2010年02月

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「在特会」化する「平和国家」日本 (後半)――伊勢崎賢治著『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』所感

●「掃討」の別働作戦としての「和解」、米軍の別働隊としての日本

 本書で伊勢崎が売り込んでいるもう一つの「構想」が、日本を仲介役とするタリバンとの「和解」である。結論から言えば、これは米軍・NATO軍によるタリバン「掃討作戦」(実態はあからさまな無差別攻撃)と連携して、「信頼される中立国」たる日本が仲介役となって、タリバンとの「和解」を成功させ、「戦争を終わらせる」という、実にふざけた「構想」なのであった。もちろん、米軍・NATO軍による「掃討作戦」と連携するところがポイントであり、「SSゾーン」構想にも引けを取らない、腐り切ったプロジェクトである(もちろん左派はほとんど批判していないが)。


 オバマ政権は、米軍増派という手段をとる一方で、タリバンとの和解を口にする。自分が和解の当事者になるということだ。

 しかし、勝機はタリバンの方に向いている。「穏健派」タリバンを特定できたとしても、そのタリバンは、今度は「裏切り者」として命を狙われることになる。

 そもそも、「増派」と「政治的和解」は両立しない。アメリカという紛争の当事者が、その両方を言えば、なおさらである。一方、「増派」で戦う意思の表明をしていないと、つまり威勢を張っていないと、「政治的和解」の席で「交渉」が成り立たないのも現実である。(p.42)



〔前略〕こういう「対話」の呼びかけは、敵がヨレヨレな時には功を奏するだろうが、疲れているのはこちら側である。そうなのに威勢を張って手を差し伸べるフリをする。既に見透かされている。「対話」は疲弊した戦争の当然の帰着だが、紛争当事者の片方から一方的に発する「対話」は、もう片方からは単なる“弱音”にしか見えない。(p.27)


 したがって、伊勢崎によれば、タリバンとの「和解」は、「アフガンでは国連より中立と見られる日本」が「仲介するしかない」のであり、日本はまさしく「最後の手段として」「期待されている」(p.43)のだそうだ(誰にだ?)。伊勢崎は、一方的な侵略国である米国を「紛争当事者の片方」と定義した上で、米国がタリバンと「対等」に「交渉」できるよう、米国に対して、米軍増派による「掃討作戦」の強化をけしかけつつ、同時に日本を「仲介役」として高く売りつけようとしているのである。

 伊勢崎は、「僕には、何というか、これだけアフガニスタンをめちゃくちゃにしたアメリカを、そして日本を、僕をあんな形で巻き込み利用したアメリカを、見返してやろうという気持ちがないわけでもない。でも、やるなら、建設的に。それは僕なりの愛国心かもしれない」(p.139)などと述べ、一部の左派の喝采を浴びているようだが、やっていることは、単なる対米癒着マニュアルの実践にすぎない(バージョンは微妙にアップされているのかもしれないが)。

 伊勢崎にとって、「和解」とはせいぜい「掃討」の別働作戦(の一つ)にすぎず、タリバンとの「和解」はタリバンへの分断工作の別名にすぎないのであった。


〔前略〕僕は、アフガニスタンと再び関わりはじめた二〇〇八年に、カルザイ政権に幽閉されているタリバンの元大幹部と、じっくり話し合う機会を得た。タリバン政権下で外務大臣を務めたムタワキルである。

 話題は「対話」の“実効性”について。しかし、開口一番、僕は静かに釘を刺された。つまり僕たちが言う、“穏健な”タリバンとの「対話」。これが、彼らを仲間割れさせるという目的ならば(そうに決まっているわけだが…)、それは絶対に成功しない、と。(pp.26-27)


 伊勢崎は、「そもそもタリバンの数や種類も分からない」(p.39)(▼4)などと、ぬけぬけと白状しているが、伊勢崎にとって重要なのは、「タリバンの数や種類」を把握することよりも、日本を「仲介役」とする「“穏健な”タリバンとの「対話」」という既成事実もしくは表象を作ることで、日本を「仲介役」とするタリバンとの「和解」という表象を仕立て上げ、ひいては日本を「仲介役」とする「戦争の終結」という表象を捏造することであると思われる。まさに、「掃討」の別働作戦としての「和解」、米軍の別働隊としての「平和国家」日本、というわけだ。なお、ここでいう「別働」とは、状況次第で「陽動」にさえ容易に変わりうると思う。


●アジア諸国との「和解」とは何か――「反日」と「親日」の分断工作

 ところで、本書の中で私が最も興味を覚えたのも、この「和解」に関わる箇所だった。なぜかと言うと、伊勢崎の「和解」構想に対する左派の無批判は、左派が近年積極的に主張しているアジア諸国との「和解」の内実を、そのまま反映しているのではないか、と思えるからである。つまり、左派の大多数は、伊勢崎と似たり寄ったりの位置から、アジア諸国との「和解」を訴えているのではないだろうか。もっとはっきり言えば、左派の大多数にとって、アジア諸国との「和解」とは、一義的にはアジアにおける「反日」と「親日」の分断工作であり、彼ら・彼女らは、「“穏健な”」アジアとの「対話」のみを求めることで、「和解」という表象を作り出すことに熱を上げているだけなのではないのだろうか。

 さらに言えば、「掃討」が不可能であるから「和解」を提唱する(「掃討」の延長上に「和解」を位置づける)伊勢崎の言説を批判しない左派は、実はアジア諸国との和解においても、「反日」の「掃討」が単に不可能であるから「和解」を主張しているだけなのではないだろうか。実際、「国民基金」や、私が「第二の国民基金」と呼ぶ「慰安婦」立法は、アジアの「反日」に対する「掃討」の欲望とその不可能性が、左派に「現実主義的」「和解」路線を取らせる例として見ることができると思う。そもそも、左派の多くは、在日朝鮮人を、長期的には「掃討」(=同化/ジェノサイド)の、短期的には「和解」(=「共存」)の対象として見ているのであって、前者に対する無自覚こそが、彼ら・彼女らの「善意」の源泉である(▼5)、と私は思っている。ついでに言えば、「和解」をする当の相手が誰だかわからないという伊勢崎と、他者不在の「和解」を「善意」で進める左派も、よく似ている、と言えるのではないか(その端的な例が「花岡和解」だろう)。

 日韓「和解」に意欲的な民主党政権が、在日朝鮮人に対するレイシズムの法制化(高校「無償化」法案における朝鮮学校排除、外国人参政権法案における朝鮮籍者排除など)を積極的に進め、左派が民主党政権を総体として支持していることも、左派の多くにとって「和解」が「掃討」の延長上に位置づけられていることを示唆しているように思う。この枠組みでは、アジア諸国との「和解」は、アジア(人)へのレイシズムの温存ないし強化とも矛盾しないどころか、むしろ合理的に共存しうるのである。


●伊勢崎式「対テロ戦争」ビジネスモデル

 さて、「伊勢崎構想」に話を戻そう。すでに述べたように、「伊勢崎構想」とは、「対テロ戦争」を「終わらせる」という触れ込みで、憲法9条を掲げて、すなわち、「平和国家」という欺瞞的な表象を最大限に利用しながら、日本が「主体的」に行う、もう一つの「対テロ戦争」である。仮に、この「伊勢崎構想」が、伊勢崎の目論見通りに実現することになれば、日本には伊勢崎を介して巨大な「対テロ戦争」利権が転がり込んでくることになるだろう。

 つまり、米国がA国を侵略し、民衆の抵抗運動に圧され始めたところで、「平和国家」日本がおもむろに登場し、抵抗運動を民衆自身に弾圧させて米軍の「撤退」を支援すると同時に、抵抗運動の拠点を「半永久的」な「経済特区」に改造して日本を始めとする「先進各国」企業を潤わせたところで、米国がB国を侵略し、民衆の抵抗運動に圧され始めたところで、「平和国家」日本が・・・という吐き気のするような「対テロ戦争」ビジネスモデルが、日本を不可欠なアクターとして完成するわけである。

 伊勢崎は、「対テロ戦争」利権についても、極めて饒舌に語っている。少々長くなるが、伊勢崎の主要な関心事項が、「対テロ戦争」に「巣食」う「業界」の創出にあることを露骨に示すインタビューである。ぜひご一読いただきたい。


佐々木 ご自身は「紛争屋」って呼んでいるんですか。

伊勢崎 はい。

佐々木 でも平和屋なんじゃないですか?

伊勢崎 いや、紛争屋っていうのは、紛争を巣食っているから。紛争を糧に生活しているんです。僕らが今までやっていたのは、いわゆる火消しですよね。紛争をどうするかっていうのは、だいたい、それが起こってからなんですよね。火消しは華々しいですから、火事場に駆けつけるのと同じで、非常にヒロイックですし、脚光も浴びますし、お金も儲かるわけですよ。その業界があるんですよ。

佐々木 紛争解決屋ね。

伊勢崎 解決もしないです。

佐々木 解決もしない?

伊勢崎 紛争処理って言ったほうがいいですね。あるいは、気持ちの上で、やっぱり紛争を、新しい紛争が起こるのを心待ちにするような……。

佐々木 刺激を求めて?

伊勢崎 そういうようなのがありますね。次の食いぶちを……。安全になってくると、火消し屋のニーズは下がってきますし。だから、非常に危険な業界なんですよね。

佐々木 平和になったら仕事がなくなる、と。

伊勢崎 そうです。でも紛争屋だけじゃない。だって、NGOだってそうじゃないですか。あれだって、紛争が起こって人道的ニーズがつくられることで食いつないでいるので。ジャーナリストだってそうじゃないですか。我々一般市民だってそうでしょ。戦争が起こると皆、ビール飲みながら、紛争情報を戦争文化を消費しているわけですよね。だから皆、紛争業界の一員なんですよ。

 で、たぶん損をするのは、被害者だけですよね。それ以外は全部、ある意味、戦争から裨益している。だから、そういう反省も込めて、小さな予防っていうことを、これからやらなきゃいけない。で、何をやらなきゃいけないかっていうのは、もう分かっているんです。

佐々木 何ですか?

伊勢崎 それは早期警戒です。

佐々木 早期警戒?

伊勢崎 火の用心とかね。必ず火種があるわけですよね、そういうときには日本のピンポイント的な国際援助が役に立つだろうし、それをただするんじゃなくて、ちゃんとした政策提言をしながら。内政干渉をやってもいいかもしれないね。ちゃんと届くようにね。

 民主化っていう言葉はあまり好きじゃないですけど、反政府勢力を民主化にするように、それからフリーなジャーナリズムを推進すること、それから多数政党民主主義をプロモーションすることは非常に大事ですし、いろんなやり方がありますでしょう。だからやることは大体分かっているんです。問題は、それが業界にならないんですよね。

佐々木 予防には、なかなかお金もついてこない。

伊勢崎 そうです。業界にならない限り、いくら能書きを垂れても、やることが分かっていても、意味がないんです。その中で人が食えなきゃ意味がないんです。〔中略〕今、目をつけているのが広告業界、クリエーターの世界なんですよね。

佐々木 ピースアドですね。

伊勢崎 そう。ピースアドです。ピースアドって、結構キャッチーでしょ? これは別に、ピースアドをやることによって、世の中が、特に民間企業がどういうふうに変わって、CSRの考え方も少し変わっていくとか、そういう具体的な戦略を立てられる状態じゃなくて、とりあえず広告業界をいじくれば、何かの起爆剤になるんじゃないかっていうぐらいの期待感でしかないんです。業界を作るための唯一の期待感ですよね。で、今、結構面白くなりつつあって。

 ご存知のように、紛争や戦争は、全部広告によって世論を形成しますよね。世論の支持のない戦争ってあり得ません。で、それに貢献するのが広告業界ですよね。ですから同じ広告の技術を逆のほうに使う、ということなんです。問題は、どうやったらお金がつくかっていう話ですよね。


 ewoman:「ウィンウィン対談 伊勢崎賢治さん 紛争解決のために、日本ができること」
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/7
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/8
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/2/9

 ・・・・・・という、あまりにも低劣な文脈の中で、「対テロ戦争」における民衆の抵抗拠点を「半永久的」な「経済特区」に改造するという、例の「SSゾーン」構想が出てくるわけである(念のため述べておけば、伊勢崎は大学教授であり、特に「食いぶち」に困っているようには思えない)。これはおそらく公にはなっていないだろうが、伊勢崎は経済界に対しても直接的・間接的に相当強力なロビイングを進めていると思う(もっとも、伊勢崎のことだから、少し調べればわさわさ出てきそうな気もするが)。これで日本の経済界・広告業界・「対テロ戦争」業界はウィンウィンウィンというわけだ。

 ちなみに、伊勢崎は、犬塚直史・民主党議員とタグを組んで、「「議員外交」と「民間外交」」(p.78)(「伊勢崎構想」のロビイング)を始めたときのことを、次のように回想している。


 この時は、一年後に民主党が政権を取ることになるなんて、考えてもいなかった。当時は、「与党」自民党も巻き込んで、たとえ日本の政権が変わっても基本方針は変わらないオール・ジャパンのコミットメントにしたいと考えていたのである。(p.79)


 「オール・ジャパンのコミットメント」を漢字変換すれば「挙国一致」になる。伊勢崎は自らが「VIP」(p.79)であるという表象を日々量産しているので(これも佐藤優と似ているが)、国内外における伊勢崎の政治的影響力が実際にどの程度なのかは、私には正確に判断できないが、とりあえず伊勢崎の触手が無駄に長いらしいことは確かだろう。


 結果として、これ〔「オール・ジャパンのコミットメント」〕は部分的に達成されることになる。今のところ、民主党以外では「与党」社民党の議員の参加しか得られていないが、「野党」自民党の有志をぜひ、これから巻き込む必要がある。できれば全政党に参加してもらいたい。(p.79)


 社民党、おまえもか・・・などとは、私は思わない。これもすでに書いたことだが、「伊勢崎構想」は、「対テロ戦争」を強力に支える「平和国家」日本の「国民戦線」と表裏一体の関係にあるわけで、自民党よりも社民党の方が「伊勢崎構想」への親和性はよっぽど高いのである。「対テロ戦争」を支える「平和国家」日本の「国民戦線」は、左派の主体的なコミットメントによって、初めて完成する。逆に言えば、左派が拒否する限りは成立しない、ということである。ここに私が左派の責任を厳しく問う論拠がある。


●「在特会」化する「平和国家」日本

 最後になるが、「伊勢崎構想」の主体となる「平和国家」日本とは、極言すれば、巨大な「在特会」のような存在として見ることができるのではないだろうか。「在特会」が、日本の植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任を否認して、日本民族中心の歪んだ歴史認識をもって、在日外国人(主に朝鮮人)の民族自決権・生存権を否定しながら、各地で襲撃を繰り返しているように、「対テロ戦争」を強力に支える「平和国家」日本は、自らの植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任を否認して、自国・自民族中心の歪んだ歴史認識をもって、国内外で外国人の民族自決権・生存権を否定しながら、米国とともに世界中で侵略を繰り広げていくことになるだろう。

 この事態においては、「平和国家」日本は、世界の「在特会」とも呼ぶべき、最悪のレイシスト国家であり、「平和国家」日本そのものが、「在特会」の入れ子構造をなしている、とさえ言えるだろう(「在特会」マトリョーシカ現象)。「平和国家」日本が「在特会」と異なるのは、「平和国家」日本においては憲法9条が日本国家/日本人の排他的特権および選民意識の中核に組み込まれており、そのため、「平和国家」日本の方が、質量ともに桁違いに暴力的になることであると思う。「在特会」が掲げる「日の丸」の表象には憲法9条は(おそらく)含まれていないが、「平和国家」日本が掲げるそれには憲法9条が積極的に取り込まれている。

 「平和国家」日本の国民は、「非武装」自衛隊の協力を得なければ「対テロ戦争」を「終わらせる」こともできない米国に対して優越感を抱きつつ、第三世界の民衆に対する殺戮と収奪を恒常化する「非武装」別働隊たる、自衛隊の海外派兵を支持することになるだろう。「伊勢崎構想」においては、親米であれ反米であれ、右派であれ左派であれ、「平和国家」日本という欺瞞的な表象とレイシズムを共有している限り、容易に結託することになる。

 したがって、「在特会」を批判する左派が、「伊勢崎構想」への批判を封印していることは、こうした「平和国家」日本の「在特会」化を推し進める結果にしかならない、と私は思う。詳細は省くが、最新(2月26日)号の『週刊金曜日』には「在日外国人参政権には反対です」という記事が掲載されており、もはや「在特会」的なるものと「左派」との境界線すら融解していることを端的に示唆している。

 繰り返しになるが、伊勢崎が「護憲派」を自称しているのは、伊勢崎の憲法9条観ではそもそも改憲自体が必要ないからであり、伊勢崎は、「国益」論的再編成を経た左派が必要とする、「憲法9条」を持つ「平和国家」日本の、「対テロ戦争」のイデオローグである。「在特会」を批判するのであれば、「伊勢崎構想」を、日本国家/日本人による、過去の、現在の、そして将来の侵略を、これ以上許し続けてはならない。


【蛇足】

 思いっきり蛇足なのだが、本書には「ゲリラの武装解除も ジャズも 刹那にかける」という東京新聞の記事(2009年10月6日付朝刊)が転載されている。


 東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さん(52)=平和構築学=は、自称「紛争屋」だ。アフガニスタンなど世界の紛争地で、ゲリラに銃を突きつけられながら武器を取り上げる武装解除に当たる。死と隣り合わせの仕事の傍ら、「刹那」にひかれ、6年前に始めたのがジャズトランペット。23日、新宿で難民支援のライブを開く。


 別に伊勢崎の趣味にまで文句をつける気はさらさらないが、あまりにも見過ごせない一節があったので、以下に引用する。


 初めて覚えたのはアメリカ国歌。「好きな国じゃないけど、ジャズ発祥の地だから」。


 ・・・・・・「アメリカ国歌」はジャズと関係ないだろうが。どんだけ歴史認識も音楽センスもないんだよ。


▼4 

 ●誰と和解するのか、何を条件にするのか

 仮に、こちら側の一枚岩性が確保できたとして、その先にもまた問題がある。そもそも和解の相手とは誰なのか。(p.38)



 ●そもそもタリバンの数や種類も分からない

 もっと初歩的な問題もある。アフガニスタンにいるタリバンとは、一体どのくらいの人員の戦闘集団なのか。

 これが、実は驚くほど曖昧なのだ。

 地方によっても、一〇〇〇人単位の雑な捉え方しかできず、全体では一万人いるだろうとか、いや一万五〇〇〇人ぐらいは…とか、そんな感じである。ちゃんと把握できていたら、とっくに掃討しているはずである。(p.39)


 伊勢崎は、タリバンとの「和解」のためには「タリバンの数や種類」を把握する必要がある、と述べる一方で、仮に「タリバンの数や種類」を「ちゃんと把握できていたら」、タリバンを「とっくに掃討しているはずである」(つまり「和解」などするはずがない)と臆面もなく語っている。伊勢崎の言説は論理的に破綻の極みだが、それを批判しない左派は倫理的に破綻の極みであると思う。伊勢崎が「和解」を「掃討」の「次善策」として見ていることは明らかである。とどめに伊勢崎の発言をもう一つ挙げておこう。


 今、危険だと思っているのは、僕が「和解」と言っていたでしょ? 繰り返しますが、僕は、「和解がいい」とは全く言っていないんです。「和解にならざるをえないだろう」と言ったんですよね。和解っていうのは妥協ですから。だって、正義があって戦争が起こったわけでしょう? その正義を蹂躙するものとして敵を想定したわけです。その敵と妥協することは、すなわち正義に対して妥協することですから。


 ewoman:「ウィンウィン対談 伊勢崎賢治さん 紛争解決のために、日本ができること」
 http://www.ewoman.co.jp/winwin/129/1/3

 伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派は、こんなふざけた「対テロ戦争」聖戦観に違和感すら覚えないのか。

▼5 例えば、高校「無償化」法案における朝鮮学校の排除に反対する左派の典型的な意見として、朝鮮人も「日本社会の一員」なのだから差別的な扱いをするべきではないというもの(朝日新聞メソッド)がある。この主張は一見もっともなようだが(?)、在日朝鮮人を「日本社会の一員」に還元することで、実際には日本国家/日本人が在日朝鮮人の民族自決権を日々侵害している現状を(無自覚に)追認・補強するものであると思う。

 また、朝鮮学校は、最近では日本国籍の生徒も通っており、朝鮮籍・韓国籍の生徒も日本の学校に通う日本国籍の生徒と「何も変わらない」のだから、差別はよくない、といった意見も散見されるが、どう考えてもこれはおかしいだろう。朝鮮学校に日本国籍の生徒がいるという事実は、在日朝鮮人に対する社会的・制度的差別の端的な帰結である。差別の帰結を肯定する位置から差別を批判しようとする、一部の左派の言説は、完全に転倒していると思う。

 在日朝鮮人も日本人と「何も変わらない」などという「善意」の差別も醜悪すぎる。在日朝鮮人と日本人は歴史的にまったく対極の存在であり、表面的には似ていることも、その歴史性のためである(つまり、一見似ていればいるほど、実際には似ていないわけである。もちろん、一見似ていない場合も、実際に似ていない。要するに、どちらにしても似ていない)。そもそも、侵略の加害民族と被害民族が「何も変わらない」のなら、世界中のあらゆる差異は即座に消滅するだろう。「左右の「バカの壁」」(佐藤優)どころの話ではない。8.15以後も「何も変わらない」のは、日本人左派のおめでたさではないのか。

 もう少し補足すると、朝鮮学校の生徒の国籍別内訳は、朝鮮籍が46%、韓国籍が53%、日本国籍・その他が約1%である(データは2008年)。この統計は、日本国籍の生徒のほとんど全員が日本の学校に通っていること、すなわち、日本国家/日本社会による在日朝鮮人への同化圧力の凄まじさを露呈しているのであり、この基本的な事実を無視して、在日朝鮮人も日本人と「何も変わらない」などと「善意」で語れる神経は、あまりにもどうかしていると思う。

 ・・・というようなことを、「左派」に向けてわざわざ書かなければならないのは、けっこう虚しい。

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