スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments:-

Comment Form

Trackback+Pingback:-

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/11-112f301e
Listed below are links to weblogs that reference
スポンサーサイト from media debugger

Home > スポンサー広告 > 64年目の8.15 (5)

64年目の8.15 (5)

■目次
(1) はじめに
(2) 「平和国家」日本が欲する「第二の靖国」(読売)
(3) 「戦争のリアリティー」を語る立場の占領(朝日)
(4) 戦後責任から「エコ」への逃走(毎日)
(5) 日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲(日経・産経)
(6) 日本人は誰に対して憲法9条を負っているのか(東京)
(7) おわりに

(6) 日本人は誰に対して憲法9条を負っているのか(東京)

 東京新聞:「終戦の日に考える 九条とビルマの竪琴」
 http://blog.goo.ne.jp/freddie19/e/e619e152cd8321ec52f35d7891d25392

(6-1) リベラル・左派の内なる日本人原理主義

 最後は東京の社説である。前述のように、六紙中で唯一護憲を掲げる社説であるが、これを見て、東京はさすがだ、やはりゴミ売りやブル新やヘンタイとは違う、などと評価している読者がいるとすれば、それはあまりにも楽観的な誤解であると思う。むしろ、護憲/反改憲の立場に立つ者として、最も批判的に読む必要に迫られるのが、この東京の社説である、と言ってよいかもしれない。

 社説は、松林要樹監督によるドキュメンタリ映画「花と兵隊」(今村昌平監督の「未帰還兵」シリーズの続編)の紹介で始まる。未見なので批評はできない(公式サイトを見る限り、あまり観に行く気はしない)が、次のような内容の作品である。


 取材と撮影に三年、映画に登場する未帰還兵は六人。うち三人は今村作品にも登場した人物で、今は全員が九十歳前後。シンガポール攻防戦やインパール作戦参加兵だった点が意味をもってきます。

 補給無視での大量の餓死、傷病者ばかりではありません。抗日系華僑の大量虐殺や士気鼓舞のため英兵の生肉を食用にすることが強要されたりなど人道上も大きな問題が残された戦線で、それが兵士の生涯に深刻な影を落としていくことになるからです。


 ここまではまあよいとしよう。私が愕然としたのは、以下のレビューの部分である(強調は引用者による。以下同様)。


 映画は淡々としたテンポで進みますが、やがて未帰還兵の頑(かたく)なな沈黙やたたきつける言葉の断片が観客を凍らせます。「戦友というものはつまらない。それがいやになった」「鉄砲で撃つだけが戦場ではないんだ。食い合うだよ」

 言葉より、表情、手ぶり身ぶりが多くの苦悩を語ります。ドキュメンタリーの問いが祖国に還(かえ)らない理由にあるとしたら「地獄の体験者は人間界に戻れない」と答えているかのようでした。


 なんとビルマは「人間界」ではなかった!!!!!!!!!!のである。どうやら私たちは何か途轍もないパラダイムシフトに巻き込まれているらしい。しかも、未帰還兵はビルマだけでなく、アジア・太平洋全域にいる(いた)のだから、端的に言って、日本=「人間界」、(日本を除く)アジア・太平洋地域=非「人間界」という図式が成り立つことになる!!!(ry

 ・・・・・・あまりのレイシズムにもはや言葉を失うばかりだが、上記の文章については、もう一つのことも指摘しないわけにいかない。それは、「ドキュメンタリーの問いが祖国に還(かえ)らない理由にあるとしたら」という問いに含まれる前提である。「花と兵隊」公式サイトのイントロダクションには、「もうひとつの「戦後」の記録――なぜ彼らは日本に還らなかったのか?」とあるので、「ドキュメンタリーの問いが祖国に還(かえ)らない理由にあるとしたら」という仮定が正しいことは、おそらく間違いないだろう。問題は、元日本兵は日本に帰還するのが当然であるとする、問いの前提になっている価値観であると思う。

 元日本兵は日本に帰還するのが当然であるという認識は、日本人は日本で生きるのが当然であるという価値観から導き出されるものだろう。さらに、日本人は日本で生きるのが当然であるという価値観は、日本は日本人の国であるという価値観と、同じではないにせよ極めて親和性が高い、と言って差し支えないだろう。そして、日本は日本人の国であるという価値観と、外国人を排除しようとするレイシズムは、実質的に同じものであると見なすことができるだろう。もう少し言うと、日本は日本人の国であるという価値観は、戦後の日本国家において、在日外国人に対して厳格な管理体制を敷いて排除する、制度的・社会的差別を絶えず再生産しているだけでなく、大日本帝国において、植民地支配下の朝鮮人や台湾人を「皇民化」しようとした、同化政策を支える基本的な価値観とさえまったく切断されていないと言える。

 こうした日本人のレイシズムは、『マンガ嫌韓流』や「在日特権を許さない市民の会」に、その最終形態を見ることができる(もっとも、今後さらに深化しない保証はない)が、上の社説子の認識は、そのせいぜい数段階手前にあるにすぎないのではないだろうか。ネットで調べた範囲では、この社説をレイシズムと見なす批判は見つからなかったので、リベラル・左派の多くも、レイシスト・ランキング的に東京新聞と近い場所にいるのだろう。ちなみに、かれらと、『マンガ嫌韓流』・「在日特権を許さない市民の会」との間にある、否定しがたい連続性は、私が日本人原理主義(▼18)と呼ぶものである。


(6-2) 日本人は誰に対して憲法9条を負っているのか

 では、東京が掲げる護憲論とはどのようなものなのだろうか?それが簡潔に示されているのが、以下の段落である。


 国が滅びた昭和の戦争で三百十万人の日本人が命を失いました。その一人ひとりへの鎮魂、悔恨や懺悔(ざんげ)、謝罪と贖罪(しょくざい)の念が込められての憲法九条。その平和主義が戦後日本の国是となり、アジア諸国への約束となったのは当然の国民の合意でした。人口の四分の三が戦後生まれとなった今もこれからも、引き継がれるべき忘れてはならない歴史です。


 これは、一見すると、(5)で述べた、日本人戦没者への「戦後責任」としての改憲(日経・産経)に対峙する護憲論のように思われるが、それはおそらく幻想にすぎないだろう。なぜなら、日本人が憲法9条を負っているのは、日本人戦没者に対してではなく、日本の植民地支配・侵略戦争の被害者であるアジアの民衆に対してだからである。

 まず、その前提として、憲法9条は日本の敗戦によって生まれた、ということを確認しておこう。これは、日本人が9条を押しつけられたという立場を取るにせよ、日本人が9条を主体的に獲得したという立場を取るにせよ、決して無視できない歴史的事実だろう。次に、まったくもってありえない想定なのだが、日本の植民地支配・侵略戦争で日本人が誰一人死なないまま、日本が(なぜか)敗北したと仮定しよう。このとき敗戦後に憲法9条は生まれていただろうか?私は必ず生まれていただろうと思う。なぜなら、自国民に一人の死者を出すこともなく、2000万人ものアジアの民衆を殺戮した国家に軍事力を持たせるわけにいかないことは、(日本人以外の)誰にとっても自明の理であるからだ。

 これは単純すぎる極論かもしれないが、日本人がアジアの民衆(死者であれ生者であれ)に対してこそ憲法9条を負っていることを確認する思考実験にはなるだろう。思うに、日本国民は法的には憲法9条を破棄する権利を持っているのかもしれないが、道義的にはそのような権利は有していないのである。憲法9条は、「永久にこれを放棄する」ことが許されない、アジアに対して取り続けるべき戦争責任の一つである、と私は考える。

 一方、東京の護憲論は、日本人の死者を特権化する点で、実は日経や産経の改憲論と論理を共有している。日本人がまず自国の死者に対して9条を負うとする考え方からは、日本人が主体的に(国民投票によって)9条を破棄し、(自国民にほとんど死者を出さない)「侵略ができる普通の国」を志向することを有効に批判しうる論拠は見出せないように思う。


 現実は理念を裏切ります。「核なき世界」を表明したオバマ米大統領のプラハ演説にも感動と冷笑が交錯します。北朝鮮で核実験、イラク、アフガニスタンの戦火も消えてはいません。しかし、現実の困難をふまえての一歩に希望と未来が見えます。


 何度でも繰り返すが、オバマのプラハ演説は、あんなものに感動する方がおかしいのである。オバマの演説に感動するのは、大日本帝国発案の「人種平等案」(▼19)に感涙するようなものだ(つまり、日本人はわりと感動してしまうだろうということでもあるが)。私はオバマの演説に対して感動も冷笑もしようと思わないが、東京新聞の社説にはある意味感動している。レイシストでオバマジョリティな護憲論は、つくづく徹底的に叩かなければならない。

 私の闇の奥:「オバマ大統領は本当に反核か?」
 http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2009/04/post_ddd0.html

 さらに言えば、イラクとアフガニスタンの戦火はオバマが煽っているのだし、北朝鮮の体制を規定する最大の要因は、どう考えても、日本の植民地支配がもたらした朝鮮半島の分断化による東アジアの冷戦構造である。東京新聞は「希望と未来」とやらを見ようとする前に、まずは鏡で自らの姿を直視するべきではないのか。

(次回に続く)


▼18 日本のように血統主義や同化主義を貫徹している国家における国民主義。日本人原理主義の具体例については以前のエントリーを参照。

▼19 「ここでいう「人種平等案」とはどんなものか、それを提出した日本政府の意図はなにか。
 「人種平等案」とは、一九一九(大正八)年二月十三日、日本の講和全権委員、牧野伸顕が、国際連盟規約委員会で「人種的差別撤廃ニ関シ提案」したことを指している。その提案は、

 各国民均等ノ主義ハ国際連盟ノ基本的綱領ナルニ依リ締約国ハ成ルヘク速ニ連盟員タル国家ニ於ケル一切ノ外国人ニ対シ如何ナル点ニ付テモ均等公正ノ待遇ヲ与ヘ人種或ハ国籍如何ニ依リ法律上或ハ事実上何等差別ヲ設ケサルコトヲ約ス。(『日本外交文書、巴里講和会議経過概要』[大正期第二十二冊]、五三項)

というものであった。しかし、この条文を含む第二十一条は多数決で削除された。
 この提案は日本が世界にさきがけて、世界のあらゆる人種差別に反対したというようなものだろうか。

 国際連盟ニ付具体的提案成立スヘキ形勢ヲ見ルニ至ラハ人種的偏見ヨリ生スルコト有ルヘキ帝国ノ不利ヲ除去セムカ為事情ノ許ス限リ適当ナル保障ノ方法ヲ講スルニ努ムヘキ旨予テ訓令ノ次第アリタル処……(「講和ニ対スル方針」中、米国大統領ノ発案ニ係ル講和諸条件ニ関スル件、大正七年十一月十九日外交調査会決定参照、同右、四九~五〇項、傍点中塚)

といわれているように、最大の目的は「帝国(日本―中塚)ノ不利ヲ除去セムカ為」であったのである。」

 「この日本政府の提案が「植民地主義」に反対するものとは、似ても似つかないものであることは、ベルサイユ講和会議の最中にすぐに明らかになった。日本政府の提案のあとまもなく、五月十日に、三・一独立運動の真只中から、ベルサイユ講和会議に訪れた朝鮮人の「独立陳情」を、日本政府が一蹴したのである。」(傍点は太字に変更した)(中塚明、『近代日本の朝鮮認識』、研文選書、1993年、pp.31-33)

Comments:0

Comment Form

Trackback+Pingback:0

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/11-112f301e
Listed below are links to weblogs that reference
64年目の8.15 (5) from media debugger

Home > 侵略責任 > 64年目の8.15 (5)

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。