2010年07月

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「アジア主義」再評価論批判④――竹内好と日本のアイヒマン(1)

【7/27 追記】環境によって文字化けするため、チョンポンジュンの表記を漢字から片仮名に差し替えました。

 では、竹内好が「アジア主義」再評価に即して歴史を独創的に「修正」していく手法について、内田良平を例に検討を重ねていこう。内田良平は竹内が「樽井藤吉の創見を継承した」として大いに再評価している人物である。

 鄭敬謨氏は自著『日本を問う』(原題は「どう生きるべきか――在日朝鮮人二世・三世への提言」)で、朝鮮人が内田良平を「知らないとすれば、それは例えばユダヤ人にしてアイヒマンの名前を知らないのと五十歩百歩」(鄭敬謨、『日本を問う』、径書房、1985年、p.92)であると指摘されている(強調は引用者による。以下同様)。とすると、日本人が内田良平を「知らないとすれば、それは例えばドイツ人にしてアイヒマンの名前を知らないのと五十歩百歩」だということになるわけだ。内田の経歴紹介を兼ねて、同書から引用させていただこう。

 「いわゆる日韓合併のとき一進会という売国組織を造り、ときの日本政府に対し一日もはやくわが朝鮮を日本の版図の中に入れてくれるよう「合併請願」運動をやったのが、李容九とか宋秉とかのやからですが(「シアレヒム」六号参照)、これらの売国奴どもを背後から操りながら、この運動を牛耳っていたのが、内田良平です。

 彼はすでに明治三三年(一九〇〇年)、黒龍会なる国家主義団体をつくり、「大陸浪人」どもを狩り集め、日本のアジア侵略のためにその先鋒の役をつとめた人物でもあるのですが、この人物は関東大震災のときの朝鮮人虐殺について、次のような発言をしております。

 「彼(か)の不逞鮮人が赤化主義の徒と相策応し、我が国の不幸に乗じて或は爆弾を罹災民の家屋に投じ、或は毒素を飲料水に入れ、或は無辜の老若男女に対し暴行を逞ふしたことは人道上断じて恕す可からざる罪悪にして、我が官民が危急の場合、之を殴殺するの挙に出でたのは実に已むを得ざる自衛の手段に外ならぬのである。決して之を常軌に逸したる行為のみと断言することは出来ぬ」(橋本健午『父は祖国を売ったか』より引用)

 この同じ人物が日本の国家理念については、次のように発言をしております。

 「日本帝国の天職は、八紘一宇(はっこういちう)」の精神にもとづいて行政改革や軍備の拡充をはかり、アジア大陸の人文を開発することによって、大日本の基礎を建設し、世界の平和に貢献することにある」

 以上は教育社文庫『日本のファシズム』(栄沢幸二)からの引用ですが、この本が「日本ファシズムの源流」だと断定している内田良平の頭脳の中に、日本の国家理想としての「八紘一宇」の精神と、「朝鮮人殴殺は日本人の自衛の手段であり常軌を逸した行為ではない」という思想が共存している点に注目して下さい。」(pp.92-92)

 続いて竹内好の「アジア主義の展望」を読んでみよう(便宜上、文中に番号を割り振った)。


 (1)樽井の創見を継承したものは、大井憲太郎ではなくて、内田良平である。(2)彼は天佑侠を通じて李容九と結んだ。(3)李は『大東合邦論』の趣旨にもとづく合邦を条件として、内田と協力し、東学党の後身である一進会の農民組織をあげて請願運動をおこした。(4)そして日本政府に裏切られたと知ったとき、授爵を断って、須磨で憤死した。(5)この間の経緯は黒龍会『日韓合邦秘史』(上下、一九三〇年刊)およびその縮約である内田自身の「日韓合邦」に詳しい。

 (6)内田は「思想」として侵略主義ではあるが、李容九と朝鮮の農民に対する日本政府の背信に責任を感じ、そのつぐないの一部として『日韓合邦秘史』を出版し、「日韓合邦記念碑」を立てて、その碑に李完用(併合当時の総理大臣)の名をけずって李容九の名を加えたかぎりにおいて、やはりアジア主義者だった。

 (7)李容九の遺児李碩奎は日本名を大東国男と名のっている。けだし「大東国」の記念である。彼には『李容九の生涯』(一九六〇年、時事新書)の著がある。今日の朝鮮で、伊藤博文を倒した安重根が愛国者で、父親の李容九が売国奴の汚名を着ているのを不当として、汚名をそそぎたい動機で書かれた本である。(8)李容九の政治的判断の誤りは誤りとして、汚名をそそぐ連帯責任はわれわれにもあるだろう。(『アジア主義』、pp.36-37)


 結論から述べれば、上記引用部の(1)から(7)のうち、史実の歪曲または捏造を含まないと言える叙述は、わずかに(7)のみであるように思う。(8)の厚顔無恥な結論部分と合わせて歴史修正主義のベタな見本と言えるのではないだろうか。

 では、順を追って説明していこう。なお、以下は主に姜在彦による竹内批判(「大陸浪人におけるアジア主義と朝鮮問題――その一典型としての内田良平の思想と行動――」、『朝鮮近代史研究』、日本評論社、1970年)に依拠しているので、より体系的な解説を望む読者には、同書を直接読まれることをお勧めしたい。

(1)「樽井の創見を継承したものは、大井憲太郎ではなくて、内田良平である。」

 樽井藤吉が、『大東合邦論』再版で、日本の朝鮮植民地支配を、「第二第三」に留まらず「第十第百」から「無限」に続くらしい、天皇制国家によるアジア(世界?)支配の第「一歩」として、全力で礼賛していることは、前回述べた通りである。「樽井の創見を継承したものは・・・内田良平である」という主張は、「(対等な)合邦」という空虚なスローガンを掲げて天皇制政府の朝鮮侵略を先取りした(樽井が「大東合邦論」を発表したのは日清戦争前の1981年である)点においては成り立つかもしれないが、「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」の傍証としては、(後述の理由からも)完全に破綻していると言わざるを得ない。

(2)「彼は天佑侠を通じて李容九と結んだ。」

 この点に関して、竹内は「アジア主義の展望」で次のように「解説」し、「朝鮮における一八九四年の農民蜂起のとき、その指導者である李容九は、日本のアジア主義者である内田良平と結ばれたという、史実とは全くかけはなれた虚構のうえにたって、「それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった」ようにえがいている」(『朝鮮近代史研究』、pp.341-342)。


〔前略〕日清間の風雲が急になると、玄洋社は天佑侠という秘密組織をつくって朝鮮へ送り込み、東学党と連絡をとって戦争を挑発した。この陰謀の中心人物は、内田良平のほかに、武田範之、鈴木天眼らである。東学党は元来、民間信仰を中心とする農民組織であって、清国の義和団とおなじく徹底した排外主義だが、この農民蜂起を助けて日本の味方にしたということが天佑侠の自慢の種であって、『東亜先覚志士紀伝』でも天佑侠の項はとくに詳しい。東学党は連絡不十分のため日本軍の攻撃を受け、指導者のチョンポンジュンや李容九は負傷する(チョンポンジュンはのちに刑死)。天佑侠も日本官憲から追われる身となる。しかし、このために農民運動の指導者と日本の「志士」の間に意志の疎通ができた。それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった。

 〔前略〕この時点ではともかく農民との結合が考えられており、やはり一種のアジア主義の発現形態と見なければならない。少なくとも主観的には、挑発だけが目的ではなく、連帯の意識がはたらいていた。そして利欲は眼中になかった。もし利欲が目的なら、生命の危険をおかすはずがない。また、チョンポンジュンや李容九のような排外主義者の信頼をかちえるはずがない。(『アジア主義』、pp.27-28)


 何やら事情通ぶった断定口調が続いているが、梶村秀樹らの聞き取り調査によれば、天佑侠はチョンポンジュンらと会見できたかどうかすら疑わしいというのが真相であるようだ(▼7)天佑侠が朝鮮に侵入したのも、そもそもが東学党を利用して日本の国権発揚を謀るためであり、しかも彼らが「チョンポンジュンを指導者とする農民軍の陣営にもぐりこんだのは、すでに政府軍との間に全州和約ができて一時休戦状態にあった七月初旬」(『朝鮮近代史研究』、p.348)だったという。彼らが「生命の危険をおかすはずがない」という、その一節だけを取り上げれば、確かに竹内は正しいことを言っているわけである(▼8)

 「そもそも天佑侠グループがチョンポンジュンにあったのは、連帯のための共闘が目的であったのだろうか。玄洋社の三傑の一人といわれる頭山満にきくことにしよう。「天佑侠とは、そもそも何者ぞ。端的にいえば川上将軍(日清戦争当時の参謀次長川上操六のこと……引用者)のいわゆる『火付け役』であった。……時たま東学党の騒乱が各地に勃発したので……東学党を助けて、その騒乱を助長せんことを決議し、もって帝国の大事決行の種まきをしようとしたのである。〔藤本尚則『巨人頭山満』四四七~八頁〕

 チョンポンジュンがこういう浪人グループの関与を許さなかったのは賢明であったし、革命的農民指導者としての面目躍如たるものがある。軍国主義の別働隊、侵略と戦争の「火付役」――こういう天佑侠の活動にこそ、アジア主義の具体的な表現の一端をみることができる。」(『朝鮮近代史研究』、p.349)

 また、竹内は李容九を朝鮮の「農民運動の指導者」であるかのように描いているが、これも何を根拠にしているのか甚だ謎である。

 「甲午農民戦争は〔中略〕「東学党」を主体にした農民戦争ではなく、チョンポンジュン、孫和中、金開男らによって指導され、農民を主体とする農民戦争であり、「斥倭洋」の反侵略と、「権貴滅尽」の反封建をかかげた「保国安民」の救国闘争であった。それに東学の影響をうけた広汎な農民が参加したのはもちろんである。チョンポンジュンが湖南地方(全羅道)を中心として農民戦争を指導していたさい(内田は、全羅道の淳昌でチョンポンジュンとあった)、東学第二代教主崔時亨およびその幕下の孫秉煕、李容九らは湖西(忠清北道)にいながら、チョンポンジュンらの農民蜂起に反対した。一八九四年一一月、日本軍および政府軍の連合部隊との間に、忠清道公州においてさいごの決戦が迫っていたときでさえ、崔時亨一味は「南伐旗」をかかげ、通文を発して「乱をもって道をうったえるのはかんばしくない。湖南のチョンポンジュンと湖西の徐璋玉は国家の逆賊であり、師門の乱賊である。われわれはすみやかにこれを討つべし」とした。ところが農民がそれに呼応しないばかりか、湖南のたたかう農民に連帯行動をもってたちあがったとき、崔時亨一味は「人心則天心」であるから、チョンポンジュンに協力するようにしたが、公州の決戦にさいして孫秉煕、李容九らはほとんど戦わずして雲がくれしたために、かえって農民軍内部の混乱を助長し、農民軍敗北の重要な一因となったのである。〔姜在彦「朝鮮における封建体制の解体と農民戦争」(『歴史学研究』一九五四年七月・十一月号)〕」(『朝鮮近代史研究』、pp.348-349)

 注釈を含めてずいぶん長くなってしまったが、以上を踏まえて、もう一度だけ(2)に関する竹内の講釈をおさらいしておこう。


〔前略〕日清間の風雲が急になると、玄洋社は天佑侠という秘密組織をつくって朝鮮へ送り込み、東学党と連絡をとって戦争を挑発した。この陰謀の中心人物は、内田良平のほかに、武田範之、鈴木天眼らである。東学党は元来、民間信仰を中心とする農民組織であって、清国の義和団とおなじく徹底した排外主義だが、この農民蜂起を助けて日本の味方にしたということが天佑侠の自慢の種であって、『東亜先覚志士紀伝』でも天佑侠の項はとくに詳しい。東学党は連絡不十分のため日本軍の攻撃を受け、指導者のチョンポンジュンや李容九は負傷する(チョンポンジュンはのちに刑死)。天佑侠も日本官憲から追われる身となる。しかし、このために農民運動の指導者と日本の「志士」の間に意志の疎通ができた。それが縁で、のちに日露戦争のときは、日本軍への輸送協力となり、また日韓併合の伏線にもなった。

 〔前略〕この時点ではともかく農民との結合が考えられており、やはり一種のアジア主義の発現形態と見なければならない。少なくとも主観的には、挑発だけが目的ではなく、連帯の意識がはたらいていた。そして利欲は眼中になかった。もし利欲が目的なら、生命の危険をおかすはずがない。また、チョンポンジュンや李容九のような排外主義者の信頼をかちえるはずがない。(『アジア主義』、pp.27-28)


 よくもまあこれほど適当なことを言い続けられるものだと感心するが(おかげで私の竹内批判も当分終わりそうにない)、チョンポンジュンを「排外主義者」呼ばわりする(元)侵略者の思想レベルなど、もともとこの程度のものなのかもしれない。


▼7 「かなり最近まで、天佑侠が東学といっしょになって朝鮮で反権力の闘いをした事実があるのだという受けとり方が普遍的にあり、学者が書いた本や、アカデミックな書物の中でも事実として触れられているものが、戦後になっても少なからずある。ところが、事実はどうであったかというと、幸いにしてぼくは数年前、天佑侠の唯一人の生き残りの人にお会いすることができました。

 『天佑侠』という本に井上藤三郎という紅顔の美少年が登場します。その人は――他の人は死んでしまったのですが――最年少であまり細かいことは分からず偶然参加するいきさつになった人で、いま幸せな晩年を送っているようには見えませんでした。身体もちょっと不自由でしたが、頭の方は非常に明晰で率直に記憶を語ってくれました。我我は、天佑侠が一体なんのために朝鮮へ行ったのかについての疑問はふせておきまして、つまり誘導尋問にならないように気をつけながら率直にお話を伺いたいという姿勢で話してもらったのですが、その結果出てきたのは結論的に言ってこういうことです。

 朝鮮の東学軍といっしょになろうと意図して朝鮮に行ったことは事実だけれども、ついに行きあえず参加できなかった。仕方がないから東学軍の活動していた中心地域をそのまま通りぬけてソウルへ行ってしまった。そこで後の一進会を作る手がかりが得られたわけで、戦闘に参加したことは全然ありません、ときわめて正直な話でありました。一度だけ内田良平たち重立った人間が二、三人東学の部隊が駐屯しているところがあるから話をしに行くと言って出かけて行ったことがあるが、その時は断わられたようで、そのまま帰ってきたことがあったようだとのことです。

 なんのために朝鮮に渡ったのですかということについて、井上さんがあまり警戒心もなしに正直に語ってくれたところによりますと、「問題は清国だよ」ということでした。つまり朝鮮の民衆が苦しんでいる、これを助けようなんていうあとからつけた理屈は、井上氏の記憶からは出てこない。清国が朝鮮で横暴をきわめ、日本の国権を侵しているから、これと一戦まじえなければいかん。そのために朝鮮に東学というものがおこっているようだから、これが日清間の対決の場を開く一端として利用できないかをさぐるつもりで出かけたのが事実であるという答えでした。「清国は憎らしい」というようなお話を、さんざん聞かせていただいたわけです。

 そういうことできわめてはっきりしたわけで、今日ふうに言えば、玄洋社の活動は東学のために心から尽くすといったものとはおよそかけ離れたものであり、一種の謀略団体というか、そういうもののはしりで、東学を利用しようとしたわけです。そうであったから当然、東学の側の警戒心によって婉曲に拒否されたというのが真相でしょう。とにかくこの事からもわかるように、玄洋社・天佑侠の流れには一貫して日本の国権をいかに発揚していくか、という問題意識が非常に強烈にあって、それとの関連でしか朝鮮問題というのはありえない、というふうに言って間違いないだろうと思います。例証はまだたくさんありますが、この一つの例だけに止めておきます。」(梶村秀樹、「自由民権運動と朝鮮ナショナリズム」、『梶村秀樹著作集 第一巻 朝鮮史と日本人』、明石書店、1992年、pp.127-129)

▼8 以下、楠原利治・北村秀人・梶村秀樹・宮田節子・姜徳相「『アジア主義』と朝鮮――判沢弘「東亜共栄圏の思想」について――」(『歴史学研究』、1964年6月号、pp.25-26)より引用する。長文だが、これも竹内の妄論を排する実証的な研究であるため、ダメ押しとしてご一読いただきたい。

 「従来,「天佑侠」が東学党の乱に参加して,それが日清戦争開戦の端緒となったということが,一部の人々によって主張されている.「天佑侠」の者達が当時朝鮮に跳梁していたことは事実のようであるが,それは直ちに彼等が「東学党」と「共闘」したということにはならない.当時の朝鮮側および日本側の公的・私的記録の中にその様な記録を発見することは出来ない.いわゆる天佑侠の「快挙」が主張されだしたのは「黒竜会」編,雑誌「黒竜」第1号~11号(明治34年)所載の「韓山虎嘯録」(以下単に「虎嘯録」とする)をもって嚆矢とする.以後,「天佑侠」(明治36年),「玄洋社史」(大正6年),黒竜会葛生能久著「日韓合邦秘史」(昭和5年),「中野天門・鈴木天眼両氏追悼会概状及び追悼談」(同上),「東亜先覚志士記伝」(昭和8年)等,「玄洋社」あるいは「黒竜会」系統の文献にのみ収録されている.しかも,これ等の文献も,それぞれ記述が区々で一貫性を欠いている.思うに,最初の文献たる「虎嘯録」が一種のフィクションであったことから,再録に際して,引用者の任意の判断が多くの相違をつくり出したものであろう.

 かりにこの「虎嘯録」によれば,内田等の「天佑侠」は,6月27日釜山で揃い,7月10日頃,淳昌にいたチョンポンジュン等「東学党」幹部と会見し,その後2日間にわたって「京軍」と交戦したことになっている.この「天佑侠」と「東学党」との会見は事実かも知れないが,「東学党」と「京軍」との交戦は,5月11日から始まり,6月11日までの間に終了しているのが史実である.特に,6月11日,全州の戦闘で「東学党」が敗退した後,農民軍は四散しており,「京軍」との大規模な戦闘はあり得ない.従って,時期的に言って「天佑侠」が「東学党」軍に参加して,政府軍と戦ったこともあり得ない.又,「虎嘯録」では事件の日時が殆ど記されていないし,特に彼等の行動に於いて最も重要な「天佑侠」徒と「東学党」幹部との会見及び交渉の日時も記録されていない.それでも,「虎嘯録」の著者は「天佑侠」の農民戦争参加を誇示するつもりか,交戦軍隊の編成に言及している.それによると,チョンポンジュンを総督とし,田中侍郎・鈴木天眼・吉倉汪聖の3人は軍師となり,以下遊撃隊(70名),東面軍・西面軍・南面軍・北面軍(各100名),輜重軍(50名),赤十字軍(30名)が編成され,各軍の大将・副将はすべて日本人であったとされている.「東学党」と「天佑侠」の会見以後軍編成までにどんな交渉がどれほど行なわれたかは不明だが,「東学党」が軍の責任を全く日本人に渡すということがあり得るだろうか.たといあり得ても,天佑侠徒14人がすべて軍事専門家になっているというこの記録こそが,かえって「東学党」と「天佑侠」との共闘の事実を否定すると言ってもよいであろう.

 軍師となったはずの鈴木天眼の「追悼録」やこれ等「侠徒」の事蹟を顕彰する「東亜先覚志士記伝」に軍隊編成の事実が全く記載されていないことは「虎嘯録」の信憑性が彼等によっても否定されている証拠である.〔中略〕

 上記5種の文献を綜合する限り,「天佑侠」徒は「東学党」の本拠淳昌に至るまでは,その性格なり東学党の置かれた状況等については明確な知識をもっていない.僅かに,淳昌近辺の南原府に入って,初めてその概要を知ったに過ぎない.まして,南原府までの道程に於いて東学党と連絡があったことはどこにも記されていないばかりか,逆に朝鮮の「暴民ども」からしばしばその旅程を妨げられているのである.

 「斥倭洋」を唱える東学の影響下にあった「暴民ども」が日本人の通行を阻止することは当然の行動であるが,「天佑侠」徒の「暴民ども」に対する態度には一片の同志的心情もない.彼等は単に自己の野望を実現するためにこの戦争を利用したというに過ぎない.「東学党は王を挟みて政権を握り天佑侠はこれが顧問となって共に天下に号令する」(東亜先覚志士記伝)といった表現が何よりもその意識を明らかに示している.

 しかも,「虎嘯録」によれば,「天佑侠」徒の一人は「朝鮮の死命は是に於て全く我徒の掌中に制せらるる者なり.既に其の死命を制するとなれば我徒はこれより更に朝鮮に拠って天下を制する所以の道を講ぜざるべからず.如何となれば朝鮮独立は我徒一時の手段にして天下平定は我が徒多年の宿望なり」と述べている.ここでいう「天下平定」とは朝鮮・満州・蒙古・中国・インドシナ・フィリッピン更にインドに亘るアジアの「平定」であったと言われている(黒竜11号).

 当時の日本の支配者が日清・日露戦争を遂行するに当って「朝鮮の独立」「東洋の平和」を大義名分としたことと何と奇妙に一致する言葉ではないか.」

 自分たちが連帯するに値する(しない)者たちが誰であるかを、「朝鮮の「暴民ども」」は明確に見抜いていたが、竹内好には生涯そのことが理解できなかったのだろう。今日でも、これと同じことが、アジアの「反日」と、それを忌避(憎悪?)する日本のリベラル・左派について、言えるのではないだろうか?

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