕こういう「対話」の呼びかけは、敵がヨレヨレな時には功を奏するだろうが、疲れているのはこちら側である。そうなのに威勢を張って手を差し伸べるフリをする。既に見透かされている。「対話」は疲弊した戦争の当然の帰着だが、紛争当事者の片方から一方的に発する「対話」は、もう片方からは単なる“弱音”にしか見えない。(p.27)


 したがって、伊勢崎によれば、タリバンとの「和解」は、「アフガンでは国連より中立と見られる日本」が「仲介するしかない」のであり、日本はまさしく「最後の手段として」「期待されている」(p.43)のだそうだ(誰にだ?)。伊勢崎は、一方的な侵略国である米国を「紛争当事者の片方」と定義した上で、米国がタリバンと「対等」に「交渉」できるよう、米国に対して、米軍増派による「掃討作戦」の強化をけしかけつつ、同時に日本を「仲介役」として高く売りつけようとしているのである。

 伊勢崎は、「僕には、何というか、これだけアフガニスタンをめちゃくちゃにしたアメリカを、そして日本を、僕をあんな形で巻き込み利用したアメリカを、見返してやろうという気持ちがないわけでもない。でも、やるなら、建設的に。それは僕なりの愛国心かもしれない」(p.139)などと述べ、一部の左派の喝采を浴びているようだが、やっていることは、単なる対米癒着マニュアルの実践にすぎない(バージョンは微妙にアップされているのかもしれないが)。

 伊勢崎にとって、「和解」とはせいぜい「掃討」の別働作戦(の一つ)にすぎず、タリバンとの「和解」はタリバンへの分断工作の別名にすぎないのであった。


〔前略〕僕は、アフガニスタンと再び関わりはじめた二〇〇八年に、カルザイ政権に幽閉されているタリバンの元大幹部と、じっくり話し合う機会を得た。タリバン政権下で外務大臣を務めたムタワキルである。

 話題は「対話」の“実効性”について。しかし、開口一番、僕は静かに釘を刺された。つまり僕たちが言う、“穏健な”タリバンとの「対話」。これが、彼らを仲間割れさせるという目的ならば(そうに決まっているわけだが…)、それは絶対に成功しない、と。(pp.26-27)


 伊勢崎は、「そもそもタリバンの数や種類も分からない」(p.39)(▼4)などと、ぬけぬけと白状しているが、伊勢崎にとって重要なのは、「タリバンの数や種類」を把握することよりも、日本を「仲介役」とする「“穏健な”タリバンとの「対話」」という既成事実もしくは表象を作ることで、日本を「仲介役」とするタリバンとの「和解」という表象を仕立て上げ、ひいては日本を「仲介役」とする「戦争の終結」という表象を捏造することであると思われる。まさに、「掃討」の別働作戦としての「和解」、米軍の別働隊としての「平和国家」日本、というわけだ。なお、ここでいう「別働」とは、状況次第で「陽動」にさえ容易に変わりうると思う。


●アジア諸国との「和解」とは何か――「反日」と「親日」の分断工作

 ところで、本書の中で私が最も興味を覚えたのも、この「和解」に関わる箇所だった。なぜかと言うと、伊勢崎の「和解」構想に対する左派の無批判は、左派が近年積極的に主張しているアジア諸国との「和解」の内実を、そのまま反映しているのではないか、と思えるからである。つまり、左派の大多数は、伊勢崎と似たり寄ったりの位置から、アジア諸国との「和解」を訴えているのではないだろうか。もっとはっきり言えば、左派の大多数にとって、アジア諸国との「和解」とは、一義的にはアジアにおける「反日」と「親日」の分断工作であり、彼ら・彼女らは、「“穏健な”」アジアとの「対話」のみを求めることで、「和解」という表象を作り出すことに熱を上げているだけなのではないのだろうか。

 さらに言えば、「掃討」が不可能であるから「和解」を提唱する(「掃討」の延長上に「和解」を位置づける)伊勢崎の言説を批判しない左派は、実はアジア諸国との和解においても、「反日」の「掃討」が単に不可能であるから「和解」を主張しているだけなのではないだろうか。実際、「国民基金」や、私が「第二の国民基金」と呼ぶ「慰安婦」立法は、アジアの「反日」に対する「掃討」の欲望とその不可能性が、左派に「現実主義的」「和解」路線を取らせる例として見ることができると思う。そもそも、左派の多くは、在日朝鮮人を、長期的には「掃討」(=同化/ジェノサイド)の、短期的には「和解」(=「共存」)の対象として見ているのであって、前者に対する無自覚こそが、彼ら・彼女らの「善意」の源泉である(▼5)、と私は思っている。ついでに言えば、「和解」をする当の相手が誰だかわからないという伊勢崎と、他者不在の「和解」を「善意」で進める左派も、よく似ている、と言えるのではないか(その端的な例が「花岡和解」だろう)。

 日韓「和解」に意欲的な民主党政権が、在日朝鮮人に対するレイシズムの法制化(高校「無償化」法案における朝鮮学校排除、外国人参政権法案における朝鮮籍者排除など)を積極的に進め、左派が民主党政権を総体として支持していることも、左派の多くにとって「和解」が「掃討」の延長上に位置づけられていることを示唆しているように思う。この枠組みでは、アジア諸国との「和解」は、アジア(人)へのレイシズムの温存ないし強化とも矛盾しないどころか、むしろ合理的に共存しうるのである。


●伊勢崎式「対テロ戦争」ビジネスモデル

 さて、「伊勢崎構想」に話を戻そう。すでに述べたように、「伊勢崎構想」とは、「対テロ戦争」を「終わらせる」という触れ込みで、憲法9条を掲げて、すなわち、「平和国家」という欺瞞的な表象を最大限に利用しながら、日本が「主体的」に行う、もう一つの「対テロ戦争」である。仮に、この「伊勢崎構想」が、伊勢崎の目論見通りに実現することになれば、日本には伊勢崎を介して巨大な「対テロ戦争」利権が転がり込んでくることになるだろう。

 つまり、米国がA国を侵略し、民衆の抵抗運動に圧され始めたところで、「平和国家」日本がおもむろに登場し、抵抗運動を民衆自身に弾圧させて米軍の「撤退」を支援すると同時に、抵抗運動の拠点を「半永久的」な「経済特区」に改造して日本を始めとする「先進各国」企業を潤わせたところで、米国がB国を侵略し、民衆の抵抗運動に圧され始めたところで、「平和国家」日本が・・・という吐き気のするような「対テロ戦争」ビジネスモデルが、日本を不可欠なアクターとして完成するわけである。

 伊勢崎は、「対テロ戦争」利権についても、極めて饒舌に語っている。少々長くなるが、伊勢崎の主要な関心事項が、「対テロ戦争」に「巣食」う「業界」の創出にあることを露骨に示すインタビューである。ぜひご一読いただきたい。


佐々木 ご自身は「紛争屋」って呼んでいるんですか。

伊勢崎 はい。

佐々木 でも平和屋なんじゃないですか?

伊勢崎 いや、紛争屋っていうのは、紛争を巣食っているから。紛争を糧に生活しているんです。僕らが今までやっていたのは、いわゆる火消しですよね。紛争をどうするかっていうのは、だいたい、それが起こってからなんですよね。火消しは華々しいですから、火事場に駆けつけるのと同じで、非常にヒロイックですし、脚光も浴びますし、お金も儲かるわけですよ。その業界があるんですよ。

佐々木 紛争解決屋ね。

伊勢崎 解決もしないです。

佐々木 解決もしない?

伊勢崎 紛争処理って言ったほうがいいですね。あるいは、気持ちの上で、やっぱり紛争を、新しい紛争が起こるのを心待ちにするような……。

佐々木 刺激を求めて?

伊勢崎 そういうようなのがありますね。次の食いぶちを……。安全になってくると、火消し屋のニーズは下がってきますし。だから、非常に危険な業界なんですよね。

佐々木 平和になったら仕事がなくなる、と。

伊勢崎 そうです。でも紛争屋だけじゃない。だって、NGOだってそうじゃないですか。あれだって、紛争が起こって人道的ニーズがつくられることで食いつないでいるので。ジャーナリストだってそうじゃないですか。我々一般市民だってそうでしょ。戦争が起こると皆、ビール飲みながら、紛争情報を戦争文化を消費しているわけですよね。だから皆、紛争業界の一員なんですよ。

 で、たぶん損をするのは、被害者だけですよね。それ以外は全部、ある意味、戦争から裨益している。だから、そういう反省も込めて、小さな予防っていうことを、これからやらなきゃいけない。で、何をやらなきゃいけないかっていうのは、もう分かっているんです。

佐々木 何ですか?

伊勢崎 それは早期警戒です。

佐々木 早期警戒?

伊勢崎 火の用心とかね。必ず火種があるわけですよね、そういうときには日本のピンポイント的な国際援助が役に立つだろうし、それをただするんじゃなくて、ちゃんとした政策提言をしながら。内政干渉をやってもいいかもしれないね。ちゃんと届くようにね。

 民主化っていう言葉はあまり好きじゃないですけど、反政府勢力を民主化にするように、それからフリーなジャーナリズムを推進すること、それから多数政党民主主義をプロモーションすることは非常に大事ですし、いろんなやり方がありますでしょう。だからやることは大体分かっているんです。問題は、それが業界にならないんですよね。

佐々木 予防には、なかなかお金もついてこない。

伊勢崎 そうです。業界にならない限り、いくら能書きを垂れても、やることが分かっていても、意味がないんです。その中で人が食えなきゃ意味がないんです。〔中略〕今、目をつけているのが広告業界、クリエーターの世界なんですよね。

佐々木 ピースアドですね。

伊勢崎 そう。ピースアドです。ピースアドって、結構キャッチーでしょ? これは別に、ピースアドをやることによって、世の中が、特に民間企業がどういうふうに変わって、CSRの考え方も少し変わっていくとか、そういう具体的な戦略を立てられる状態じゃなくて、とりあえず広告業界をいじくれば、何かの起爆剤になるんじゃないかっていうぐらいの期待感でしかないんです。業界を作るための唯一の期待感ですよね。で、今、結構面白くなりつつあって。

 ご存知のように、紛争や戦争は、全部広告によって世論を形成しますよね。世論の支持のない戦争ってあり得ません。で、それに貢献するのが広告業界ですよね。ですから同じ広告の技術を逆のほうに使う、ということなんです。問題は、どうやったらお金がつくかっていう話ですよね。


 ewoman:「ウィンウィン対談 伊勢崎賢治さん 紛争解決のために、日本ができること」
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/7
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/8
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/9

 ・・・・・・という、あまりにも低劣な文脈の中で、「対テロ戦争」における民衆の抵抗拠点を「半永久的」な「経済特区」に改造するという、例の「SSゾーン」構想が出てくるわけである(念のため述べておけば、伊勢崎は大学教授であり、特に「食いぶち」に困っているようには思えない)。これはおそらく公にはなっていないだろうが、伊勢崎は経済界に対しても直接的・間接的に相当強力なロビイングを進めていると思う(もっとも、伊勢崎のことだから、少し調べればわさわさ出てきそうな気もするが)。これで日本の経済界・広告業界・「対テロ戦争」業界はウィンウィンウィンというわけだ。

 ちなみに、伊勢崎は、犬塚直史・民主党議員とタグを組んで、「「議員外交」と「民間外交」」(p.78)(「伊勢崎構想」のロビイング)を始めたときのことを、次のように回想している。


 この時は、一年後に民主党が政権を取ることになるなんて、考えてもいなかった。当時は、「与党」自民党も巻き込んで、たとえ日本の政権が変わっても基本方針は変わらないオール・ジャパンのコミットメントにしたいと考えていたのである。(p.79)


 「オール・ジャパンのコミットメント」を漢字変換すれば「挙国一致」になる。伊勢崎は自らが「VIP」(p.79)であるという表象を日々量産しているので(これも佐藤優と似ているが)、国内外における伊勢崎の政治的影響力が実際にどの程度なのかは、私には正確に判断できないが、とりあえず伊勢崎の触手が無駄に長いらしいことは確かだろう。


 結果として、これ〔「オール・ジャパンのコミットメント」〕は部分的に達成されることになる。今のところ、民主党以外では「与党」社民党の議員の参加しか得られていないが、「野党」自民党の有志をぜひ、これから巻き込む必要がある。できれば全政党に参加してもらいたい。(p.79)


 社民党、おまえもか・・・などとは、私は思わない。これもすでに書いたことだが、「伊勢崎構想」は、「対テロ戦争」を強力に支える「平和国家」日本の「国民戦線」と表裏一体の関係にあるわけで、自民党よりも社民党の方が「伊勢崎構想」への親和性はよっぽど高いのである。「対テロ戦争」を支える「平和国家」日本の「国民戦線」は、左派の主体的なコミットメントによって、初めて完成する。逆に言えば、左派が拒否する限りは成立しない、ということである。ここに私が左派の責任を厳しく問う論拠がある。


●「在特会」化する「平和国家」日本

 最後になるが、「伊勢崎構想」の主体となる「平和国家」日本とは、極言すれば、巨大な「在特会」のような存在として見ることができるのではないだろうか。「在特会」が、日本の植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任を否認して、日本民族中心の歪んだ歴史認識をもって、在日外国人(主に朝鮮人)の民族自決権・生存権を否定しながら、各地で襲撃を繰り返しているように、「対テロ戦争」を強力に支える「平和国家」日本は、自らの植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任を否認して、自国・自民族中心の歪んだ歴史認識をもって、国内外で外国人の民族自決権・生存権を否定しながら、米国とともに世界中で侵略を繰り広げていくことになるだろう。

 この事態においては、「平和国家」日本は、世界の「在特会」とも呼ぶべき、最悪のレイシスト国家であり、「平和国家」日本そのものが、「在特会」の入れ子構造をなしている、とさえ言えるだろう(「在特会」マトリョーシカ現象)。「平和国家」日本が「在特会」と異なるのは、「平和国家」日本においては憲法9条が日本国家/日本人の排他的特権および選民意識の中核に組み込まれており、そのため、「平和国家」日本の方が、質量ともに桁違いに暴力的になることであると思う。「在特会」が掲げる「日の丸」の表象には憲法9条は(おそらく)含まれていないが、「平和国家」日本が掲げるそれには憲法9条が積極的に取り込まれている。

 「平和国家」日本の国民は、「非武装」自衛隊の協力を得なければ「対テロ戦争」を「終わらせる」こともできない米国に対して優越感を抱きつつ、第三世界の民衆に対する殺戮と収奪を恒常化する「非武装」別働隊たる、自衛隊の海外派兵を支持することになるだろう。「伊勢崎構想」においては、親米であれ反米であれ、右派であれ左派であれ、「平和国家」日本という欺瞞的な表象とレイシズムを共有している限り、容易に結託することになる。

 したがって、「在特会」を批判する左派が、「伊勢崎構想」への批判を封印していることは、こうした「平和国家」日本の「在特会」化を推し進める結果にしかならない、と私は思う。詳細は省くが、最新(2月26日)号の『週刊金曜日』には「在日外国人参政権には反対です」という記事が掲載されており、もはや「在特会」的なるものと「左派」との境界線すら融解していることを端的に示唆している。

 繰り返しになるが、伊勢崎が「護憲派」を自称しているのは、伊勢崎の憲法9条観ではそもそも改憲自体が必要ないからであり、伊勢崎は、「国益」論的再編成を経た左派が必要とする、「憲法9条」を持つ「平和国家」日本の、「対テロ戦争」のイデオローグである。「在特会」を批判するのであれば、「伊勢崎構想」を、日本国家/日本人による、過去の、現在の、そして将来の侵略を、これ以上許し続けてはならない。


【蛇足】

 思いっきり蛇足なのだが、本書には「ゲリラの武装解除も ジャズも 刹那にかける」という東京新聞の記事(2009年10月6日付朝刊)が転載されている。


 東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さん(52)=平和構築学=は、自称「紛争屋」だ。アフガニスタンなど世界の紛争地で、ゲリラに銃を突きつけられながら武器を取り上げる武装解除に当たる。死と隣り合わせの仕事の傍ら、「刹那」にひかれ、6年前に始めたのがジャズトランペット。23日、新宿で難民支援のライブを開く。


 別に伊勢崎の趣味にまで文句をつける気はさらさらないが、あまりにも見過ごせない一節があったので、以下に引用する。


 初めて覚えたのはアメリカ国歌。「好きな国じゃないけど、ジャズ発祥の地だから」。


 ・・・・・・「アメリカ国歌」はジャズと関係ないだろうが。どんだけ歴史認識も音楽センスもないんだよ。


▼4 

 ●誰と和解するのか、何を条件にするのか

 仮に、こちら側の一枚岩性が確保できたとして、その先にもまた問題がある。そもそも和解の相手とは誰なのか。(p.38)



 ●そもそもタリバンの数や種類も分からない

 もっと初歩的な問題もある。アフガニスタンにいるタリバンとは、一体どのくらいの人員の戦闘集団なのか。

 これが、実は驚くほど曖昧なのだ。

 地方によっても、一〇〇〇人単位の雑な捉え方しかできず、全体では一万人いるだろうとか、いや一万五〇〇〇人ぐらいは…とか、そんな感じである。ちゃんと把握できていたら、とっくに掃討しているはずである。(p.39)


 伊勢崎は、タリバンとの「和解」のためには「タリバンの数や種類」を把握する必要がある、と述べる一方で、仮に「タリバンの数や種類」を「ちゃんと把握できていたら」、タリバンを「とっくに掃討しているはずである」(つまり「和解」などするはずがない)と臆面もなく語っている。伊勢崎の言説は論理的に破綻の極みだが、それを批判しない左派は倫理的に破綻の極みであると思う。伊勢崎が「和解」を「掃討」の「次善策」として見ていることは明らかである。とどめに伊勢崎の発言をもう一つ挙げておこう。


 今、危険だと思っているのは、僕が「和解」と言っていたでしょ? 繰り返しますが、僕は、「和解がいい」とは全く言っていないんです。「和解にならざるをえないだろう」と言ったんですよね。和解っていうのは妥協ですから。だって、正義があって戦争が起こったわけでしょう? その正義を蹂躙するものとして敵を想定したわけです。その敵と妥協することは、すなわち正義に対して妥協することですから。


 ewoman:「ウィンウィン対談 伊勢崎賢治さん 紛争解決のために、日本ができること」
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/1/3

 伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派は、こんなふざけた「対テロ戦争」聖戦観に違和感すら覚えないのか。

▼5 例えば、高校「無償化」法案における朝鮮学校の排除に反対する左派の典型的な意見として、朝鮮人も「日本社会の一員」なのだから差別的な扱いをするべきではないというもの(朝日新聞メソッド)がある。この主張は一見もっともなようだが(?)、在日朝鮮人を「日本社会の一員」に還元することで、実際には日本国家/日本人が在日朝鮮人の民族自決権を日々侵害している現状を(無自覚に)追認・補強するものであると思う。

 また、朝鮮学校は、最近では日本国籍の生徒も通っており、朝鮮籍・韓国籍の生徒も日本の学校に通う日本国籍の生徒と「何も変わらない」のだから、差別はよくない、といった意見も散見されるが、どう考えてもこれはおかしいだろう。朝鮮学校に日本国籍の生徒がいるという事実は、在日朝鮮人に対する社会的・制度的差別の端的な帰結である。差別の帰結を肯定する位置から差別を批判しようとする、一部の左派の言説は、完全に転倒していると思う。

 在日朝鮮人も日本人と「何も変わらない」などという「善意」の差別も醜悪すぎる。在日朝鮮人と日本人は歴史的にまったく対極の存在であり、表面的には似ていることも、その歴史性のためである(つまり、一見似ていればいるほど、実際には似ていないわけである。もちろん、一見似ていない場合も、実際に似ていない。要するに、どちらにしても似ていない)。そもそも、侵略の加害民族と被害民族が「何も変わらない」のなら、世界中のあらゆる差異は即座に消滅するだろう。「左右の「バカの壁」」(佐藤優)どころの話ではない。8.15以後も「何も変わらない」のは、日本人左派のおめでたさではないのか。

 もう少し補足すると、朝鮮学校の生徒の国籍別内訳は、朝鮮籍が46%、韓国籍が53%、日本国籍・その他が約1%である(データは2008年)。この統計は、日本国籍の生徒のほとんど全員が日本の学校に通っていること、すなわち、日本国家/日本社会による在日朝鮮人への同化圧力の凄まじさを露呈しているのであり、この基本的な事実を無視して、在日朝鮮人も日本人と「何も変わらない」などと「善意」で語れる神経は、あまりにもどうかしていると思う。

 ・・・というようなことを、「左派」に向けてわざわざ書かなければならないのは、けっこう虚しい。

「在特会」化する「平和国家」日本 (前半)――伊勢崎賢治著『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』所感

 伊勢崎賢治の新刊『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版、2010年)を読み終えた。過去2回(「「伊勢崎構想」とは何か――「平和国家」日本にしかできない「対テロ戦争」」「「伊勢崎構想」で何が問われているのか――植民地支配・侵略戦争・戦後責任」)にわたって、伊勢崎と伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派を散々批判してきたつもりだったが、新刊を読んでわかったことは、あの程度の批判ではまだ甘かったらしい、ということである。もしかすると、私の側にかれらに対する「美しい誤解」があったのかもしれない。

 というわけで、以下に伊勢崎賢治著『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』の所感を取り上げる。なお、本書を読み、過去2回のエントリーに訂正するべき箇所がない旨確認したことを付記しておく。


●「伊勢崎構想」とは何か――「平和国家」日本にしかできない「対テロ戦争」で大儲けのススメ

 いきなり下劣な見出しで恐縮だが、本書で提唱されている「伊勢崎構想」を簡潔にまとめるなら、それは、「平和国家」日本にしかできない「対テロ戦争」で大儲けのススメである、と言える。表現が下劣なのは、実態が下劣だからであるとしか、この場合は言いようがない。以下にその理由を述べる(本書引用部の強調はすべて引用者による)。

 「伊勢崎構想」の目玉(として伊勢崎が日本国内外でロビー活動に励んでいる)のが、以前にも紹介した、「非武装の軍事監視団」への自衛隊の参加による「シェアード・セキュリティ・ゾーン(支え合う安全な場)」の構築、すなわち「支えあう安全保障ゾーン(SSゾーン)の構想」(p.78)である。伊勢崎は、本書で新たに、「SSゾーン」を「半永久的」な「経済特区」にすることを提唱している。どうやら伊勢崎の俗物力は佐藤優とタメを張れるレベルにあるらしい。心の底からげんなりするが、とりあえず引用していこう。


 ●タリバンの嫌がるインフラを敢えてつくる

 同時に、SSゾーンには、開発援助の英知を最大限に集める。とにかく政府開発援助(ODA)を集中させて、「短期集中効果プロジェクト」(Quick Impact Project: QIP)を実施する。電力、そして教育施設を中心に、とにかく「開く」

 特に、「タリバンが嫌がりそうな」、そして「タリバンがすぐに壊しに来るような」プロジェクト敢えて最初に、集中して実施するのだ。学校建設、特に女子教育のそれだ。

 そして、コミュニティに、「自分たちの財産だから自分たちで守る」という意識を、「逆療法的」に刺激するのだ。逆転の発想である。(pp.56-57)


 『マガジン9条』のインタビューでは、伊勢崎は、「SSゾーン」について、「もちろん、いくらコミュニティを味方につけても、タリバンが攻撃してくるだろうというリスクはある。人命が失われることも確かです。それでもやらなくちゃいけない」と語っていたわけだが、何のことはない、「タリバンが攻撃してくるだろうというリスク」と「人命が失われることも確か」な状況は、伊勢崎自身ががせっせとお膳立てをしているのであった。

 要するに、伊勢崎は、タリバンにアフガニスタンの民衆(や「非武装」自衛隊員)を殺させるよう仕向けることで、「人心掌握の戦い」に勝利しようとしているのである。まさに佐藤優の「インテリジェンス」を彷彿とさせる卑劣な策謀であり、しかも、そのことを著書で堂々と公言しているのだから、もう呆然とするしかない(この饒舌さも佐藤そっくりである)。「逆療法」だか「逆転の発想」だか知らないが、この発言を問題視しない左派は、いくらなんでも終わりすぎではないのだろうか。

 ・・・・・・気が滅入るが、引用を続けよう。


 更に、このSSゾーンを「経済特区」にもする。

 ここで生産され輸出されたものに対して、それを輸入する先進各国は、関税をかけないようにする。こうしてODAだけでなく、民間の投資を誘導していくのだ。

 はたして、このSSゾーンで何が獲れるのか。そんなことは、後で考えればいい。まず、関税をゼロにする法律を先進各国に作ってもらいたい。政府、国家としてアフガニスタンの和平に「半永久的」に関与するという政治姿勢を、まず法律として確固としたものにするのだ。それを日本がまず率先して実行する。

 とにかく「時間」と「見える効果」が課題だ。凝り固まった発想しかできない「開発援助専門家」だけに任せてはいられない。民間の起業・創造力に頼るのだ。そのための法的枠組みを、まず作るのだ。

 最初の小さなSSゾーンで実績を作り、そして、それをアフガン国内、特に隣接する他のコミュニティに効果的に広報し、だんだんと対象地域をひろげる。そして、ゆくゆくは、SSゾーンを国境地域の全体に及ぼしていくというのが、この構想である。(p.57)


 言うまでもなく、「先進各国」が「アフガニスタンの和平に「半永久的」に関与」し、「民間の起業・創造力に頼る」ための「法的枠組みを」「作る」ということは、「先進各国」がアフガニスタンの「半永久的」な支配と収奪を「挙国一致」で(官民挙げて)進めていくことを意味している。なお、「11.23東京会議」(2009年11月23日から3日間にわたって東京で開催された非公式会議。主催関係者は伊勢崎や犬塚直史・民主党議員ら。参加者は、アフガニスタン、パキスタン、サウジアラビア、イランの各政府担当者、およびNATOの閣僚・司令官クラスの実務者)でも、「SSゾーン」で「「経済特区」的な国際経済支援を実施すること」(p.126)が決定された(▼1)という。

 さらに、「SSゾーン」構想は、米軍・NATO軍の犯罪的な役割を、アフガニスタンの民衆に肩代わりさせる、帝国主義的・植民地主義的プロジェクトでもある。まさに帝国主義者・植民地主義者の「英知を最大限に集める」プロジェクトであるわけだ。


〔前略〕SSゾーンが設置されたら、まずそこから米軍・NATO軍が撤退するのである。そして、アフガン国軍と、前述の日本の「交番システム」のように「人身掌握」のための特別な訓練を受けた優良なアフガン警察に、全責任を引き継いでいく。

 そして、この措置を効果的に広報、啓蒙するのだ。SSゾーンが拡大していけば、米軍・NATO軍が撤退する地域も広がっていく。それをわかってもらうのだ。(p.63)


 伊勢崎によれば、「SSゾーン」構想が成功する条件は、「信頼される中立国による停戦監視」(p.63)であり、したがって、「わが自衛隊を「信頼醸成」の要として、非武装で、このSSゾーンに派遣する」ことが「SSゾーン構想の重要な中身」(p.133)になるのだそうである。さらに恐ろしいことに、伊勢崎は、「SSゾーン」構想を実現するためには、アフガニスタン―パキスタン国境が「朝鮮半島みたいにな」「らないよう」な「工夫が必要だ」、と述べている。


 克服すべき問題の一つは、国境をまたぐ今のアフガニスタン新国軍とパキスタン軍が、歴史上、両者だけの環境では、実践レベルでの対話をしたことがないということだ。しかも、アフガン国軍の中の旧北部同盟の連中は、基本的に、タリバンを支援したパキスタンに対する深い不信感がある。

 その結果、下手をすると、一発の銃声で、この国境が朝鮮半島みたいになる可能性がある。そうならないよう、両軍の間の信頼醸成のための工夫が必要だ。(p.63)


 伊勢崎はそもそも朝鮮がなぜ分断されているのかも知らないのかもしれないが、さすがに左派が知らないはずはないだろう。かれらはなぜ、よりによって自衛隊の海外派兵を正当化する文脈で朝鮮分断を持ち出す伊勢崎の暴言を、そのまま許していられるのだろうか?「朝鮮半島みたいにな」「らないよう」、「わが自衛隊」がアフガニスタンに介入しなければならない、という伊勢崎の「構想」を、朝鮮・日本の近現代史を知った上で批判しようとしないのなら、それはもう頽落というほかないと思う。

 伊勢崎の非客観的・非科学的な主張は、この後も延々と続き、ついには「非武装自衛隊の派遣は憲法九条の具体化だ」(p.132)という啓示が下される(▼2)に到る。ここまでくると、もはや神がかった感があるが、伊勢崎をカルトの教祖か何かだと思えば、オチとしてはむしろ相応しいのかもしれない。

 以上が、「伊勢崎構想」の核心となる、「非武装の軍事監視団」への自衛隊の参加による「SSゾーン」構築の概要である。「伊勢崎構想」が、「平和国家」日本にしかできない「対テロ戦争」で大儲けのススメであることについては、後半でさらに裏づけするが、これまでの分析からも、かなりの程度明らかにできたのではないかと思う(というか伊勢崎が勝手に明らかにしてくれているわけなのだが)。


●伊勢崎賢治妄言録

 ところで、本書を読んで改めて痛感したのは、伊勢崎の言説を批判しないまま、本書の制作・宣伝に一役買っている左派の脳内は、一体どうなっているのか、ということだった。左派が黙認、容認、あるいは支持している、伊勢崎の妄言のごく一部を、ここで紹介しておこう。

1.「「敵」は民衆から生まれ、民衆を巣とする」(p.3)

 伊勢崎は、米国のアフガニスタン・イラク侵略は、米国がアルカイダに「誘い出」された、つまりハメられた結果であり、したがって、「対テロ戦争」の「「敵」は民衆から生まれ、民衆を巣とする」と主張する。


 それは結果としてそうなったのか。

 それとも当初から彼らの戦略だったのか、定かではない。

 しかし、見事と言わざるを得ない。

 国際テロ組織アルカイダは、アメリカの本土に乗り込んで全面戦争をするなんて気は更々ないのだ。米本土へは、あくまあで、「金のかからない」テロ。そして、米国民を臨戦ヒステリアに陥れ、米軍を米本土から誘い出す。誘い出す先は、イスラムの地。タリバンと手を組んでアフガニスタン。そしてイラクへ。

 そこでは、米軍は、どんなに取り繕っても「異教徒の征服者」にしか見えない。「敵」は民衆から生まれ、民衆を巣とする。強硬な軍事作戦は、「民族浄化」との謗りとの板挟みで「消耗」する……。(p.3)


 ・・・・・・素朴に不思議なのだが、伊勢崎は自分が何を言っているかを理解しているのだろうか?伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派は、自分が何を読んでいるかを理解しているのだろうか?ここで伊勢崎は、「対テロ戦争」が「敵」の狡猾な罠であり、侵略者である米国は、むしろ「敵」の「戦略」に釣られた被害者なのだ、と言っているわけである。単純な疑問として、かれらは侵略を悪いことだとは特に考えていないのだろうか?伊勢崎が「「敵」は民衆から生まれ、民衆を巣とする」という暴言を吐き、しかもそれを左派が批判しないという、日本の現在位置は、大日本帝国とどれだけ離れていると言えるのだろうか?

 「強硬な軍事作戦は、「民族浄化」との謗りとの板挟みで「消耗」する」とは、一体どういう意味なのか?米軍がアフガニスタンやイラクで行っていることは、民族浄化そのものではないのか?アフガニスタンやイラクの民衆が侵略に抵抗することは、「「民族浄化」との謗り」なのか?

 伊勢崎「教授」は、各地で意欲的に「講演」をこなし、こうした暴言を撒き散らしている(具体例)。もっとも、伊勢崎への批判を封印しているのは左派だけだろうから、伊勢崎はどうやらおかしいのではないか、という認識は、今後、一般的には少しずつでも広がっていくように思う。

2.「「イスラム対我々民主主義」みたいな文明の衝突的な構図」(p.75)

 次の発言も、伊勢崎が本格的におかしいらしいことを認識するきっかけになるだろう。


 対テロ戦というのは、僕らがこれまで経験してきたような、たとえばアフリカの小国の現政権と反政府ゲリラのような対立構造ではない。何せ、世界最大の民主主義国が始めたもので、「イスラム対我々民主主義」みたいな文明の衝突的な構図がある。しかも、我々が相手にしているのは、教義のために爆弾を身体に巻いて死も厭わない人々である。(p.75)


 「世界最大の民主主義国」というのがネタではなくベタらしいことにも驚くが、ブッシュでさえ撤回せざるを得なかった、「「イスラム対我々民主主義」みたいな文明の衝突的な構図」という妄言を、堂々としてのける厚顔無恥には、ひたすら恐れ入る。この妄言を読み流せる左派は、建前はどうあれ本音では、「対テロ戦争」を「文明の衝突」として捉えているのかもしれない。「我々が相手にしているのは、教義のために爆弾を身体に巻いて死も厭わない人々である」という伊勢崎の台詞は、そのまま「我々は、自らの利益のために他国を侵略し、他国民を虐殺することも厭わない人々である」と読み替えるべきだろう。

3.「家族を失った者は・・・タリバンに寝返る」(p.60)

 伊勢崎は、「対テロ戦争」の「「敵」は民衆から生まれ、民衆を巣とする」ことについて、次のように語っている。


〔前略〕今、この地域〔アフガニスタン―パキスタン国境地域〕のアフガニスタン側ではNATO軍が治安を担っている。これは、イスラム社会の側からすれば、「異教徒の征服者」に見える。学校建設や医療事業など人道援助に心を配っても、表面的な感謝はされるが、やはり、異教徒が軍事力を使ってイスラムの地に君臨するという構図は変わらず、根本的な嫌悪感を拭うことはできない。

 しかも、このコミュニティが、掃討作戦の戦場になっているのである。やればやるほど二次被害を生みだし、一般住民が戦闘の犠牲になる。家族を失った者は、アメリカとNATOに対する怒りから、タリバンに寝返る。(p.60)


 どうしてアフガニスタンの民衆が「タリバンに寝返る」ことができるのか?まったく意味がわからない。「寝返る」というからには、「寝返る」前には彼ら・彼女らは米軍とNATOの「側」だった、と伊勢崎が認識していることを示しているが、侵略軍の占領下に置かれた民衆が、たとえ部分的・一時的にしろ、侵略者の「側」に立つことを当然視するような、この感性はいったいどこから湧いて出てくるのか?

 「寝返る」という言葉を正しく使うなら、伊勢崎の言説を無批判に受容している日本の左派こそが、アジアの、そして世界の民衆を裏切って、「アメリカとNATOに」「寝返」った、と正確に言うべきだ。もっとも、伊勢崎の発言を違和感なく流せる日本人は、日本の植民地支配・侵略戦争を本音では反省していない可能性が高いので(本当に反省しているのなら、これほど冒涜的な発言の数々を野放しにはできないだろう)、わざわざ「寝返る」までもなく、徹頭徹尾アジアと世界の民衆に敵対しているのかもしれないが。

 念のため書いておくと、私は、アフガニスタンの民衆はタリバンの側に立っている、などと憶測しているのではない。タリバンが誰の側に立ち、誰に敵対しているのか、米軍とNATOが誰の側に立ち、誰に敵対しているのかは、アフガニスタンの民衆が一番よく知っているはずだ、と言っているのである。アフガニスタンの民衆を、米軍とNATO、あるいはタリバンによる、一方的な「人心掌握」の対象として貶め、彼ら・彼女らの主体性・民族自決権を一切認めようとしない伊勢崎の発言(▼3)は、あまりにも恥知らずであると思う。


▼1 

 「11.23会議」においては、当然、SSゾーン構想も扱われた。議論された骨子は以下の通りである。

 ――地元コミュニティの強化が先決。しかし、それは「非合法民兵の再武装・合法化」ではなく、優良な警察力との信頼醸成を図ることであること。

 ――それを土台として、治安の権限を、アメリカとNATOから優良なアフガン国軍・警察へ完全に移譲すること。

 ――国境上に駐留するアフガン国軍とパキスタン軍との間で信頼醸成を行うため、国連主導の非武装軍事監視団を創設すること。

 ――以上の治安維持装置下で「経済特区」的な国際経済支援を実施すること。(p.126)



▼2 

 護憲派は、この構想をどう受け止めるだろうか。自衛隊を派遣することは、どんなものであれ絶対にだめだと言うのだろうか。

 憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書かれている。続いて、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を軽視してはならない」と宣言している。

 これを読めば、一国平和主義ではいけないと憲法は言っているのだとわかる。世界中から戦争をなくすため、日本はイニシアチブを発揮すべきだというのが、前文の立場である。現行憲法は、九条を使って前文の理念を実行しなさいと言っていると思うのだ。前文抜きで、九条の維持だけを目的化するのは「違憲行為」だと僕は思う。

 護憲派は、非武装自衛隊の派遣で実績ができたら、ゆくゆくは武装した自衛隊派遣につながるのではないかと、疑念をもつかもしれない。けれども、僕は、武装兵を出さないためにも、非武装の軍事監視員が必要だと思う。

 軍事監視には中立性が必要だから、地上部隊を出せば、特にアフガニスタンにおける対タリバンという文脈の中では、中立性が喪失する。そうなれば、自衛隊による軍事監視業務そのものが成り立たなくなるのだ。(pp.132-133)


 伊勢崎は、「武装兵を出さないためにも、非武装の軍事監視員が必要だ」と述べているが、呆れることに、伊勢崎がその根拠として本書で挙げているのは、自衛隊の「中立性が必要だから」という点に尽きる。自衛隊の「中立性」など始めから虚構であり(「対タリバンという文脈の中で」すでに「中立性」など「喪失」済みである)、「武装」であれ「非武装」であれ、自衛隊の派兵はその虚構をいっそう明らかにする結果を招くだろう。伊勢崎の弁明は始めから破綻している。

▼3 本書はこの手の発言のオンパレードである。伊勢崎は、米軍増派のもとで行われた、2009年8月のアフガニスタン大統領選挙の投票率低下について、民衆を侮辱する暴論を重ねている。


〔前略〕つまり、「投票に行くな、さもないと腕を切り落とす」というタリバンの脅しにアフガン有権者が負けぬよう治安を強化する。アメリカ国内外にアフガン政策の成功を印象づけ、アフガニスタンからの米軍撤退を正当化するセレモニーにしたい。これが増派の目的であった。

 しかし、蓋を開けてみれば、投票率は、二〇〇四年に行われた前回の選挙から半減。四割以下の投票率となった。特に、投票率低下が懸念されていたアフガン南東部、伝統的にタリバンを生んだ最大民族パシュトゥン族が暮らすパキスタンとの国境地帯、つまり対テロ戦の主戦場に、この増派は集中されたが、その投票率は逆に最低を記録した。

 タリバンの勝ちである。(p.12)


 伊勢崎は、大統領選挙が「アメリカ国内外にアフガン政策の成功を印象づけ、アフガニスタンからの米軍撤退を正当化するセレモニー」であることを認めつつ、投票率の低下は「タリバンの勝ち」などといった浅薄な民衆観を披露している。民衆への一貫した侮蔑は、本書に限らず、伊勢崎の言説の底流をなしている。伊勢崎にとって、アフガニスタンの民衆とは、米軍とタリバンの間をひたすらなびき続ける凧のような存在なのかもしれない。伊勢崎はいずれ、自らの発言のツケを払うことになるのではないか。

「伊勢崎構想」で何が問われているのか――植民地支配・侵略戦争・戦後責任

 前回に引き続き、再び「伊勢崎構想」について、伊勢崎賢治著『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版、2008年3月)および、伊勢崎賢治編『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』(高文研、2008年4月)より。伊勢崎のこれらの著作は、どのページをめくっても不愉快さから逃れられないが、その根本的な原因は、おそらく伊勢崎の歴史認識(というものが伊勢崎に仮にあればだが)にあると思う。この点は、「伊勢崎構想」を評価する際の決定的なポイントである。今回はそのことについて述べてみたい(文中の強調はすべて引用者による)。


●「伊勢崎構想」で何が問われているのか

 アフガニスタンから帰国後、「護憲派宣言」(「バルフォア宣言」の仲間か?)をした伊勢崎は、「とにかく少し変わった護憲派があらわれたということで、突然、いろんな人たちから接触を受けることにな」(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、p.16)り、「九条の会」の本部や、「民主党のリベラルの会からも、共産党からも取材があった。部落解放同盟からも」(p.16)取材を受けた、と語っている。部落解放同盟とのつながりをさり気なくアピールすることで、伊勢崎は左派からの批判を封じようとしているのかもしれないが、部落解放同盟の指導部が、8.15以後も全国水平指導部の侵略責任を否認し続け、「PKO協力法」の成立と維持に協力してきた人々の集まりである(▼1)ことは、思い起こす必要があるだろう。

 このことは、植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任の徹底的な否認と未清算の上に成立している、「平和国家」日本という巨大な欺瞞を、伊勢崎や伊勢崎を支持する人々が共有していることを示す、一例にすぎない。「伊勢崎構想」で問われているのは、「非武装」自衛隊による「平和構築」の可能性を積極的に評価するかどうかということではない(▼2)。それは、日本国家/日本人の植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任に、私たちがどのように対峙するかが、直接問われる命題であると思う。

 伊勢崎は、シエラレオネでRUF(革命統一戦線)の「指揮官も含む全員が恩赦の対象」(p.50)とされた(ただし、伊勢崎も言及しているように、シエラレオネ特別法廷による一部戦犯の追及も行われている)ことについて、次のように述べている。


 武装解除は完了したので、これから当面は、武力紛争は起きないかもしれない。けれども、戦争で人を殺しても問題にならない、裁かれないのだという意識が植え付けられれば、戦争を再発させる土壌をつくってしまうのではないだろうか。間違ったメッセージを次の世代に発してしまうのではないだろうか。(p.51)



〔前略〕ロメ合意で、一時的にでも完全恩赦を与えたという歴史的事実、それがもとで今の和平があるという事実は、これからシエラレオネ社会の倫理回復にどういう影響があるのだろうか。(p.52)


 「戦争」を「侵略」に、「ロメ合意」を「天皇制存続」に置き換えれば、どう考えても、ほとんど日本そのままである。しかし、伊勢崎の脳内においては、戦争責任とはどうやら第三世界にしか存在しないらしいのであった。それどころか、伊勢崎は「二〇〇七年の三月にアフガニスタン国会で可決された「恩赦法」」について、「タリバンとの和解は、現実味を持った話である」(p.124)とした上で、本書の「あとがき」を次のように結んでいる。


 〔前略〕日本人が、“テロリスト”との和解を、単に自衛隊派遣に反対するためだけの対案として扱うことは不謹慎である。その不謹慎さに気づくには、われわれ日本にとっての北朝鮮問題に当てはめて考えるといいだろう。

 拉致問題という、日本人が直接の被害者である北朝鮮という存在を、横田めぐみさんのご両親の顔を思い浮かべながら、それでも平和のために赦さなければならない場面がきたら、どうするか…。

 この真剣さと「当事者意識」をもって、アフガニスタンにとっての「究極の選択」の支援を、「対テロ戦」の将来を、われわれ日本人は考えていかなければならないと思う。(p.159)


 伊勢崎いわく、「われわれ日本人」にとって、「対テロ戦」への「真剣さと「当事者意識」」とは、「北朝鮮という存在」が「“テロリスト”」であることを繰り返し確認する作業によって、適切に培われるであろう礼儀作法なのだそうだ。一方、伊勢崎にとって、「われわれ日本」「という存在」は、以下のように定義(妄想)されている。


 アフガニスタンの軍閥は、われわれが行くと、例外なく言う。「日本だから信用しよう」と。

 アフガニスタン人にとって日本のイメージは、世界屈指の経済的な超大国で、戦争はやらない唯一の国というものだ。もちろん、アフガニスタン人の軍閥が憲法九条のことなんて知るはずもない。しかし、憲法九条のつくりだした戦後日本の体臭というものがある。九条のもとで暮らしてきたわれわれ日本人に好戦性がないことは、戦国の世をずっと生き抜いてきた彼らは敏感に感じとる。そういう匂いが日本人にはあるのだ。これは、日本が国際紛争に関与し、外交的にそれを解決する上で、他国には持ちえない財産だといえる。そういう日本の特性のおかげで、僕らは、他国には絶対できなかった事をアフガニスタンでできたのだ。(p.67)


 ・・・・・・素朴な疑問だが、左派はこんな人物に何を期待しているのだろうか?伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派は、植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任の否認と未清算の上に成立している、「平和国家」日本という欺瞞を批判するよう、今からでも努力するべきだと思う。


●「破綻国家の復興業界人」ですが、何か?

 伊勢崎は自らをプロの「紛争解決人」と称し、左派の一部もそうした自称を無批判に受け入れているようだが、伊勢崎は「紛争解決人」というより、「破綻国家の復興業界人」と呼ぶに相応しい。これは私の中傷ではなく、本人の言葉を借りて言っているのである。


〔前略〕冷戦後、一九九〇年代以降は国内の内紛がそのまま武力衝突になって、国家が破綻するというケースが増えてきました。どうしてそうなったのかについては、いろいろ議論があると思いますが、そうした事例が増えたことは間違いありません。

 それとともに、いわゆる破綻国家に対して、内戦処理や復興のため「国際協力」ということでお金がたくさん動くようになった。一九六〇年代以降にはアフリカ諸国が相次いで独立していきますが、その当時には国際社会がその国づくりや民主主義の育成に、そんなに労力を注ぐことはありませんでした。しかし、今日は様相が異なって、国際社会が破綻国家のまま放置するということはなくなりました。あわせて、「復興」にあたっては、大きなお金が動くひとつの「業界」が作られるようになりました。そういう背景の中で、DDRという概念が生まれてきたのです。(伊勢崎賢治、『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』、高文研、2008年、p.40)


 「破綻国家」の定義もせずに、「破綻国家」が増えた原因は「いろいろ議論があると思います」も何もないだろうが、とりあえず、伊勢崎が「破綻国家」の「復興」「業界」人であることは、これで裏が取れた。伊勢崎が、朝鮮に対する日本、東ティモールに対するオーストラリア、シエラレオネに対する英国、アフガニスタンに対する米国(▼3)の歴史的責任を黙殺しているのは、伊勢崎が単に植民地主義者・帝国主義者である(▼4)からというだけでなく、伊勢崎が「破綻国家」で飯を食うためのスポンサーが「先進国」であり、したがってスポンサーへの批判はタブーであるという、さらにろくでもない事情があるのだと思われる。

 また、これは今さらだが、伊勢崎が「護憲派」を自称しているのは、伊勢崎の憲法9条観ではそもそも改憲自体が必要ないからである。


 日本国憲法は、世界の紛争に対し、傍観せよという立場をとっていない。

 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

 憲法前文が示しているのは、傍観主義ではない。積極的な行動平和主義ではないだろうか。そして、人の命を守るために軍事力が必要になる局面がある現実を踏まえ、憲法にそった平和のための軍事支出があり得ると考えるべきではないのだろうか。(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、p.77)

 

 日本にとって最も重要な判断基準は、憲法九条にもとづく外交力という特徴が維持、活用できるのかどうか、ということになると思う。派遣することによって、それが台無しになるなら、それは日本の国益にならない。(p.102)


 伊勢崎賢治は、「国益」論的再編成を経た左派が必要とする、「憲法9条」を持つ「平和国家」日本の、「対テロ戦争」のイデオローグである。佐藤優と伊勢崎賢治の需要は必ずしも重なってはいないだろうが、両者を必要とする欲望は、半ば以上重なっているように思う。


●植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任

 伊勢崎が、2007年11月5日の「衆議院テロ特別委員会における証言と質疑」において、次のような発言をしていることは、北朝鮮に対する先の発言と合わせて、伊勢崎の言説を評価する上で、広く知られてしかるべきだろう。


〔前略〕DIAG〔注:「DDRの後継プロジェクト」である「非合法武装組織の解体」〕を通じて、とにかく武装勢力と何らかのつながりがある、それが証明されただけでその政治家は罷免するような法案を通さなきゃいけません。これは大変に困難な作業であります。もちろん、その反動も来ます。その代償として、少し一般市民の命も奪われるでしょう。でも、この痛みを経ないとアフガンは浄化されません。これが、今の世界テロ戦の行き詰っている元凶なわけであります。(pp.150-151)


 伊勢崎が新刊でもこうした主張を明確に掲げているのかはわからないが、その後も発言を公的に撤回していないなら(たぶんしていないと思うが)、こうした主張は今でも有効だと考えてよいだろう。伊勢崎が第三世界の民衆の生を徹底的に見下していることは、まったく誤解の余地がない。伊勢崎を支持する左派は、この発言にも異議を唱えないというのだろうか?たとえ、この発言を知らずに伊勢崎を支持しているのだとしても、「対テロ戦争」を肯定し、それに協力することは、結局のところ、第三世界の民衆の命を奪う(「浄化」する!)ことを肯定し、それに協力することではないのか。

 「伊勢崎構想」をどう評価するかは難しい問題だ、という意見が左派系ブログでも散見されるが、私は何も難しい問題などないと思う。「伊勢崎構想」を否定するのに複雑な論理は必要ない。日本国家/日本人による、過去の、現在の、そして将来の侵略を、これ以上許し続けるのか。そのことが端的に問われている。


▼1 「一九二二年三月三日に、京都で全国水平社創立大会がひらかれた。

 日本の被差別部落民衆が団結して、みずからを解放しようとして全国水平社を結成したことは、日本の民衆運動に大きな意味をもつことであった。

 全国水平社の創立は、おおくの日本の被差別部落民衆の解放にむかう力をさらにつよめていく契機となるものであった。

 しかし、「七・七事変」以後、全国水平社は、日本の民衆を部落差別から解放する組織ではなく、「東亜共同体建設」「挙国一致」「国民融和」をかかげて、被差別部落民衆をアジア侵略にむかわせる組織となった。

 全国水平社に結集した被差別部落民衆は、創立大会では、「人生の熱と光」を「願求礼賛」し、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と宣言したが、その約一七年後、一九三八年一一月の一五回大会では、「水平歌」ではなく「キミガヨ」をうたい、会場正面に荊冠旗ではなく「ヒノマル」をかかげ、
  「日本民族の崇高なる使命として東亜共同体建設の雄大なる偉業が樹立されんとするの秋、挙国一致の完璧を期し国家総力の発揚に努め、以て天業翼賛の誠を竭すことは融和報国の赤誠に燃ゆる吾等の本懐とする処である」
と、宣言した。(1)

 一九九二年は、全国水平社創立七〇周年であった。だが、この年にいたってもなお、全国水平社が、アジア太平洋の民衆にたいしてだけではなく、解放をもとめる被差別部落民衆にも敵対する組織になっていた事実をかくそうとする人びとがすくなくなかった。そして、それ以後も、その試みはつづけられている。

 全国水平社が、民衆の解放をさまたげる組織となったのは、なぜなのか。全国水平社が、アジア民衆の反日民族解放闘争に敵対する組織となったのはなぜか。それをはっきりさせなければならない。

 そうしなければ、同じあやまちがくりかえされる。

 じじつ、その兆候は、一九八九年にも、一九九二年にもあらわれている。(2)」(キムチョンミ、『水平運動史研究――民族差別批判』、現代企画室、1994年、pp.39-40)

「(1)全国水平社総本部『第十五回大会報告』一九三八年一二月一五日。
 この水平社宣言の起草者は明らかになっていないが、大会当日、草案をよみあげたのは、井元麟之であり、満場一致で可決されている。

(2)一九八九年一月、部落解放同盟委員長上杉佐一郎と部落解放同盟機関紙は、ヒロヒトの死を「哀悼」し、天皇(制)承認の意思を表示した。

 一九九二年六月一三日、「PKO協力法」が国会を通過するか否かの決定的な時点に、部落解放同盟和歌山連合会は、同年七月の参議院選挙に和歌山県の現職自民党議員を推薦することを公表し、「PKO協力法」成立・維持に協力し、日本軍出兵に加担した。このとき部落解放同盟委員長上杉佐一郎は、「これからの人権運動にイデオロギーは必要ない」「お世話になった人に恩返しをしなければならない」とのべたという(『朝日新聞』一九九二年六月一四日、および『読売新聞』同日付)。その一〇日ほどまえに、部落解放同盟和歌山県連は、一万五千五百人の「支援者名簿」をその自民党議員にわたしていた(「「社党」の「友」が自民推薦」、『毎日新聞』一九九二年七月二日夕刊)。さらに同月二三日に部落解放同盟大阪府連は、参議院選挙で、PKO問題を中心問題としないという意志を、連合大阪、社民党大阪府連、民社党大阪府連らとともに表明した。」

 「部落解放同盟委員長らが「PKO協力法」立法を強行する自民党の議員を推薦した理由は、その議員が自民党地域対策特別委員長であり、「地対財特法」(「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」)の五年延長に大きな役割をはたしたから、というものであった(上杉佐一郎「真の〔ママ〕部落解放〔ママ〕をめざし」、『解放新聞(福岡版)』一九九二年一〇月一五日)。一九九二年に、被差別部落民の生活向上(「地域改善」)のためと称して、部落解放同盟委員長らは「PKO協力法」成立・維持(日本軍出兵)に加担したのである。」(前掲書、pp.40-41)

▼2 ネット上の書評を読むと、伊勢崎は、新刊『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』で、「武装」自衛隊を派兵しないためにも「非武装」自衛隊の活用が必要である、という珍説を展開しているようだが、まったく白々しい話である。そもそも、伊勢崎はハイチへの「武装」自衛隊の派兵にすら、ろくに反対していないのではないのか?

▼3 「多民族間で武力闘争を繰り返してきたのがアフガニスタンの歴史です。そうした複数の武装グループを「軍閥」と呼びますが、普段は仲が悪い彼らも、共通の敵を持った時には一時的に団結する時がある。それが、日本もモスクワ・オリンピックをボイコットすることで抗議表明したソ連の軍事侵攻(一九七九年)で、外的ソ連に対する聖戦です。ソ連が撤退(一九八九年)すると、また内戦状態になり、その混乱に乗じてタリバンが台頭する。そこで二〇〇一年の同時多発テロに対するアメリカの報復攻撃に協力し、タリバンを相手に「北部同盟」として対テロ戦を戦い、タリバンを崩壊させました。

 ここでアメリカは考えるわけです。なぜアフガンの地が、アメリカを本土攻撃するようなテロリストを生んだのか?それはこの地が、内戦に明け暮れた群雄割拠の歴史だったからだ。だから、二度とそうさせないためには、この地に安定した政権、それも親米の統一政権をつくらなければならないと。」(『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』、pp.20-21)

 「〔前略〕とにかくアメリカが対テロ戦の戦略として、根本に考えているのはアフガニスタンの安定なのです。アフガニスタンを安定させる土台として、SSR(治安分野改革 )があり、その上に対テロ戦がある。アフガン内政は依然として流動的であり、カルザイ政権につくことがいいことなのだと住民が理解しないと、タリバンの方へ行ってしまう。なにしろ国の人口の半分近くがタリバンを生んだパシュトゥーン部族系なのですから。つまり、対テロ戦とは、アフガンの内政問題なのです。

 そのことを一番よく知っているのが、自ら血を流しているアメリカなのです。OEF(不朽の自由作戦)を続行しながら、コラテラル・ダメージを制御できず、それで敵を増やしながら、同時にアフガンの安定を考えなければならないアメリカの苦悩を、なぜ理解しようとしないのか。」(前掲書、pp.35-36)

 「ここで問われているのは、「正義」か「平和」か、という問題です。シエラレオネとアフガニスタンはどちらもアメリカが介入しました。シエラレオネでは、戦費を全く使わない方法、つまり「正義」に妥協し、「平和」をもたらしました。一方、アフガニスタンの方は、テロリストを許さないという「正義」に妥協せず、いまだに莫大な戦費をかけて戦争を継続しています。アメリカの、いわゆるダブルスタンダードです。」(前掲書、p.52)

 ・・・・・・どの文章を読んでいても急速に意識が遠のいていくが、伊勢崎を支持している左派は平気なのか?

▼4 例えば、伊勢崎はエルサレムについてこんなことを述べている。

 「当時〔注:1990年代後半〕、これらと平行して、僕はかなり中東問題に入れ込んでいた。後に首相になったオルメルトがエルサレムの市長だった時に、そのエルサレムの都市としての多重統治の可能性について、世界から英知を集めるというシンポジウムを企画していた。その温厚な性格から中東で尊敬を集めていた隣国ヨルダンのハッサン皇太子を呼びかけ人にして、ドイツのベルリン、ベルギーのブラッセル、キプロスのニコシアや北アイルランドのベルファストとか、一つの都市を複数の権力が統治している、もしくはその経験があるところの関係者を集め、都市の多重統治というテーマの国際会議を当のエルサレムで開催しようとしていたのである。民族分断の象徴である聖都エルサレムでこのテーマを広く議論し、パレスチナ問題にアカデミックな立場から一石を投じようとしたのである。」(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、pp.24-25)

 エルサレムを支配している「複数の権力」と、それによって「分断」されている「民族」とは、いったい何を指しているのだろうか?伊勢崎は、「一つの都市を複数の権力が統治している、もしくはその経験があるところの関係者」、すなわち、アジアの都市を侵略し、民衆のレジスタンスを受けた「経験があるところの」大日本帝国の「関係者」として、「世界」の「英知」に加わろうとしていたのだろうか?

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