「尖閣諸島=釣魚諸島の歴史的経緯は?」、
「続:尖閣諸島=釣魚諸島の歴史的経緯は?」に続いて、尖閣=釣魚島(Diaoyu Dao)をめぐる左派の諸言説を批判する。というか、これらはもうほとんど片っ端から批判していきたいくらいであり
(▼1)、昨日中国で展開された「反日デモ」も、単に日本の極右による「緊急国民行動」に対抗する一時的な動きとしてではなく、左派を含む「オール・ジャパン」現象(要するに日本の右傾化)に対する根底的な異議表明として捉えるべきだと思う。
とはいえ、いくらなんでも左派の諸言説をあらかた批判している余裕はないので、ここでは以下の三氏の言説を取り上げることにする。
(1)
浅井基文「日中関係への視点」 (2)
前田朗「尖閣諸島問題の基本文献について」 (3)
目取真俊「中国漁船の船長釈放について」 この三氏をことさら選んだ理由は、上記の言説が、
<佐藤優現象>に疎遠あるいは批判的な人々でさえ、尖閣=釣魚島をめぐる「オール・ジャパン」現象に併呑されつつあるのではないか、という私の危惧を、とりわけ端的に示していると思えるからである。同じ理由から、『週刊金曜日』や『世界』などの<佐藤優現象>推進メディアにおける「オール・ジャパン」な論調については、ここでは今さら扱わない
(▼2)。
(1)浅井基文「日中関係への視点」 浅井基文氏は、今回の事件についてコラムで継続的に発言されている。
21世紀の日本と国際社会:
「日中関係への視点-中国漁船船長の釈放-」、
「日中関係への視点(2)-中国漁船問題とアメリカ-」、
「日中関係への視点(3)-尖閣問題と日本共産党-」、
「日中関係への視点(4)-アメリカのドライさの確認-」、
「日中関係への視点(5)-尖閣問題に関する中国の立場-」 特に尖閣=釣魚島をめぐる中国政府の主張の仔細については、私自身の力量不足のため、このブログで触れることができなかったので、中国側の基本文献の翻訳紹介を含む(5)の「尖閣問題に関する中国の立場」は、ぜひご一読をお勧めしたい。
とはいえ、尖閣=釣魚島の歴史的経緯にこれほど詳細に言及しながら、その結論として、日中の両国民は「理性的に物事を考えるまでに成熟」し、「領土問題で争うことのばからしさを認識するようになる」べきだと説く、浅井氏の主張は、私には正直とても受け入れがたいと言わざるを得ない。
日本の侵略責任がまさに問われるべき問題を、二国間のナショナリズムの対立として矮小化し、それらを「非理性的」なものとして「対等」に切り捨ててしまう、こうした論理は、浅井氏の主観的意図がどうあれ、結局は朴裕河的な「和解論」に回収されていくのではないか。
浅井氏は記事(5)で、「私が中国側の見解、立場を比較的詳しく紹介しようと思い立ったのは、日本国内における私たちの議論が他者感覚を備えない、天動説的な議論に陥っていると思ったからです」、「私たちが尖閣問題を考え、論じる際には、中国側の主張、論点を踏まえることから始めるのは最低限の責任ある態度ではないでしょうか」として、日本国内の異常な中国バッシングをたしなめつつ、一方で中国政府の主張にも「露骨な天動説が垣間見られる」として、結局は中国側にも苦言を呈されている(もっとも、浅井氏が何を指して中国側の「露骨な天動説」と言われているのかは、私にはあまりはっきりしないのだが)。
いずれにせよ、浅井氏の議論の問題点は、浅井氏の日本ナショナリズム批判が、あくまで「中国側の見解、立場」や「中国側の主張、論点」に対して一定程度配慮するべきという相対主義的なもの、あるいはナショナリズムを総じて
「20世紀までの」「歴史的遺物」と断罪する本質主義的な視点からのものに留まっており、反侵略という「普遍的」見地からの批判が弱いことにあると思う。もちろん、こうした傾向は日本の左派に顕著なものであり、浅井氏は相対的には良心的な議論をされているとも思うが、そうであれば一層、
浅井氏の相対主義的・本質主義的な日本ナショナリズム批判が、帝国主義的・植民地主義的な日本ナショナリズムをかえって温存させてしまう危険性について、見過ごすわけにはいかないだろう。
日本国民も中国国民もお互いの立場を理解して歩み寄れば、民衆レベルでの日中友好が実現する、といった類の一般論(日本人と在日朝鮮人の関係にも応用可)は、
たとえ理解するべき「お互いの立場」に歴史的経緯を含むとしても、結局は歴史を軽視・無化する方向に作用する。浅井氏の主張の結論部分が、「尖閣諸島は日本の領土」であると断じる
毛利正道氏の見解の結論部分とほとんど変わらないことからもわかるように、
今や左派は、問題の歴史的経緯にどこまで踏み込むかに関わらず、ほぼ似たような論理に帰着するという事態が珍しくないほどに、本格的に自壊しているのではないだろうか
(▼3)。つまり、
左派にとって、日本のアジア侵略の歴史の重みが、(反侵略という「普遍的」立場からすれば)耐えられないほど軽くなっているのである。
【10/18 補足】少々わかりにくかったので補足すると、私の言う「毛利正道氏の見解の結論部分」とは、「中国に「日本領有」が理解されるか」の結論部分4――「歴代日本政府が述べているような「領土問題は存在していない」との態度ではなく、領土問題についても中国側と真摯に協議していく姿勢が日本政府に求められる。内容としての解決策として、国境の価値が薄れゆく後の世代までは、実質棚上げにして共同で管理していくことも選択肢に入れるべきではないか」――である。
浅井氏は記事(3)で次のように主張されている。
私自身は外務省にいるときから、尖閣(釣魚)問題だけでなく、千島問題も竹島(独島)問題も含め、日本としては国際司法裁判所(ICJ)に付託して解決を求める立場を明らかにし、中国、ロシア及び韓国に正式に提案するべきだと思ってきましたし、いまもその意見に変わりがありません。ICJの場で、日本政府の立場を堂々と展開し、判断を国際司法に委ねるということが、日本を含めた各国の偏狭なナショナリズムの暴走を抑え、すべての当事国が納得して結果を受け入れる最善の道筋だと確信します。また、そういう姿勢・政策こそが国際的な支持を期待できる所以でしょう。
つまりは、「日本政府の立場を堂々と展開し」て、それに対する「国際的な支持」を取りつけることの戦略的重要性(日本政府の主張が世界に向けて「堂々と展開」するに足るものであるという前提)を、浅井氏自身も疑っていないわけである。こうした浅井氏の言説が、「オール・ジャパン」現象への有効な歯止めにならないことは明らかだろう。それにしても、浅井氏が尖閣=釣魚島の歴史的経緯をほぼ正確に踏まえた上でなお、日本による尖閣=釣魚島の「実効支配」が不当であるとは考えていないらしいこと
(▼4)には、率直に言って、なんとも気の滅入る思いがする。「侵略はよくないことである」ということを、それを知っているはずの人々に対して、私は一から説明するべきなのだろうか?
●追記1 もう一点、記事(5)で特に気になったのは、以下の箇所である。
とにかく、国際関係では双方の合意づく、納得づくで物事を進めるということは最低限のルールであり、マナーです。その最低限さえ守ろうとしない日本側の対応では、中国国内で大衆感情が激発するとしても、中国政府としては無理矢理押さえ込みようがないし、そういう大衆感情の動きを測りながら事態が収拾つかない状況に追い込まれないように舵取りを余儀なくされる中国の指導者も大変だろうと、私は若干同情せざるを得ません。
「「中国的民主」についての所感 」と合わせて読むと、より鮮明になるが、浅井氏の議論の特徴の一つは、中国政府の内政および外交政策の合理性を極めて高く評価する点にあると思う。もちろん、私も浅井氏の分析から学ぶことは多いのだが、尖閣=釣魚島に関する一連の記事を読んでいるうちに、中国政府に対する浅井氏の好意的評価は、中国政府の親日ぶりによる部分が大きいのではないか、と思うようになった。これは邪推かもしれないが、実際問題として、中国の政治体制が民衆の意思をより強く代弁するものであれば、「和解論」じみた浅井氏の言説は、当の中国政府によって批判されることになりかねず、浅井氏が今のような形で中国政府を「擁護」することは難しくなるだろうと思われる。
中国民衆の「反日」は、中国の民主化と「オール・ジャパン」現象の激化に伴って強まっていくだろうから、日本国内の今後の論調としては、左右の合作による中国批判に加えて、左派の一部が、民衆とは違って大いに親日的である中国政府を戦略的に擁護する、という対立構図が顕在化するかもしれない。これは、かつて日本の左派が韓国の民主化を支援した際とは一部逆にも見える構図だが、いずれも日本の侵略責任を極小化し、日中双方のラディカルな民主化を歓迎しないという点で、左右の、あるいは左派内部における、見かけ上の対抗軸はあらかじめ融解している、と私は思う。
●追記2 このエントリーを書き終わった後に、「ヘイトスピーチに反対する会」の記事を読んだので、紹介しておきたい。前編は私よりもずっと懇切丁寧に歴史的経緯を説明しており、後編は一部先を越された感があり、大変ありがたい記事である。
ヘイトスピーチに反対する会:
「釣魚台/尖閣をめぐる日本の国ぐるみの排外主義に抗議します・前編(歴史編)」、
「釣魚台/尖閣をめぐる日本の国ぐるみの排外主義に抗議します・後編(現状編)」 ▼1 中には今回の事件を「食料自給の大切さ」を学ぶ教訓にするべきだという、「高度国防国家」体制への待望論じみた主張まである。
そりゃおかしいゼ:「レアーアースに学ぶ食料問題」
http://okaiken.blog.ocn.ne.jp/060607/2010/10/post_efe2.html▼2 それでは物足りないという方は、本多勝一のコラム(「貧困なる精神」)でもつまみにしていただきたい(強調は引用者による)。
どうやら中国は領土問題となると、大国でありながら(いや「大国だからこそ」かな?)かなり強引な言動(言葉と行動)に走るようですが、ふと思ったのは、かの周恩来が生きていたら、今回のような大騒動にはしなかったのではないかという感慨です。チベット侵略にしても。(「民衆の生活圏から尖閣諸島を考える」、『週刊金曜日』2010年10月1日号、p.45)
尖閣=釣魚島の帰属問題を「棚上げ」する地ならしをした「かの周恩来が生きていたら」、今回の日本政府の「強引な言動(言葉と行動)」に対して激怒して当然だと思うのだが・・・。「チベット侵略」を「大騒動」にさせない「知恵」を中国政府に期待するかのような発言も、なんだか恐ろしげである。
その翌週のコラム。
先週号で尖閣諸島問題を書いたが、その中で「中国人の生活圏だった記録はないようですが、前記『沖縄大百科事典』中巻五八二頁には……」として、一八九六年(明治二九)からの魚釣島などにおける沖縄からの移住者が「定着して開拓事業に従事」したことなどに触れた。
しかしこの問題について、これまで私は調べたり考えたりしたことが全くなかったので、たまたま入手した手近な文献として、古いものでは井上清『「尖閣」列島――釣魚諸島の史的解明』(現代評論社・一九七二年)、新しくは本格的論考として八年前に刊行された浦野起央『尖閣諸島・琉球・中国日中国際関係史〈分析・資料・文献〉』(三和書籍・二〇〇二年)を瞥見した。ほかに調査団による学術調査報告として尖閣諸島文献史料編纂会『尖閣研究――高良学術調査団資料集』(上下二巻・二〇〇七年・データム=レキオス=那覇市)など。
これらの瞥見だけで驚かされたのは、尖閣問題の歴史の長さと国際関係上の複雑さ、したがって文献の多さであった。「たまたま入手した手近な文献」ていどで論ずるべきではあるまい。ここでは問題の入口まで紹介しただけでよしとして本論に戻るとしよう。 (「「4割得票で6割の議席」の小選挙区制」、『週刊金曜日』2010年10月8日号、p.60)
「この問題について、これまで私は調べたり考えたりしたことが全くなかった」というなら、先週号のコラムについても訂正なり保留なりがあってよさそうなものだが、そんなものはまったくないのであった(もっとも、
浦野起央や
尖閣諸島文献史料編纂会の文献に依拠するのであれば、訂正は不要だろうが)。それにしても、本多は中国に知己がいるはずなのだから、中国側の近年の代表的な文献(鞠徳源著『日本国窃土源流 釣魚列嶼主権辨』など)について問い合わせることもできるだろうに、そうした発想は「問題の入口」にはないのだろうか。
▼3 そして、こうした現象が加速度的に進行しているからこそ、歴史修正主義者と戦後補償運動関係者が中国の「反日デモ」に対して足並みを揃えるといったことが可能になっているわけである。弁連協(戦後補償裁判を考える弁護士連絡協議会)の事務局主任を務める木喜孝弁護士の発言を、その典型例として引いておこう(強調は著者による)。
ごく最近の運動として明確なものには、2005年、北京と上海で大変な反日暴動がありました。私たちもこの問題については非常に重視しており、「戦後補償問題は反日運動ではなく、日中友好の基本の上に解決されるべき問題だ」ということを中国サイドに常々申し上げているし、働きかけを続けています。(木喜孝、「概説「戦後補償裁判の現況と今後の課題」」、『軍縮問題資料』2010年9月号、p.66)
弁連協は今回の「反日デモ」についても当然「中国サイド」に抗議をしたと考えられるが、素朴な疑問として、弁連協のいう「中国サイド」とは何を指すのだろうか。原告側も運営に参加する、
「花岡和解」の「基金」の受け皿となった中国紅十字会や、
「西松・信濃川和解」の「信濃川平和基金」に対しても「申し入れ」をしているのだろうか。弁連協ならやりかねないとも思うが、そうだとすればあまりにも恥知らずではないのだろうか。
▼4 浅井氏は、記事(1)で次のように述べている。
私には、尖閣諸島周辺での中国漁船操業(したがっていわゆる「領海侵犯」)が何らかの政治的意図を背景にしたものかどうかを判断する材料は何一つありません。しかし、日中関係のあり方に関するビジョンも戦略もない日本の現実を前提にした場合、何らの事前の指示・指針も受けていなかったであろう海上保安庁が「領海侵犯」し、巡視艇に「体当たり」してきた中国漁船と船長以下の船員を、国内法令に基づいて拘留したのは当然の成り行きだったと思います。問題の根本は、民主党政権の日本政府が、十分に予想範囲内であった今回のような起こるべき事態に対するほんの少しの想像力も備えていなかったということ、したがって海保庁の「独走」をチェックすることができず、成り行き任せになってしまったということです。しかもご丁寧なことに、中国側から起こるべき強硬な反応もまったく想定もできないまま、首相、官房長官を含め、「粛々と国内法に基づいて対処する」とノンキに構えていたということでした。私が、今回の事件は起こるべくして起こった、という所以です。
民主党政権の作為ではなく不作為を「問題の根本」に据えるのは、明らかに誤りではないかと思うが、浅井氏の分析の奇妙さは、浅井氏が民主党政権の不正義ではなく無能さを批判の重点に置かれていることの表れなのかもしれない。