2011年03月

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「アラブのことはアラブにやらせる」アラブ革命を語るパレスチナ研究者

 『現代思想』2011年4月臨時増刊号で、「アラブ革命――チュニジア・エジプトから世界へ」という総特集が組まれている。タイトルを真に受けて流し読みをしてみたが、「世界」の中にはどうやら日本はあまり含まれていないらしかった。鵜飼哲・臼杵陽・栗田禎子・長沢栄治による討議「サウラの時に――アラブ世界の大転換」(pp.60-81)での以下の臼杵の発言が象徴的かもしれない(強調は引用者による)。


臼杵 今回の事態においても一番の問題はイスラエルですが、イスラエルのロジックは民主的な選挙制度を作ればイスラーム主義勢力が拡大し、地域の安定を脅かすというものです。しかし取るべき最も重要なあり方は、内政への不干渉であり、たとえどのような政権でもそのままやらせるという原則をはっきりと立てることです。そして今の状況ではどんな政権もそれほど過激なことはできないはずです。ムスリム同胞団が他政党と組んで政権を取ったところで、これまでと全く違うことはできない。ですから、エジプト軍をはじめとする諸勢力には介入をさせないことを貫かなければ、今まで通りの「対テロ戦争」のロジックで、アルジェリアやガザで起こったことが繰り返されてしまうでしょう。そう考えるならば、アメリカの同盟国である日本が果たす役割も大きいはずです。不介入・不干渉という原則をアメリカに立てさせるための圧力をかける。今の日本の状況では難しいかもしれませんが、常に外からの介入によって壊されてきたアラブの歴史を考えるならば、アラブのことはアラブにやらせるという正しい道を進めさせるべきです。理想論と言われるかもしれませんが、それが最も重要だと思います。(p.79)


 「内政への不干渉」の必要性を語る際に、なぜこれほど使役形が連発されなければならないのか理解に苦しむ。「たとえどのような政権でもそのままやらせる」「アラブのことはアラブにやらせる」という台詞は、アラブ諸国に対する先進国――植民地主義連合――の優越性および介入への権利を自明視していなければ、そうそう出てくるものではないだろう。臼杵がアラブ諸国の民衆に対して向ける眼差しは、まるで子どもに対して「自分のことは自分でやらせる」ことができる親のようなものではないか。臼杵の言う「内政への不干渉」とは、民族自決という「普遍的」価値に基づくものではなく、むしろ民族自決を(暗に)否定することによって行使される、植民地主義連合の<寛容>の権力であると言えるかもしれない。<寛容>の権力は、自身が設定する「寛容の限界」を超えた場合に<不寛容>になる権力と表裏一体のものである。臼杵自身も示唆しているように、エジプトで民主的に誕生した政権が「これまでと全く違う」「過激な」(おそらくは反米・反イスラエル的な)ものになった場合は、この「内政への不干渉」は「貫か」れなくてもよいということになりかねない。

 もちろん、この討議では鵜飼が日本の植民地主義を批判するなど、まともな場面もあるのだが(もっとも、鵜飼の批判は最後の「まとめ」になっているため、他の発言者がどのように応答したか(しなかったか)はわからない)、他方では、チュニジアの現象は(「ある意味では」と断った上ではあるが)、日本のネットカフェ難民や派遣切りや大学の中でものを言えなくなっている知識人の問題にも通じている、と栗田が発言していたりもする。チュニジアの社会的不公正と日本のそれを、歴史的経緯を捨象して接続することの問題性もさることながら(日本は「アジアのチュニジア」ではなく「アジアのイスラエル」なのだから)、積荷を官憲に没収されて抗議のために焼身自殺をしたチュニジアの若者と、日本の「大学の中でものを言えなくなっている知識人」とは、まったく対極にあるとしか私には思えないのだが・・・。栗田自身も千葉大学大学院の教授だが、同僚が抗議のために焼身自殺をする可能性があるかもしれないなどと(少なくとも24日に自殺をした福島の野菜農家のように追い詰められていると)本気で思っているのだろうか。そもそも、日本で「ものを言えな」い大学教授など、もとより知識人の名に値しないと思うが。

 ところで、仏英米主導によるリビアへの軍事介入には日本政府もいち早く支持を表明しているが、これに関して水島朝穂が興味深い指摘をしている(強調は引用者による)。


 ドイツの国内世論は、Emnid世論調査研究所によると、「空爆」支持は62%で、反対が31%であるものの、ドイツ軍がこの攻撃に参加することに65%が反対している(FR vom 20.3) 。これは虫がよすぎると英仏は反発している。8年前のイラク戦争の時、独仏が米国の独走に反対するという構図だったのとは随分異なる。

 特に軍事介入に積極的なのは、反核・平和、エコロジー、フェミニズムを主潮としてきた「緑の党」である。左派紙から「緑の騎士団」と皮肉られるほどだ(junge welt vom 22.3)。12年前のNATO空爆の際、フィッシャー外相(緑の党)が「空爆」に賛成してこれを推進した。今回は「緑の党」のK.ミュラー(元外務副大臣)が、ドイツの棄権を「致命的な誤決定」と非難し、「ドイツはヨーロッパを分裂させ、国際的に信頼を失墜させた」として、「人道に対する犯罪に対しては非難するだけでなく、行動しなければならない」と、「空爆」を積極的に支持している(以下、Vgl.die taz vom 26.3)。 12年前のボン滞在中、彼女の活動について触れる機会があっただけに、かつての活動家の変貌ぶりに驚くばかりである。エコロジストやフェミニスト、人権尊重派は、独裁者による大規模な人権侵害となると見境がなくなり、強力な国家介入を求める傾向にある。「国家保護義務」の議論でも、この手のタイプは驚くほどのタカ派になる。


 平和憲法のメッセージ:「見過ごせない軍事介入――リビア攻撃とドイツ」
 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2011/0328.html

 先進国の「人権」概念が軍事介入(「人道的介入」)を容認ないし正当化するのは、それが結局は民族自決を否定し、植民地主義を継続させるためのイデオロギーに(も)なっているからだと思う。「アラブのことはアラブにやらせる」などと高みから論評している暇があるなら、自分たちの性懲りもない植民地主義を地道に克服するべきだ。

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