2009年10月

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「明治維新よ、再び!」――鳩山首相の所信表明演説

【11/7 追記】一部修正しました。

 鳩山首相が本日国会で所信表明演説を行った。明日には一部のリベラル・左派系ブログで感涙にむせぶエントリーが続出しそうな予感がするので、先に雑感を書き留めておく。

 いみじくも鳩山本人が述べているように、民主党主導政権がこれから行おうとしていることは、明治維新の現代版であると考えて差し支えないだろう。明治維新が朝鮮侵略と密接不可分であったように、「国民の暮らしを守るための」「今日の維新」は、「対テロ戦争」および「対新自由主義戦争」の延長線上にあると捉えるべきだと思う。

 最新(10月23日)号の『週刊金曜日』の特集「NGOは新政権に何を期待するか」が典型的な例だと思う(これについては別途エントリーで取り上げる)が、リベラル・左派の多くは、自らを民主党に対する「優秀」な叱咤激励役(主観的には教師役のつもりなのだろうが、有体に言えば単なる応援団である)として再編しているようである。けれども、仮に新政権下で民主党のマニフェストがすべて実現されるようなことがあったとしても、それらは国民主義的な施策でしかないのだから、以前のエントリーで指摘した状況は、改善に向けて変化するどころか、より固定化されるだろう。


 エネルギー自給率が4%、食糧自給率が40%にすぎない日本が、今後も「先進国」としての生活水準を維持しようとするなら、海外に展開する日本企業による「途上国」からのさらなる収奪と、国内の外国人労働者からのいっそうの搾取が不可欠である。そして、そのためには、「途上国」の「安定」を確保するための自衛隊の海外展開と、国内の「治安」を維持するための外国人の管理体制の強化が求められることになる。


 話を戻して、以下に鳩山の所信表明演説の一部を引用しておこう(強調は引用者による。以下同様)。


 日本は、140年前、明治維新という一大変革を成し遂げた国であります。現在、鳩山内閣が取り組んでいることは、言わば、「無血の平成維新」です。

 今日の維新は、官僚依存から、国民への大政奉還であり、中央集権から地域・現場主権へ、島国から開かれた海洋国家への、国のかたちの変革の試みです。

 新しい国づくりは、誰かに与えられるものではありません。現在の日本は、黒船という外圧もなければ、敗戦による焼け野原が眼前に広がるわけでもありません。そのような中で、変革を断行することは、先人の苦労に勝るとも劣らない大きな挑戦であります。

 つまずくこともあるでしょう。頭を打つこともあるやもしれません。しかし、後世の歴史家から「21世紀の最初の10年が過ぎようとしていたあの時期に、30年後、50年後の日本を見据えた改革が断行された」と評価されるような、強く大きな志を持った政権を目指したいと思っています。

 今なら間に合います。

 これまで量的な成長を追い求めてきた日本が、従来の発想のまま成熟から衰退への路をたどるのか、それとも、新たな志と構想力をもって、成熟の先の新たなる飛躍と充実の路を見いだしていくのか、今、その選択の岐路に立っているのです。

 私は、日本が正しい路を歩んでいけるよう、自らが先頭に立ち、国民の暮らしを守るための新たな政策を推し進めてまいります。


 読売新聞 [2009/10/26]:「「無血の平成維新」…所信表明演説全文6」
 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091026-OYT1T00773.htm

 ・・・・・・いったい何をどうすればこれを持ち上げることができるのか理解不能なほど不気味な演説だと思うのだが、electric heel さんが考察しているように、「司馬史観」と<佐藤優現象>は相似形にあるので、上記のくだりに感動すらしてしまうリベラル・左派がいたとしても、まったく不思議はないのかもしれない。「司馬史観」や<佐藤優現象>にどっぷり漬かったリベラル・左派は、明治維新の必然の帰結として、約「30年後」には日清戦争が、約「50年後」には三・一独立運動が始まることも、思い起こそうとはしないだろう。中塚明が批判する司馬遼太郎の「朝鮮論」が、今日のリベラル・左派の朝鮮観にも引き継がれていることは、まずもって間違いないだろう(これは特に北朝鮮に対して顕著に見られるが、結局のところ、朝鮮の分断状況を自明視する発想そのものが、朝鮮人を見下す意識の産物であると思う)。


 ◆「近代朝鮮」黙殺の仕掛け

 司馬遼太郎は、李朝末期の朝鮮を論じて、「競争の原理を内部的にもたない、……それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。……他から倒されるほかない」と言っていることは前章で見た通りです。

 朝鮮を「内部からの変化は期待できない、他から倒されるほかない」と断定してしまえば、朝鮮の民衆や、あるいは国王や王妃など宮廷の人びと、また政治家たちがどうだったかということは、なにも述べる必要はないのです。また、朝鮮の内部にどんな変革の芽があらわれたとしても、そんなことは視野にも入らないでしょう。

 しかも、この筆法でいくと、あとで見るように、明治以後の日本が朝鮮になにをし、日本のしたことが、朝鮮の近代化にどんな影響を与えたとしても、そんなことも書かなくてよいことになります。まして、日本が朝鮮の社会的混乱を助長したり、朝鮮の社会に変化の芽があらわれたのを日本が摘みとったりしたとしても、そんなことも書かなくてすませることができます。

 こういう筆法が、司馬遼太郎の「朝鮮論」の「からくり」であり、『坂の上の雲』の「仕掛け」なのだ、と私は考えています。(▼1)


 鳩山の演説については、自民党の谷垣禎一が「民主議員はまるでヒトラー・ユーゲント」だと揶揄しているので、リベラル・左派は当然反発するのだろうが、新政権が翼賛的だという自民党の印象論は別に間違ってはいないだろう(その翼賛体制には当然自民党も含まれていると思うのだが)。リベラル・左派が、鳩山の演説に嫌悪感なり恐怖心なり軽蔑感なりを抱かないなら、それはその方がおかしいのである。


(▼1) 中塚明、『司馬遼太郎の歴史観――その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』、高文研、2009年、pp.76-77

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