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「サヨク」は「左翼」に立ち返れ URL 2010-07-20 (火) 22:03

>>侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。

>>「かくして、明治維新は、帝(みかど)の神々しい後光を中心として、忠義というわが国民宗教の偉大な再生たる愛国精神の火に燃えかがやいているのである」

魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

m_debugger URL 2010-07-21 (水) 22:53

>「サヨク」は「左翼」に立ち返れさん

>魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

竹内は論理も歴史認識も粗雑極まりないので、魯迅に代表される竹内の中国文学研究の質自体も本来なら問い直すべきだと思います。こちらは私の手に余るので、どなたかが取り上げてくださるとよいのですが。

ぽっぺん38 URL 2010-11-16 (火) 03:42

>魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

 私はまだまだ竹内好のことについては知らないのですが、ただ「「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということは、むしろ竹内好はとてもよく理解しているのではないかと思います。むしろこのエントリーとの絡みで、なぜ「竹内は~この事実に思い至らなかった」ということが言えるのかが疑問です。

m_debugger URL 2010-11-16 (火) 11:37

>ぽっぺん38さん
コメントありがとうございます。

>「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということは、むしろ竹内好はとてもよく理解しているのではないかと思います。むしろこのエントリーとの絡みで、なぜ「竹内は~この事実に思い至らなかった」ということが言えるのかが疑問です。

竹内好は中国侵略戦争に兵士として参加していたので、前者に関してはそう言えるかもしれませんね。このエントリーとの絡みで私なりに答えるなら、竹内が中国侵略戦争に主体的に参加した自己の責任を公的に(おそらく私的にも)総括しなかった以上、竹内は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということを一般論としては認めていたかもしれませんが、自らの侵略責任をめぐる個的な事実としては決して受け入れていなかった、と言えるのではないでしょうか。まさに「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということを一般論としてしか認められなかったであろう点が、竹内の限界であり、欺瞞であり、中国民衆に対する侮辱的な意識の反映であったと私は思います。

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Home > スポンサー広告 > 「アジア主義」再評価論批判②――竹内好のDV史観

「アジア主義」再評価論批判②――竹内好のDV史観

 さて、「論壇」(の一部)にはびこる「アジア主義」再評価のトレンドを効率的に叩くためには、同じく近年再評価が進んでいる別の人物に対する批判から始めるのがよいだろう。竹内好である。

 竹内は「日本人のアジア観」(『竹内好評論集 第三巻 日本とアジア』、筑摩書房、1966年)で次のように述べている(強調は引用者による。以下同様)。


 朝鮮の国家を滅ぼし、中国の主権を侵す乱暴はあったが、ともかく日本は、過去七十年間、アジアとともに生きてきた。そこには朝鮮や中国との関連なしには生きられないという自覚が働いていた。侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。(竹内好、『日本とアジア』、ちくま学芸文庫、1993年、p.95)


 私はこの文章を初めて読んだとき、右派の歴史観に対して感じるよりも遥かに切実な嫌悪が込み上げるのを抑えることができなかった。竹内の歴史観は、端的に言ってDV史観とでも呼ぶべき代物である、と私は思う。言うまでもない(と思いたい)が、侵略は連帯に入らないのである。

 「レイプはよくないことだが、しかしレイプには、愛情のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。

 もし、レイプ犯がこんな性根をさらけ出せば、たちまち社会的な非難が殺到すること請け合いだが、「兵士として、そして「日本文学報国会」に所属する文筆者として、アジア太平洋侵略を主体的におこなっていた」竹内がDV史観を公言しても、たいして批判を受けないどころか、いまだに竹内を持ち上げる人々が後を絶たないのであった(その筆頭が丸川哲史だろう)。

 さて、竹内は同論文で以下のように岡倉天心を「弁護」している。


 大東亜戦争の最中に、大東亜共栄圏というシンボルを操作するために岡倉天心の「アジアは一つ」ということばがよく利用された。そのため天心は、まるで日本帝国主義の賛美者であるような印象を与えられて、戦後その名は埋もれてしまった。これなども、大東亜戦争が、日本の近代化と並行してあった興亜と脱亜のからみあいの産物だったことをよく示している。「アジアは一つ」というのは、天心の最初の英文の著書『東洋の理想』(一九〇三年刊)の書出しの一句である。いま改めてこの本を読みなおしてみると、天心の真意は、帝国主義を賛美しているのでもなければ、日本にお山の大将になれと勧めているのでもないことがわかる。

 現状では汚辱にみちているアジアが、本性の自覚に立ちもどることによって、力の信仰を基礎とする西洋文明の欠陥を救う日が来るのを待ちのぞむ、というのが彼の真意である。そのアジアの本性とは美であり、天心はこの美の発掘を、日本と中国とインドについて試みているのだ。〔中略〕

 天心の真意をねじまげて、侵略に利用した日本軍部は、津田〔左右吉〕の学問をも暴力で葬ろうとした。しかし、それによって日本軍部は、冷静なアジア認識の目をくもらせ、同時に高邁なアジアの理想も失った。(pp.101-103)


 岡倉が現代日本の歴史修正主義者と変わらない「論理」で日本の朝鮮侵略を正当化しており、「日本のシオニスト」とも呼ぶべき人物である(控えめに言っても帝国主義に大変融和的である)ということは、前回紹介した岡倉の著書『日本の目覚め』を普通に読みさえすれば、否定しがたいことだろう。ところが、竹内はそうした岡倉評価は「誤解」であるとして、その根拠に岡倉の別の著書『東洋の理想』を持ち出してきているのである。

 とすると、直ちに次の疑問が湧いてくる。

(1)仮に、ある人物X(岡倉天心)が帝国主義的な主張A(「日本の目覚め」)と非帝国主義的な主張B(「東洋の理想」)をしており、どちらの主張も取り下げていない場合、Xの思想は非帝国主義的であると言えるのか?

(2)そもそも、X(岡倉天心)の主張B(「東洋の理想」)は非帝国主義的であると言えるのか?

 まず(1)から考えてみよう。<佐藤優現象>にどっぷり漬かっているリベラル・左派なら「YES」と答えるのかもしれないが、もちろん正解は「NO」である。この点は説明するのも気が引けるほど自明なことだと思うのだが、竹内の岡倉評価にせよ、丸川らの竹内評価にせよ、リベラル・左派の佐藤評価にせよ、この自明性を無視することによってのみ成り立っているように私には思われる(▼3)

 では次に(2)だが、実はこれも「NO」である。ZEDさんが要約されているように、『東洋の理想』には「イスラム、儒教、インド哲学、日本的思考が同じ民族圏に該当し、「しかしながら、この複雑の中なる統一を特に明白に実現することは日本の偉大なる特権であった」としてその根拠は万世一系の皇室がおわすからだ」ということが書かれており、例によって朝鮮半島が「元来日本の領土」であったという荒唐無稽な歴史観が繰り広げられている(引用部の旧字体は新字体に改めた。以下同様)。

 「武勇に富む神功皇后の心を燃え立たせ、彼女をして敢然海を渡り、大陸帝国をものともせず、朝鮮にある朝貢諸国の保護に赴かしめたものも、この意識〔「われわれの民族の誇りと有機的統一体」〕であった。権勢をほしいままにする隋(ずい)の煬帝(ようだい)を、「日没する国の天子」と呼んでこれを瞠若(どうじゃく)たらしめたものもこれであった。やがてウラルの山脈を越えてモスコーに達すべき勝利と征服の絶頂にあったクビライ汗(かん)の、傲慢な脅迫を退けて動じなかったものも、これであった。そして、日本自身にとって決して忘れてはならないことは、今日日本が新しい問題に直面しているのは、この同じ英雄的精神のしからしめるところであって、これらの問題に対しては、日本はさらに自尊の念を深くする必要があるということである。」(「東洋の理想」、『岡倉天心集』、筑摩書房、1968年、p.10)

 ところで、竹内は、岡倉の「東洋の理想」を収録した編著『アジア主義』(筑摩書房、1963年)においても、同様の岡倉弁護を展開している。


 この「アジアは一つ」という命題は、のちに日本ファシズムによって『大東合邦論』におとらず悪用された。天心が「アジアは一つ」と言ったのは、汚辱にみちたアジアが本性に立ちもどる姿をロマンチックに「理想」として述べたわけだから、これを帝国主義の賛美と解するのは、まったく原意を逆立ちさせている。〔中略〕

 『東洋の理想』は、イギリスのインド研究者ニヴェディタ女史の序文をつけて、一九〇三年にロンドンで出版された。その内容構成は次のとおり。(ここには総論部分と終章を収録した。全文は『現代日本文学全集』第五十一巻、筑摩書房刊にある)

 (1)理想の範囲 (2)日本の原始芸術 (3)儒教――北方中国 (4)老荘思想と道教――南方中国 (5)仏教とインド芸術 (6)飛鳥時代(五五〇年~七〇〇年) (7)奈良時代(七〇〇年~八〇〇年) (8)平安時代(八〇〇年~九〇〇年) (9)藤原時代(九〇〇年~一二〇〇年) (10)鎌倉時代(一二〇〇年~一四〇〇年) (11)足利時代(一四〇〇年~一六〇〇年) (12)豊臣および初期徳川時代(一六〇〇年~一七〇〇年) (13)後期徳川時代(一七〇〇年~一八五〇年) (14)明治時代(一八五〇年~現在) (15)展望(「アジア主義の展望」、『アジア主義』、筑摩書房、1963年、pp.43-44)

 
 樽井藤吉の『大東合邦論』が「日本ファシズムによって」「悪用された」という点については後ほど批判的に検討するが、重要なのは、竹内が同書に収録しなかった6章から14章に何が書かれているのか、ということである。結論から言えば、岡倉はこの部分で天皇制をひたすら絶賛しまくっているのであった。気が滅入るが、いくつか紹介してみよう。

 「日本の国民生活は、永劫(えいごう)の昔から連綿と途切れなき万系一斉の皇統の光輝がその上を純一無垢(むく)に覆っている高御座(たかみくら)を中心としている。」(「東洋の理想」、『岡倉天心集』、筑摩書房、1968年、p.51)

 「国民宗教に於けるこの要素〔「仏教渡来以前の日本に存在していた先祖崇拝の純粋な形式」〕は、常にその中心を、神の後裔(こうえい)としての天皇の御人格に置くものである。その〔神道の〕復興は、したがって、常に愛国的自覚の増大を意味するものでなければならない。」(p.52)

 「孝明天皇――今上陛下の御父君で、日本が今日の偉大さの多くをその先見の明に富まれた御眼識に負うている方――がお作りになられた、短いが意味深い御歌がある。すなわち、「みなひとの心のかぎりをつくしてし後にぞたのめ伊勢の神風」というのであって、まことにわが国民の自らを頼む(たのむ)雄々しさにみちた御製である。」(p.52)

 「かくして、明治維新は、帝(みかど)の神々しい後光を中心として、忠義というわが国民宗教の偉大な再生たる愛国精神の火に燃えかがやいているのである。〔中略〕かくして、高きも低きも、国民を感奮させた偉大な新しい活力の中でひとつとなり、軍隊に徴せられたもっとも賤(いや)しい兵も、さむらいのように、死を栄誉としたのであった。

 政治上の抗争――一八九二年に帝王から大らかに下賜された立憲政治(実は、一八八九年帝国憲法発布、一八九〇年帝国議会開設)の自然にして不自然な子ども――にもかかわらず、玉座からの一言は、なおも政府と反対党とを和解せしめ、両者のもっともはげしい意見対立の時でさえ、双方とも恭々(うやうや)しく沈黙して畏(おそ)れかしこむのである。

 学校で教える日本倫理のかなめ石をなす道徳の法典は、他のすべての提案が、要望されていた一切を包む敬恭(けいきょう)の調子を打ち出すことができないでいた時、勅語(教育勅語)によって与えられたのであった。」(p.53)

 ・・・・・・と、まあこれは一部にすぎないのだが、岡倉が神がかり的な天皇主義者であり、日本民衆の天皇(制)への屈服と、天皇(制)によるアジア侵略への動員・統合を促進するイデオローグであると言って差し支えないことは、これでおわかりいただけるのではないかと思う。さらに追い討ちをかけておこう。

 「日清戦争は、東方の海上に於けるわが国の優位を明らかにし、しかも、われわれを相互の友愛に於ていっそう密接に近づけたものであったが、この戦争は、一世紀半にわたって自己を発現しようとつとめていた新しい国民的活気の自然の結果であった。それはまた、この時代の元老政治家たちの非凡な洞察によって、そのあらゆる方面にわたって予見されていたもので、今日、新しいアジアの強国としてのわれわれを待っている大いなる問題と責任とにわれわれを目覚めしめるものである。われわれ自身の過去の理想に帰るというだけでなく、古いアジア統一体の眠れる生命に触れてこれを甦(よみがえ)らすということが、われわれの使命となる。」(p.55)

 岡倉によれば、日本帝国主義者による朝鮮・中国侵略戦争は、「わが国の優位を明らかにし、しかも、われわれを相互の友愛に於ていっそう密接に近づけたもの」であり、天皇制国家における「国民的活気の自然の結果であった」のだという。

 前出の問いに戻ろう。

(2)そもそも、X(岡倉天心)の主張B(「東洋の理想」)は非帝国主義的であると言えるのか?

 答えは無論「NO」である。これまで見てきたように、岡倉の「アジア主義」が非帝国主義的である(どころか反帝国主義的でさえある)かのように読者に錯覚させようとする竹内の詭弁は、読者を原典から遠ざけることによって初めて成立するものである、と言える。竹内の言葉を借りて言えば、「天心の真意をねじまげて」「アジア主義」再評価論に「悪用」しているのは、竹内自身に他ならないのではないだろうか。竹内の歴史認識と「論理」がいかに私たちを愚弄するものであるかについては、次回も引き続き考えていこう。


▼3 そもそも、竹内の言説にはあまり論理性というものが存在しないように思う。試しに同論文から二箇所だけ拾ってみよう。


 たしかに大東亜戦争という呼び名の復活は、危険な兆候ではある。しかしその危険は、回避するのでなくて、まともに取り組むことによって克服しなければならぬものだ。(p.93)


 周知のように、竹内こそが「大東亜戦争という呼び名の復活」に加担した主要な言論人の一人であり、竹内自身、同論文を執筆した1963年(共同通信記事への掲載は1964年)に、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」、と感想をのべていた(「中国問題についての私的な感想」、『世界』一九六三年六月)。竹内は、「危険は、回避するのでなくて、まともに取り組むことによって克服しなければならぬものだ」という弁明をあらかじめ用意した上で、「チャンコロ時代」を「まともに」「なつかし」む侵略者の嗜みを生涯捨てようとはしなかった、と言えるだろう。


 私は林房雄氏のように、大東亜戦争を全的に肯定するのは賛成できない。林氏の論もまた、戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はあると思うが、しかし、大東亜戦争の侵略的側面はどんなに強弁しても否定できぬと思う。ただ、侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊まで流してしまわないかをおそれる。それでは日本人はいつまでたっても目的喪失感を回復できないからだ。
(pp.95-96)


 「大東亜戦争」全面肯定論が「戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」という「論理」は、人権や正義といった「普遍的」価値について、少しでもまともに物を考えたことのある人間には、到底首肯できないのではないだろうか。ここで竹内が言っているのは、突き詰めれば、歴史修正主義は「(「自虐史観」が蔓延する)戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」ということだと思う。竹内が反動に「存在意味」を見出しているのは、結局のところ「戦後の風潮」(として竹内が捉えているもの)に対する竹内自身の反発のためではないのか(例えば、バックラッシュは「戦後の風潮への一反動なので、それなりに存在意味はある」と述べる人物が、「戦後の風潮」とフェミニズムの関係をどのように認識しているかを考えてみればよくわかる)。

 「侵略を憎むあまり、侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定する」限り、「日本人はいつまでたっても目的喪失感を回復できない」(「レイプを憎むあまり、レイプという形を通じてあらわされている愛情までを否定する」限り、「僕はいつまでたっても目的喪失感を回復できない」)という気色の悪い言い分にも心底うんざりさせられる。「目的」自体が間違っていた(いる)ことをいい加減認めろ!と言いたいが、これまた周知のように、竹内はそのことを死ぬまで認め(ようとし)なかった。

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「サヨク」は「左翼」に立ち返れ URL 2010-07-20 (火) 22:03

>>侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。

>>「かくして、明治維新は、帝(みかど)の神々しい後光を中心として、忠義というわが国民宗教の偉大な再生たる愛国精神の火に燃えかがやいているのである」

魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

m_debugger URL 2010-07-21 (水) 22:53

>「サヨク」は「左翼」に立ち返れさん

>魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

竹内は論理も歴史認識も粗雑極まりないので、魯迅に代表される竹内の中国文学研究の質自体も本来なら問い直すべきだと思います。こちらは私の手に余るので、どなたかが取り上げてくださるとよいのですが。

ぽっぺん38 URL 2010-11-16 (火) 03:42

>魯迅は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」と喝破しましたが、近代以降の日本人にもピッタリ当てはまりますね。竹内は魯迅の研究家であったにも関わらず、この事実に思い至らなかったようですね。

 私はまだまだ竹内好のことについては知らないのですが、ただ「「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということは、むしろ竹内好はとてもよく理解しているのではないかと思います。むしろこのエントリーとの絡みで、なぜ「竹内は~この事実に思い至らなかった」ということが言えるのかが疑問です。

m_debugger URL 2010-11-16 (火) 11:37

>ぽっぺん38さん
コメントありがとうございます。

>「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということは、むしろ竹内好はとてもよく理解しているのではないかと思います。むしろこのエントリーとの絡みで、なぜ「竹内は~この事実に思い至らなかった」ということが言えるのかが疑問です。

竹内好は中国侵略戦争に兵士として参加していたので、前者に関してはそう言えるかもしれませんね。このエントリーとの絡みで私なりに答えるなら、竹内が中国侵略戦争に主体的に参加した自己の責任を公的に(おそらく私的にも)総括しなかった以上、竹内は「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということを一般論としては認めていたかもしれませんが、自らの侵略責任をめぐる個的な事実としては決して受け入れていなかった、と言えるのではないでしょうか。まさに「暴君治下の臣民は、大抵彼よりも暴である」ということを一般論としてしか認められなかったであろう点が、竹内の限界であり、欺瞞であり、中国民衆に対する侮辱的な意識の反映であったと私は思います。

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