2010年01月

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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』がそれでも売れるわけ (1)

 加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が、やたらと売れているらしい。


普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか?
高校生に語る――日本近現代史の最前線。


 ・・・という煽りを読むだけで、十分げんなりしてくるが、Amazonの書評でも、著者の歴史観が左でも右でもなく「公平」で「客観的」で、「巨視的な視点から戦争が捉えられ」ていて、「切り口」が「極めて斬新」で、「ハイレベルな内容を平易に語ってい」る、というように賞賛されている。ちなみに、数少ない批判的なコメントのほとんどは、右からの「反日」呼ばわりだった。小沢一郎が今ではほぼ右からしか叩かれなくなっているのも当然だと思える右傾化ぶりである。

 だいたい本書はタイトルからしておかしいと思う。日本人が選んだのは「戦争」というより侵略なのだから、本来なら、「普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう侵略しかない」と思ったのはなぜか?」と問うべきだろう。それにしても、「世界最高の頭脳たち」って、誰?・・・と思いながら、図書館に行くと、なんと予約が341件(!!!!!)入っていた。こんな数字は今まで見たことがなかったので、試しに村上春樹の『1Q84 BOOK1』の予約件数を調べてみた。結果は1999件で、余計に不安になってきた。まあ、村上春樹はともかく、もし本書のタイトルが、『それでも、日本人は侵略を選んだ』だったとしたら、まったく売れていなかったと思うのだが・・・。

 というわけで、本屋で軽く立ち読みをしてきたが、第1章「日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの」でさっそく、日清戦争は日本の中国侵略という見方ではなく「日本と中国が競い合う物語」として見る必要がある云々、という「公平」で「客観的」な主張が展開されていた。

 いちいち突っ込むのもバカらしいが、日清戦争の戦場は、朝鮮(王宮に対する日本軍による攻撃と占領、甲午農民軍の虐殺)に始まって、中国東北部に及んだが、清国軍兵士が日本に攻めてきたわけではまったくない。ちなみに、日露戦争でも一方的に戦場にされたのは朝鮮(東北部)と中国(東北部南部)で、日本もロシアも自国は無傷のままだった。そもそも、明治以降、アジアの民衆が日本に対する侵略軍として立ち現れたことは、その逆が数え切れないほどあるにもかかわらず、一度もない。日清戦争は、朝鮮の植民地化をめぐっては、確かに「日本と中国が競い合」っていたと言えるが、だからこそ、日本による朝鮮と清国への二重の侵略戦争だったのである。

 ちなみに、図書館で代わりに借りてきた、加藤陽子著『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』(岩波新書、2007年)では、私の見落としでなければ、著者が自分の言葉で(つまり引用以外で)日本国家の行為を侵略と名指した箇所は一つもない。代わりに使われているのは、「国防」(▼1)やら「防備」やら「保護」(▼2)やら「進出」(▼3)やら「開発」(▼4)やら「追撃」やら「攻略」(▼5)やら・・・といったDV史観ご用達の学術用語である。「非武装地帯の境界である長城線を突破」(p.192)という言い回しもなかなか笑える。「「侵略・被侵略」では見えてこないもの」とはよく言ったものだ。こんな本をいくら読んでも日本の近代史は何もわからないだろうが、こんな本がご大層に出版されている日本の現在位置だけはよく「見えて」くる。

 そもそも、加藤は『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』(講談社現代新書、2002年)で、こんなことを述べているのである(傍線部は原文太字の箇所、強調は引用者による。以下同様)。


国家の元気を回復するために

 ここにわたくしたちは、日本近代の一つの特徴であるといえる、「内にデモクラシー、外に帝国主義」といわれるものの一つの源流をみることができるのではないでしょうか。明治六年の政変時の西郷と、『評論新聞』に共通しているのは、「国家の元気」という観点です。維新当時のような国家の元気を取りもどし、国家の覆滅を回避する道としての、立憲と征韓という組み合わせです。

 ですから、国内改革と対外侵略を密接不可分として考える態度は、教科書的な説明にみられるような、士族の内乱を防ぐために対外侵略をガス抜きとして使おうとしたという態度とは、まったく違うものです。正理真道から遠く離れてしまった日本を、名分論によってどうにか救うにはどうしたらよいかという、むしろ、自己本位な動機からきていました。

 このような日本人の感覚は、近隣の諸国にとっては非常にありがたくないものであり、それがのちに、甚大な被害を近隣諸国に与えたことについては議論の余地はありません。しかし、征韓論にみえる論理は、日本人の目からみて文明開化を肯定しない国家――この場合は朝鮮が想定されていますが――に対する優越感に満ちた侮蔑の感覚から生じているのではないという点は確かでしょう。侮蔑するか、しないかという感覚よりも、よりせっぱつまった感覚、みずからが救われるかどうかという感覚、これに突き動かされて征韓論は主張されたと思われます。(加藤陽子、『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』、講談社現代新書、2002年、pp.48-49)


 あまりにも非論理的すぎて、何を言っているのかも不明だが、朝鮮侵略を正当化する当時の論理を差別と見なさない、現代における加藤の「感覚」こそ、「日本人の目からみて」植民地支配「を肯定しない」民族「――この場合は朝鮮が想定されていますが――に対する優越感に満ちた侮蔑の感覚から生じている」「という点は確か」だろう。加藤は主観的には「侮蔑するか、しないかという感覚よりも、よりせっぱつまった感覚、みずからが救われるかどうかという感覚、これに突き動かされて」こうした主張をしているのかもしれないが、それならなおのこと、自らのリアリティを検証・批判・解体の対象とするべきだと思う。こんな人物に『シリーズ日本近現代史』の執筆を依頼する岩波書店も、さっさと自己解体した方がよい。

 『満州事変から日中戦争へ』には1900年から1940年までの略年表があるが、三・一独立運動はもちろん、五・四運動さえ載っていない。中国東北部における抗日闘争と日本帝国主義によるその徹底的な弾圧(例えば、日本軍による1920年の間島侵略、朝鮮独立軍の根拠地である各農村での「三光作戦」など)もないし、恐ろしいことに重慶爆撃すらスルーされている。無論、これらは本文でも言及されていない。日本軍「慰安婦」や中国人・朝鮮人に対する強制連行についても、そうである。本書は、「満州事変」を植民地支配と切り離して特権的に参照して(▼6)、しかもそれを侵略と名指さないのだから、そうした「物語」に対置される記憶を語らない(語れない)のは当然とも言える。加藤の言説は、詰まるところ、歴史修正主義との親和性を免れないのではないか。

 次回はこの点をもう少し詳しく見ていこう。


▼1 「このように、資源開発、治安維持・国防の鍵を握るはずの鉄道敷設計画は、対中国政策の実行にあたるべき人々を広く集めた東方会議での決定を無視するかたちで、田中〔義一首相〕と満鉄ラインによって無造作に進められていった。」(加藤陽子、『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』、岩波新書、2007年、p.83)

▼2 「関東軍は、日露戦後、関東州の防備および満鉄線の保護を任務として置かれた軍隊であった。一九年四月、武官制の関東都督府が廃止され、関東庁が設置されるのにともない、独立の在満軍事機関として発足した。鉄道守備にとどまらず、日本の在満権益を軍事力によって保護する役割、対ソ戦略を遂行する主体としての役割を、しだいに強めていく」(前掲書、p.5)

▼3 「洮南と昂昂溪を結ぶ本線は、日本の対ソ戦略上の布石となる鉄道であり、日本の北満進出を可能とする鉄道であった。」(前掲書、p.84)

▼4 「国民政府は、二九年四月、満蒙鉄道を東北政権から中央に移管し、外資系貨物輸送に割高運賃を課す方針を打ち出した。現地政権と満鉄の交渉によって鉄道問題が解決される時代は去ったのである。田中は退陣し、東三省の現地政権を通じて北満を開発する路線はここに潰えた。北伐軍との戦闘のため奉票を乱発し日本人の商工業者に打撃を与えた張政権、南京の国民政府と競うように東三省でも二・五%付加税を徴収し始めた張政権に対する日本側の怒りには根深いものがあった。「はじめに」でも述べたように、日本側には、条約を尊重しないばかりか、ボイコットを政策遂行の手段に用いる南北中国への怒りが蓄積していった。」(前掲書、p.93)

▼5 「対する日本側は、上海派遣軍司令官に松井岩根、第一〇軍司令官に柳川平助が就いた。日本軍は中国軍を追撃し南京に向かう。当初は南京攻略の意図がなかった陸軍中央も、第一線の進軍をみて、一二月一日、南京攻略を追認した。」(前掲書、p.217)

▼6 「満州事変を歴史的に考えようとする時、なぜこのような事変が起こされたのか、人は、まずその理由から考えようとするだろう。歴史の因果関係に注目するのは自然であり、大切なことでもあるからだ。

 しかし、たとえば、二〇〇一年九月一一日、アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接した時、我々は、テロを「かつてなかった戦争(war like no other)」と呼び、まずはその新しい戦争の形態上の特質に注目した。瞬時にして世界の情景を変えてしまうような暴力の実態に迫るには、「かたち」から入るのが適していると本能的に感じたからなのかもしれない。さらに本書に引きつけていえば、満州事変を主導した石原自身、日露戦争、第一次世界大戦に際して、戦争の形態上の変化や特質について、最も緻密に研究を加えていた人物にほかならなかった。

 よってこの章においては、満州事変がもっていた形態上の特質について明らかにし、本書全体の導入としたい。」(前掲書、pp.2-3)

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