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64年目の8.15 (4)

■目次
(1) はじめに
(2) 「平和国家」日本が欲する「第二の靖国」(読売)
(3) 「戦争のリアリティー」を語る立場の占領(朝日)
(4) 戦後責任から「エコ」への逃走(毎日)
(5) 日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲(日経・産経)
(6) 日本人は誰に対して憲法9条を負っているのか(東京)
(7) おわりに

(5) 日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲(日経・産経)

 日経新聞:「悲劇を繰り返さぬ決意を新たにしよう」
 http://blog.goo.ne.jp/freddie19/e/a946c992c502ed0e25bf2a5629c7abf7

 産経新聞:「終戦記念日 国家の心棒、立て直す時 鎮魂の日に思う難局の打開」
 http://blog.goo.ne.jp/freddie19/e/2036e6ca63fd245c680dcb9ec220c65a 

(5-1) 沖縄戦の記憶の「国民化」

 次に日経と産経の社説を見てみよう。両紙の社説は、(例えば朝日などとは違って)論旨が明快で欲望に忠実なので、両紙の読者層はおそらくほとんど重なっていないにも関わらず、似たような記事になることが実は少なくない。今回もその例で、日経は日本人「戦没者の霊に報いる」ために「外交や安全保障の戦略を根本から議論する」ことを、産経は「300万を超える戦没者を深く追悼」するために、「国家主権の行使を縛る憲法第9条」という「絶対的な無防備平和主義」を改め、「国家の機能を回復すること」を主張している。つまり、日本人戦没者に対する「戦後責任」としての改憲を唱えているのである。

 ところで、私が最も示唆的だと思うのは、日経が、こうした改憲のレトリックを補強するために、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下と並ぶ国民の主要な戦争被害として、沖縄戦を位置づけてきていることである。なんと日経は社説の実に三分の一以上を沖縄戦の記述に費やしている。「痛恨の歴史を語り継ぐ努力を続けなければ、戦争の記憶は確実に風化していく」という一文に続く部分を、以下に引用してみよう(強調は引用者による。以下同様)。


 その戦跡の入り口は那覇市街を見下ろす小高い丘の上にある。先の大戦で国内唯一の本格的な地上戦となった沖縄戦で使用された「旧海軍司令部壕(ごう)」だ。細い地下通路の先に幕僚室や作戦室があり、全長は450メートルあったとされる。

 3カ月近く続いた沖縄防衛戦の犠牲者は20万人に及び、うち約半数を民間人が占めた。玉砕を覚悟した大田実中将は1945年6月、海軍次官あてに異例の電報を打って自決した。最期の場所となった部屋の近くに電文が掲げられている。

 「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」。電報は県民の献身的な協力ぶりをたたえて終わっている。しかし惨状を切々と訴える全文から伝わってくるのは、近代兵器で重武装した米軍との徹底抗戦を女性や子供にまで強いた判断への憤りである。


 言うまでもなく、日本軍が「沖縄県民」を虐殺し、集団死(いわゆる集団自決)を強制したという事実がここでは隠蔽されている。「近代兵器で重武装した米軍との徹底抗戦を女性や子供にまで強いた判断への憤り」は、後に続く、「総合的な戦略や柔軟性を欠く軍の作戦方針がもたらした悲劇は、ガダルカナル、インパールなど数多い」という空虚な一般論に回収され、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓は、丸ごと無視されているのである。


 終戦の年には3月の東京大空襲、8月の広島、長崎への原爆投下などによって民間の犠牲者が急増する。それでも軍上層部は昭和天皇の「ご聖断」が下るまで「本土決戦、一億玉砕」を叫び続けた。


 軍上層部が「「本土決戦、一億玉砕」を叫び続けた」のは、端的に天皇制(だけ)を守るためであり、沖縄は「本土決戦」を遅らせるための捨て駒にされたのだから、「歴史の歪曲」の見本も、ここまで来るとむしろシュールでさえあると思う(もちろん、こうした神話は、戦後を丸ごと肯定したいという日本人の欲望に適うため需要も多いのだが)。

 けれども、ここで考えなければならないのは、沖縄戦の強制集団死をめぐる軍の責任を教科書に復活させる要求が、保守派を含めた沖縄全土から突き上げられている中で、どうして日経はここまで無神経な社説を打ち出せるのか、という点であると思う。一つには、本土のリベラル・左派にも広く共有されている、沖縄への差別意識があることは間違いないだろうが、これでは日経が社説の三割以上を沖縄戦の記述に当てていることの説明にはならない。

 以下は仮説として書くのだが、日経がこの社説を書いたのは、かれらが沖縄の左派との対決に自信を持ち、沖縄を国民国家の枠に回収し尽くす準備が整ったからではないだろうか?なお、ここで言う「かれら」というのは、ただ日経の社説子に留まらず、日本において圧倒的多数を占める、戦後社会を肯定する人々――左右は問わない――を指している。もちろん民主党新政権もここに含まれるわけである。

 今回の衆院選の結果、沖縄では全選挙区で普天間基地の「県外移設」を主張する民主党などの野党候補が勝利し、辺野古への新基地建設を強引に進め(ようとし)てきた自民党は全滅した。沖縄の地元紙は相次いで基地の「県外移設」を求める社説を掲載し、玉城デニー議員は「党の鳩山(由紀夫)代表や小沢(一郎)前代表に、(代替施設を)県外に造ると確認した」と公言している。18日には那覇市で辺野古の新基地建設中止を求める大規模な県民集会も予定されており、切実な期待と緊張感を持って新政権への働きかけが始まっている。

 琉球新報:「普天間移設 政策転換は恥ではない」
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-149305-storytopic-11.html

 沖縄タイムス:「[政権交代 基地問題] 超党派で長期的戦略を」
 http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-09-02-M_1-005-1_001.html

 けれども、民主党は普天間基地の「県外移設」をマニフェストに掲げていたわけではない。社民党は辺野古への新基地建設に反対している(いた)が、最終的にはその「あり方を再検討する」というヘタレ路線で民主党と合意した。そもそも、民主党との選挙協力によって7議席を維持したにすぎない社民党が、民主党と「対等」の立場で連立政権を組めるはずがないことくらい、誰にでもわかりそうな話である。社民党は民主党との連立を解消しない限り自壊を続けるだろうし、連立を解消すれば党そのものが消滅してもおかしくない。そして後者の認識によって前者の選択は正当化されるだろう。蛇足だが、以下の記事などを読む限り、社民党はもう普通にダメだろうと思う。森永卓郎といい内田樹といい、一体どうすればこんな連中に引っかかれる(フリにせよできる)のだろうか。あまりにも意味不明である。

 社民党OfficialWeb:「【福島みずほ対談】 内田樹さんと9条」
 http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/other/peace0908.htm

 目取真俊氏が警告するように、辺野古への新基地建設は、その「あり方を再検討」しているうちに、なし崩し的に進められていく公算が高いだろう。というか、こういう他人事のような言い方は間違っていて、民主党政権が普天間基地の「県外移設」に消極的なのは、有り体に言って、本土の圧倒的多数の国民がそれを支持しないからである。対米関係においても(沖縄を除く)国内においても、政権が不安定化することがわかりきっている以上、民主党の対応は、ある意味当然の政治的判断だろう。(なお、念のため書いておくと、私は米軍基地は東京に集中させるべきだと考えている。普天間基地の移転先は、狭いが立地のよい皇居あたりがよいのではないか。)

 海鳴りの島から:「産みの苦しみに耐える力を」
 http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/44c7e3aef785392dade8b6bcb8333177

 では、民主党政権(および私自身を含めた本土の国民)が、米軍基地の「県内たらい回し」を沖縄に強いるとき、その「見返り」として沖縄に与えられるものは何なのだろうか?私はそれこそが沖縄戦の記憶の「国民化」であると思う(他にも米軍「再編交付金」の増額などがあるかもしれないが)。

 日経の社説は、日本軍による集団死の強制性を覆い隠してはいるが、「先の大戦で国内唯一の本格的な地上戦となった沖縄戦」を、「語り継ぐ努力を続け」るべき「痛恨の歴史」として、「3月の東京大空襲、8月の広島、長崎への原爆投下など」と共に挙げている。金玟煥氏の言葉を借りれば、「脱文脈化された被害者的な視点から語られる広島的な「平和」」は、「日本人たちを犠牲者意識に浸らせ、日本がアジア-太平洋地域で行った侵略者としての姿を批判的に捉えることを不可能にさせる機能を担っている」が、それは一方では広島が米国と天皇の戦争責任を問うことを不可能にさせることでもある。沖縄戦の表象の「広島化」――「加害者と被害者の間に存在する差異を無化」し、「歴史的な文脈が除去された「平和」」を求める動き――が、沖縄のアジアへの加害行為を忘却させる機能を担うのであれば、沖縄は逆説的に米軍と天皇と日本軍の戦争責任を問うことをも忘却してしまうのではないだろうか。少なくとも確かに言えるのは、「広島化」された「平和」が「日米同盟」に親和的なことである。

 「広島と沖縄に関して語られるありふれた言葉の一つに「唯一」というものがある。広島では、広島が世界で「唯一」原子爆弾の被害を被ったと至る場所で聞かされる。沖縄では、沖縄が日本で「唯一」地上戦が行われた場所だと聞かされる。結局この二つの「唯一」の間でどのような立場を重視するかが、日本において過去の太平洋戦争をどのように記憶するのかという立場を決定する。広島で語られる「唯一」に対する感覚はともかく、沖縄で語られる「唯一」なことに対する感覚は東アジアあるいはアジアというより広い文脈の中では唯一なものではないという事実をここで指摘したい。つまり、日本の領土内で「唯一」地上戦が行われた場所が沖縄という観点は、東アジアで「唯一」地上戦が行われなった場所が日本本土だという観点に転換できるなら、沖縄の「唯一性」に対する観念は消失してしまう可能性もある。」

 金玟煥:「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で――沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」
 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-18.html

 思うに、日経の社説は、沖縄の「平和」の「広島化」を見据えた上で、沖縄の記憶を「国民化」し(「日本国内の「平和」言説の総本山である広島を経由して沖縄問題をその主流に押し上げ」)、沖縄(の「唯一性」)を国民国家の枠に回収し尽くす手前の状況を示唆する文章なのではないだろうか。


(5-2) 日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲

 さて、話を最初に戻そう。日経は社説を次のように結んでいる。


 無謀な戦争で国中が焼け野が原になった。だが、そこから不屈の精神で経済復興を成し遂げた日本だからこそ、国際社会で果たすことができる役割があるはずだ。世界的な軍縮や地域紛争の抑止といった平和構築のための活動への取り組みはまだまだ不十分である。

 戦後の政治体制の転換点になりうる衆院選が事実上始まっている。日本を取り巻く国内外の情勢は変化し、外交や安全保障の戦略を根本から議論すべき時期に来ている。

 過去の失敗を直視し、悲劇を繰り返さないための教訓を国のかじ取りに生かしていく。多くの戦没者の霊に報いる道はこれしかない。


 要するに、日本人戦没者に対する「戦後責任」として改憲を主張しているわけである。そして、どこにも書かれていないのだが、極めて日本的な暗黙の了解により、「日本を取り巻く国内外の情勢」が中国と北朝鮮の「脅威」を指すことは明らかだろう。もちろん産経の社説では両国の「脅威」が直接喧伝されている。


 国連安全保障理事会の警告を無視して核実験を続行し、弾道ミサイルを発射する北朝鮮はこれからも、国際規範を踏みにじっていくだろう。北が核爆弾の小型化技術獲得に成功した可能性について、米国防情報局幹部は今年3月、上院委で言及した。いずれ保持する核搭載ミサイルは日本に向けられる。日本はその備えを常時検証し、万全を期さねばならない。


 こうした論理は、極右化すれば「唯一の被爆国として、3度目の核攻撃を受けないために核武装すべきだ」(田母神俊雄)という核武装論にまで行き着くが、その根底にあると思われる衝動――すなわち、「戦争責任が問われるレベルで」、「被害者との関係ぬきに「われわれ日本人」の中だけで完結した戦争の記憶をつくる」(▼15)という欲望――を、リベラル・左派を含む日本人マジョリティが共有していたことは、90年代半ば頃から始まった、「慰安婦」問題に象徴される、他者からの戦後補償問題の提起に対するバックラッシュや、加藤典洋の『敗戦後論』(▼16)をめぐる「歴史主体論争」などからも明らかであると思う。

 リベラル・左派の多くは、「絶対的な無防備平和主義がまかり通ったのは、国家主権の行使を縛る憲法第9条によるといえる」という産経の認識には(表向き)同意しないかもしれない。けれども、例えば、衆参両院が北朝鮮への制裁強化――(在日)朝鮮人への人権弾圧――を求める非難決議を全会一致で採択し、リベラル・左派の多くがそれを容認している現状では、かれらが「国家主権の行使」を憲法第9条より優先していることは、もう疑いようがないのである。日本人の死者を追悼する一方で、関東大震災時に日本人が虐殺した朝鮮人の死者のことはろくに思い起こそうともしない(▼17)リベラル・左派が、「国益」論に適合的でないなどということがありえるだろうか。

 産経は、「≪同じ「日本丸」にいる≫」として、次のように述べる。


 ≪同じ「日本丸」にいる≫

 しかも問題の根本解決には党派を超えた枠組み作りが不可欠なのに、目前の利害と対決感情に身を置いてしまう。混乱と混迷からなかなか抜け出せない。激論、競争は民主主義を活性化させるが、行き過ぎては国益を損ねる。

 気付くべきは、同じ日本丸に乗り、運命を共にしているということだ。国家と国民の一体感を取り戻すことが、この国を救う。


 そして、この「日本丸」には今や沖縄も主要な乗員として乗り込んできているというわけだ。「党派を超えた枠組み作り」というのは、もちろん侵略ができる「普通の国」を志向する連立政権(あるいは大連立)のことだろう。リベラル・左派は、アジアの被害者からの問いかけに対する応答を(戦争責任・戦後責任のレベルで)避け続けている限り、日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲というバカげた論理に対抗することはできない(あるいは対抗せずに済む、と言うべきだろうか)。目的地が明らかである「日本丸」に乗りながら「護憲」を唱えるのは、あまりにも白々しい素人集団劇であると思う。

(次回に続く)


▼15 徐京植・高橋哲哉、『断絶の世紀 証言の時代―戦争の記憶をめぐる対話』、岩波書店、2000年、p.56

▼16 加藤典洋、『敗戦後論』、講談社、1997年

▼17 Googleニュースの検索結果などを参照。それにしても、「1923年(大正12年)9月1日の大震災直後、「朝鮮人が暴動を起こす」などのうわさが流れ、多くの朝鮮人が殺害されたと伝えられている」という、読売の記事は何なのか?日本人の加害/朝鮮人の被害に関する記述がすべて伝聞形である。一体どこまでふざけているのか。朝日にいたってはベタ記事すらないが。

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