2011年10月

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翻訳記事:「スーダンは1990年代版ニカラグア?」(ショーン・ガッブ)

 自衛隊の派兵が既成事実化しつつある南スーダンで29日、大規模な戦闘が発生し、少なくとも75人が死亡したと報道されている。スーダンについてはこれまで目を通した海外記事から可能な範囲で解説を試みたいと思っているが、なかなか作業が進まずにいる。以下の記事は本来解説に組み込もうと考えていたものだが、圧倒的賛成多数の住民投票結果を受けて独立したはずの南スーダンで、実際には何が起こっていたのか――端的にはSPLA(スーダン人民解放軍)とは何者なのか――を知る絶好の資料であるため、優先して翻訳・紹介することにした。

 この記事が執筆されたのは1998年に遡るが、当時のスーダン関連記事は、おそらくは「人道的介入」言説とそれに基づく帝国主義的侵略が全面化する以前という歴史的条件から、相対的にまともなものが多いように思う。この記事でとりわけ興味深いのは、米国の対スーダン政策に密接に関わっているジョン・プレンダーガスト自身が、SPLAをコントラ「死の部隊」になぞらえる発言を明け透けに繰り返していたことだろう。そして事実はプレンダーガストの発言を裏づけるものである。特に訳出した最後の章「米国によるスーダン版コントラの支援」にはぜひご注目いただきたい。

 SPLAは今日の南スーダン政府の中核を担っている。


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■「スーダンは1990年代版ニカラグアなのか?アフリカの角における米国の政策」(ショーン・ガッブ)

【原文】
 The Sudan Foundation [Politics File, Number 21, 1998]: "Is Sudan the Nicargua of the 1990s? American Policy in the Horn of Africa "
 https://groups.google.com/group/alt.fan.noam-chomsky/msg/d71623c14e4ac332?hl=fr&


●はじめに

 「1980年代の中米のまったくの引き写しである」――国家安全保障会議メンバー、ジョン・プレンダーガスト(John Prendergast)(▼1)

 「1980年代へようこそ。ロナルド・レーガンに栄光あれ!次のシナリオを思い出そう――他国の政府を転覆するためにCIAが支援し、武装した反乱軍。隔離されたキャンプからの越境攻撃。そして国際的な経済制裁と大量のプロパガンダ攻撃によって支えられた、あらゆる不安定化作戦を。これはあたかも1984年前後のニカラグアやアンゴラのことだと思うだろう。けれども実際には、1998年のスーダンを指している。」――ジョナサン・スティール(Jonathan Steele)、1998年3月1日付『ガーディアン』


●ニカラグアとスーダン――「異常かつ途方もない」「米国の外交政策」に対する脅威

 米国の対スーダン外交は、1990年代に入ると、演説においても行動においてもいよいよ攻撃的になってきた。スーダンをめぐる米国の外交政策は、1980年代のニカラグアおよびニカラグアのサンディニスタ政権に対する米国の従来の政策と振る舞いを反復している。前述のように、それは英紙『ガーディアン』のベテラン記者であるジョナサン・スティールと、米国家安全保障会議の東アフリカ局長であるジョン・プレンダーガストといった、立場の異なる人物の発言からも充分に示唆される。両者をごく簡単に比較するだけでも不穏な類似性は際立っている。

 ニカラグア政権を転覆するべく米国が1980年代に熱心に行ってきたことは、今日では詳細に記録・報道されており、欧米の進歩的勢力が高い関心を寄せる問題でもあった。1985年初頭、レーガン大統領は、ニカラグア政権の「現体制」を「除去」したい、と公的に発言した。ジョージ・シュルツ国務長官(当時)は、この体制を除去する方法の一つは「サンディニスタ政権を崩壊させること」であると述べた(▼2)。1985年5月1日、レーガン大統領は、「ニカラグア政府の政策と行動は、米国の国家安全保障と外交政策に異常かつ途方もない脅威をもたらしている」とする大統領命令を出した。この大統領命令はニカラグアに対する経済制裁を科すものでもあった。

 1997年11月4日、クリントン大統領は、「スーダンの政策は、米国の外交政策に異常かつ途方もない脅威をもたらしている」とする大統領命令を出した(▼3)。この大統領命令には、スーダンに対する一方的な経済制裁を敷くことも含まれていた。一連の措置は、スーダンが世界で最も貧しい国の一つであり、しかもスーダンが世界中のどこであれ米国人を一人でも殺したり殺そうと企んでいたりする証拠が何一つないままに行われた。

 米政府の権力が、このように不条理な方法で、途上国の中でも最も貧しい二国に向けて直接襲い掛かるというのは、異常なことである〔訳注:米国の建国以来の歴史の中では、残念ながらこれらはとりたてて「異常な」(extraordinary)ことではなく、今日もまたそうである。〕両国とも米国の支援に基づく攻撃と不安定化を被る以前からすでに極めて貧困であり、ニカラグアでは破壊するべき、スーダンでは破壊し続けるべき、発達したインフラはほとんど存在しなかった。〔訳注:正確に言えば、ニカラグアが西半球で最も貧しい国の一つとなったのは、1990年にサンディニスタ政権が転覆されてから約10年を経た後である。サンディニスタ政権下のニカラグアでは、米国の介入のために国家予算の半分を戦費に注ぎ込まざるを得なかったにもかかわらず、進歩的な社会経済プログラムが推進され、米国の代理軍隊であるコントラ「死の部隊」は、それを破壊するべく学校や診療所を焼き払った。スーダンでは、国内の医薬品自給率を5%以下から50%以上に引き上げたアッシファー製薬工場が、1998年の米国のミサイル攻撃によって瞬時に破壊され、医薬品の不足のために何万人もの人々が死亡したと推定されている。〕

 スーダンに対するクリントンの行動は、二年前から準備されたものであり、1995年2月15日には、クリントン政権の当時の国家安全保障会議アドバイザーであるアントニー・レイク(クリントンはレイクをCIA長官にも指名したが、これは失敗した)が、戦略研究センター主催の会議の前に、次のように語っている。

 「我々は、スーダン政府がその見解を変え、政府というものが従うべき――と我々が見なす――国際的な行動規範に従って振る舞い始めるまで、スーダン政府の影響力を最も効果的に阻止する方法を探るために、他国の政府と協同してスーダン周辺で活動するだろう。」

 レイクの宣言から間もなく、1995年3月23日に、エドワード・ブリン(Edward Brynn)
米アフリカ問題国務次官補は、上院アフリカ小委員会での発言で、以下のように述べた。

 「要するに、我々はスーダンに注目を集めておくことには成功しているが、我々にとって最も関心事である、政権のそうした政策と実践における変化をもたらすことができずにいる。我々はハルトゥームに対して二国間および国際的な圧力をかけ続けるだろう。我々はハルトゥームの振る舞いに変化をもたらす方策を探ることを断念したことはなかったし、今後も断念することはない。スーダン政府は、我々が脅威的で不快と見なす現在の政策と実践を続ける限り、最終的にはそれが自らの瓦解を招くということを理解しなければならない。」

 国家安全保障会議・東アフリカ問題局長ジョン・プレンダーガストは、1997年後半に、スーダン政府は「今日のアフリカ大陸における米国の安全保障上の根本的な脅威」として見なされていると述べた(▼4)。

 けれども、ニカラグアの場合にもスーダン場合にも明らかなのは、米国の外交政策が、米政府にとって好ましくない政治的志向を選択した第三世界諸国を悪魔化する方法を取ったことである。冷戦の終結にともなって、米国の安全保障体制が何十億ドルもの支出を正当化するために新たな敵を必要としたというのもよく言われることである。イスラム原理主義の表象は便利な標的であり、米国の政策が、スーダンのハルトゥーム政権のような、あらゆる独立したイスラム政権に敵対的なのは明らかだ。マイケル・フィールド(Michael Field)がアラブ世界における包括的な研究で述べているように、スーダンの志向は明確である。

 「近代的・共和主義的・イスラム的な思想を実践してきた唯一のアラブ国家はスーダンである。」(▼5)〔訳注:この言明には必ずしも納得できないが、バシール政権下のスーダンが、例えばカダフィ政権時代のリビアよりも「イスラム的」であり、サウジアラビアよりも「近代的・共和主義的」であるのは確かだろう。〕

 そして、1980年代のニカラグアのサンディニスタ政権による社会主義へのコミットは、ワシントンからの同様の敵意を引き起こした。


●米国によるスーダン介入の背景

 1989年7月、軍事クーデターによってサディク・アル=マフディー(Sadiq al-Mahdi)政権が倒された。二つのイスラム党派――サディク・アル=マフディー率いるウンマ党と民主統一党――が運営していた弱体な連合政府は、これによって三年で終わりを告げた。スーダンの内戦は、ジョン・ガラン率いるSPLA(スーダン人民解放軍:Sudan People's Liberation Army)が結成された1983年に再燃した。スーダン政府は徐々に民政に移行し、スーダンに近代的なイスラム共和国を建設した。米国の支配層と米国の同盟国である中東の独裁政権にとって、スーダン政府の独立と民主的なイスラムモデルの脅威は、スーダンを米国の不快な標的として位置づけるに充分であった。

 スーダン政府が国内の政治的・軍事的な圧力によって崩壊するだろうという米国の当初の期待は、まったく的外れであったことが明らかになった。スーダン政府は地方分権を進め、連邦制度を適用し、イスラム教徒がマジョリティを占める地域にシャリーアを一部導入し――したがって南部スーダンは除外された――、地方選挙および州選挙、全国選挙、大統領選挙を実施した。ハルトゥーム政権はまた、スーダン南部のいくつかの主要な反乱勢力との間で、1997年の和平協定――南部スーダンの自決に関わる住民投票の保証を含む和平協定――を結んだ。1998年の新憲法は、大統領制・連邦制・多党制国家としてスーダンを規定している。政府とSPLAとの内戦は、とりわけ1980年代後半から1990年代初頭にかけて激化し、SPLAがエチオピアの後方基地を失い、〔訳注:エチオピアの〕メンギスツ(Mengistu)政権が倒れ、SPLAが複数の派閥に分裂してから間もなくピークを迎えた。


●米外交政策のおなじみのパターン

〔訳注:省略〕


●「知覚の操作」

〔訳注:省略〕


●「外交の隔離病棟に」スーダンを搬送

〔訳注:省略〕


●「経済的な締め上げ」

〔訳注:省略〕


●「代理軍隊の編成」

 1994年までには、スーダンに対する米政府の政治的・プロパガンダ作戦が激烈になっていたにもかかわらず、スーダンの国内情勢は著しく沈静化していた。治安が数年来より改善し、「内からの平和」運動が勢いを増してきた。ところが、ジョン・ガランの弱体化したSPLAは、依然としてスーダン政府を打倒するべく、これまで以上に露骨な軍事的圧力を加えようと躍起になっているようであり、SPLAがスーダン国内の政治的出来事から取り残されてきていることが、ますます明らかになってきた。

 この圧力が、ワシントンが1980年代にニカラグアで用いたモデルに倣ったものであることについては、1990年代の米国の対スーダン政策に関連する発言の中で、ジョン・プレンダーガストが明快に認めている。

 「1980年代の中米のまったくの引き写しである。米国はコントラに密かな支援(さらにエルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ政府には公式な支援)を提供し、国内的な圧力を受けて、コントラ(および上記三国の中米政府)に対して――特に人権と制度改革に関して――多くの改善を施すと主張した(が実際には、人権など気にかけないワシントン政権は〔訳注:コントラを批判する人々に対して〕逆に圧力をかけた。」(▼12)

 米政府が、ニカラグア政権に対して用いた戦術を反復して、1990年代初期から
スーダンの軍事的不安定化を意図した「二本立て政策」(twin track policy)を開始したことは明らかである。この政策は、対ニカラグア政策でホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルを利用したように、スーダンの三つの隣国――ウガンダ、エリトリア、エチオピア――を組み込んでいる。〔訳注:ニカラグアに対する「twin track policy」では、米国はニカラグアの隣国において、(1)コントラを育成・支援するとともに(戦争)、(2)反戦運動を米国の管理下に置くことで(「和平」)、サンディニスタ政権の転覆を実現した。戦争と「和平」という二つの異なる(表面的には矛盾して見える)戦術は、いずれもサンディニスタを弱体化させ、転覆するという一つの戦略に奉仕するためのものだった。〕


●米国によるスーダン版コントラの支援

 それはまた、スーダン国内でのSPLAのテロ活動の促進を積極的に奨励する、SPLAに対する軍事的・政治的支援政策に関わっている。密かな軍事支援に加えて――米政府が様々なコントラ集団をFuerza Democratica Nicaraguense(ニカラグア民主軍:FDN)という総称で知られる単一の政治的・軍事的存在へと強制的に合併したニカラグアに倣って――米国の圧力によって1995年6月にエリトリアで「国民民主同盟」(National Democratic Alliance: NDA)が創設された。この新たな組織には、SPLAやウンマ党、民主統一党、スーダン連合軍などが加わった。国民民主同盟は政治的・軍事的委員会を立ち上げ、スーダン政府を暴力的に転覆するべく組織化を図った。『アフリカ・コンフィデンシャル』の言葉を借りれば、米国大使の「存在は異彩を放っていた」。

 1981年11月、レーガンはサンディニスタ政権を標的として米国が訓練した民兵組織を創設するために1990万ドルの支出を承認した。1984年までにこの軍隊は1万3000人のコントラに成長し、米国からの支援として――主にCIAの「当局機密分類」の年間予算から――1億ドルもを受け取るようになっていた。数千万ドルに及ぶ米国からの似たような秘密軍事資金がSPLAに対して注ぎ込まれている。

 そして、SPLAはコントラがニカラグアで取った戦術に酷似した戦術を用いた。コントラは8000人のニカラグア市民を殺害した(▼13)〔訳注:今日では民間人の死者は5万人に上ると推定されている〕。1981年から1985年にかけて、米国が支援したコントラは3346人のニカラグアの子どもとティーネイジャーを殺害した(▼14)。SPLAは南部スーダン――ウガンダやエチオピア、エリトリアの基地から最もアクセスしやすいスーダン地域――の民間人に対して同様の組織的テロリズムを繰り広げた。プレンダーガストは次のように明快に述べている。

 「SPLAは、自らが関与した人権侵害をめぐって、国際的な人権団体や地元の教会からの津波のような告発と非難にさらされている。」(▼15)

 SPLAは何万人ものスーダン市民を殺害し、その他にも民間人に対して多くの残虐行為を犯してきた。国連特別報告者は、1995年に南部スーダンのガニエル(Ganyiel)地域で起こった、そうした事件の一例を報告している。SPLAの民兵は、30人の老人と53人の女性、127人の子どもを含む210人の村人を、銃や刀、さらには炎によって殺害した。この襲撃によって、さらに合わせて1987軒の家が破壊された(▼16)。アムネスティ・インターナショナルが報告した別のテロ行為では、SPLAの殺し屋が、南部スーダンのアヨド(Ayod)から12キロの距離にあるパガウ(Pagau)村から連行してきた32人の女性を一列に並べ、一人ずつ頭を一発で撃ち抜いて殺害した。報告によれば、18人の子どもが小屋に監禁され、その後に小屋が焼かれた。逃げ出そうとした3人の子どもがそのときに撃たれた。残った子どもたちは焼き殺された。アムネスティ・インターナショナルは、アヨド北東部のパイヨイ(Paiyoi)でSPLAが36人の女性を牛小屋に閉じ込めて焼き殺したと報告している。その他にさらに9人がガランの軍隊によって棍棒で殴り殺された(▼17)。SPLAはまた、強制労働や徴兵といった組織的な市民の動員を通じた奴隷制ないし奴隷制的な慣行を非難されている。ヒューマン・ライツ・ウォッチ/アフリカによっても、米国の支援するテロリストによって1万人以上のスーダン人の子どもたちが誘拐されていることが確認されている。

 今では米国家安全保障会議の東アフリカ局長としてSPLAを武装する米国の政策に参加しているジョン・プレンダーガストが、国家安全保障会議に指名される以前に、こうした行為の倫理性について明快に述べていたというのは、おそらく皮肉なことである。開発支援コンサルタントとして、スーダンとSPLAについて相当の経験をもって働いていた時期に、彼はSPLAについて明快に述べている。

 「〔訳注:SPLAは〕その支配区域における凄まじい人権侵害に対して責任を負っている。その支配区域における統治機構(SPLAが自らに授与した地位)として、SPLAに対して通常の人権水準を適用するのであれば、米国議会は人道主義的見地からとっくの昔に人道援助以外の援助を禁止していただろう。」(▼18)


●米国によるスーダン隣国の「不安定化工作員」化

〔訳注:省略〕


●結論

〔訳注:省略〕



▼1. John Prendergast, Crisis Response: Humanitarian Band-Aids in Sudan and Somalia, Pluto Press, London, 1997, p.77.
▼2. New York Times, 23 February 1985.
▼3. 'The U.S. Imposes New Sanctions on Sudan', Thomson Financial Publishing, http://www.tfp.com/news/USSudan.htm, 4 November 1997.
▼4. Speaking at the 'Meeting on Religion, Nationalism and Peace in Sudan', United States Institute of Peace, Washington-DC, 17 September 1997.
▼5. Michael Field, Inside the Arab World, John Murray, London, 1994, p.257.

▼12. John Prendergast, Crisis Response: Humanitarian Band-Aids in Sudan and Somalia, Pluto Press, London, 1997, p.77.
▼13. William Blum, The CIA:A Forgotten History, Zed Books, London, 1986, p.334.
▼14. Dianna Melrose, op.cit., p.26.
▼15. Prendergast, op cit., p.72.
▼16. Situation of Human Rights in the Sudan: Report of the Special Rapporteur, Mr Gaspar Biro, submitted in accordance with Commission on Human Rights Resolution 1995/77, 1996.
▼17. Sudan: The Ravages of War: Political Killings and Humanitarian Disaster, Amnesty International, London, AI Index: AFR 54/29/93, 29 September 1993, p.25.
▼18. John Prendergast, Crisis Response: Humanitarian Band-Aids in Sudan and Somalia, Pluto Press, London, 1997, p.77.

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