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裁判員制度という牢獄――「市民の健全な常識」なるレイシズム

 昨日、フィリピン人少年を被告とする裁判員裁判の判決が、さいたま地裁で下された。性犯罪を扱った青森地裁の裁判報道では、裁判員の選考にジェンダーバランスを配慮するべきだとする主張が広く展開されたが、外国人が被告である本裁判をめぐっては、裁判員の選出に民族バランスを勘案するべきだという声など出てくるはずもなかった。以前にも書いたように、裁判員制度は「市民(=日本人)の健全な常識」が外国人「犯罪者」を文字通り殺しうる牢獄であり、日本人に<金嬉老>を裁く権利はないという批判は、「市民(=日本人)の健全な常識」(要するにレイシズム)によって初めから排除されているのである。

 それでは、本裁判において遺憾なく発揮された、「市民(=日本人)の健全な常識」とやら(要するにレイシズム)を、以下に見ていこう(強調は引用者による。以下同様)。

(1) 読売新聞(2009年9月12日付):「裁判員裁判 判決 被告の抱える問題 直視」
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20090911-OYT8T01244.htm


 判決後の記者会見や個別取材で、4日間の大役を務めた裁判員らは、若い在日外国人が抱える問題についても発言した。


 てか「4日間の大役」・・・ってまず何?日本人相手なら通常3日以内で終わるところを、通訳に耐えて(注:裁判員が)4日間よく頑張った!感動した!ってことですか?


 60歳代の女性の被告に対する印象は「日本の普通の二十歳の男性と比べ、非常に幼い」だった。


 どう考えても比較対象が間違っている。被告と比べるべきは、フィリピン社会における「普通の二十歳の男性」であり、その差を被告に強いてきたものこそが、日本社会における制度的・社会的な外国人差別であると捉えるべきだろう。「日本の普通の二十歳の男性」などという表象は、端的にレイシズムを法廷に召喚する一手法にすぎない。


 「在日外国人の不良グループの存在は知っていたが、(今回の裁判を経験するまでは)実感としてとらえづらかった。在日外国人の見方が非常に変わった」と会社員鎌田祐司さんは話した。「親が日本語を教えられず、日本語学校に通う経済力もないという若年層の在日外国人について、日本の社会になじめるようなケア(手当て)を整備することが重要」


 こうして、「外国人の「親日化」こそが運動の「普遍的課題」」であるという認識が、「市民(=日本人)の健全な常識」として浸透していくわけだ。リベラル・左派の多くも、こうした裁判員の「良識」を歓迎する(している)のではないか。


 被告が抱える問題も意識し、裁判員6人と補充裁判員2人の全員が、「更生の道を」との思いを、判決に込めたという。

 大谷吉史裁判長は判決後の説諭で、「弁護人は、日本での成育歴に同情すべき点があると指摘したが、そのことと、今回の犯行は直接関係ない」と語りかけた。「君を待っている母親や家族のためにも、裁判官も裁判員も、一日も早く立派に更生すること、二度と悪の道に転落しないことを願う」


 あまりにも空虚かつ傲慢な「説諭」に呆れるが、反貧困運動界隈からこの判決を批判する声はどれだけあるのだろう?沈黙は、外国人に対しては引き続き「自己責任論」で頑張っていただく、という意思表示でしかない。(日本人原理主義の)「道に転落」しているのは、自らを決して被告席に立たせようとしない日本人マジョリティの側であると思う。


 神尾尊礼、村木一郎両弁護士は判決後、「裁判員に主張を理解してもらった結果」と振り返った。

 神尾弁護士は「通常、日本人に理解しづらい不遇な生い立ちなど、外国人の事情を理解してもらえた」と語り、村木弁護士も「外国人の不良グループということで偏見を持たれることも多いが、裁判員が非常に中立的な立場で丁寧に判断してくれた」と述べた。


 ・・・・・・直前の引用との関連がまったく理解できないのだが、とりあえず、この裁判員裁判が、「外国人に偏見を持たない私たち」という日本人の自己イメージを流通させるためのネタとして消費されていることがよくわかるコメントではあると思う。


 傍聴席には、さいたま市緑区に住むフィリピン人女性(44)の姿も。新聞で公判を知り、初めて裁判所に足を運んだという。来日19年。「母親に面倒をみてもらえないなどの事情を抱えたフィリピン人の子どもはたくさんいる。『面倒をみてくれないから犯罪を犯した』ということは通用しない。今後は、自分の意思をしっかりと持って生きていってほしい」と語った。


 そして、実際には妄想でしかない日本人の寛大な自己イメージをより肥大させるために、親日派の外国人は今後いっそう重宝されることになる、というわけだ。

 以下は同日の読売新聞の朝刊からの抜粋である。


「通訳、一度で伝わらぬことも」

 判決後、裁判員、補充裁判員経験者計8人全員が、さいたま地裁内で記者会見した。

 ――(タガログ語の)通訳を介した外国人の裁判で難しさはあったか

 裁判員1番「被告の顔を見ると、『分かっていないかな』と思う時もあった」
 同2番日本語のニュアンスが難しくて、訳す言葉がないのかなと感じた」


 「いやー、日本語は、奥ゆかしくきめ細かな日本人の心を反映した、世界にも比類なき繊細な言語ですからね。(英語やフランス語ならともかく)タガログ語ごとき途上国人の言語に翻訳できるはずがないですよね」(副音声)

 「そうですよね。まあタガログ語なんて聞いたこともなかったですけどね」(副音声)


 ――裁判を終えて感想は

 裁判員3番「ほとんどの人が、加害者にも被害者にもならずに一生を過ごす。犯罪に向き合う時間を得たことはとても新鮮で、真剣になれた」


 在日外国人に対する抑圧者である日本人マジョリティが、在日外国人を裁くことに「新鮮」さを感じるというのは、あまりにもシュールすぎないだろうか。そんなことは日本人が日常的に行っていることである。もっとも、この裁判に限らず、裁判員体験者の感想は、「よい経験になった」「充実感が味わえた」「心残りはない」といった、無駄に爽やかな自己啓発臭が漂っていて、読むたびに引いてしまうが。


 ――判決に込めた思いは

 同1番「勉強して職を身につけ、刑を終えた時には1人でやっていけるようになってほしい


 というか、日本の刑事システムについて、あなたが「勉強して」ください、という感じである。外国人受刑者に対して、日本語以外のコミュニケーションを禁止していたり、翻訳費用を負担させていたりする刑務所が珍しくないことや、国連拷問禁止委員会が日本政府に対して何を勧告しているかなどを考えれば、日本人の「温情」によって在日外国人が「更正」するといった「美談」が、いかに噴飯物であるかは明らかだろう。さらに言えば、被告のフィリピン人少年は、14歳で来日してから「1人でやってい」くしかない境遇にいたのであり、唯一彼の側にいたのが「フィリピン人の不良グループ」だったのだと思う。


(2) 朝日新聞(2009年9月10日付):「裁判員法廷@さいたま 被告の母に質問次々」
 http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000000909100003


 逮捕後、被告をフィリピンに帰そうと思ったこともあったと証言した母親に対し、裁判員4番の女性は「子どもを放棄してもいいと思ったのですか」と質問。母親が「いいえ」と答えると、「更正できるように、母親として愛情をかけてあげることができますか」と聞き直した。母親は「できます」とうなずいた。

 裁判員5番の女性は「息子さんを愛していますか」と尋ねた。「愛しています」と答えた母親に、「いま失ったら悲しい? いなくなったら?」と、さらに尋ねた。母親は「悲しいです」と、小さな声で答えた。


 どちらの質問も、フィリピン人を見下していない限り、口にできない言葉ではないだろうか?在日外国人の子どもたちを社会的に放棄し、かれらが母国で成長すれば得られたであろう可能性を奪っているのは、こうした「市民(=日本人)の健全な常識」ではないだろうか?


(3) 毎日新聞(2009年9月12日付):「裁判員裁判:フィリピン人被告に実刑 言葉の壁「意図通じた」--さいたま地裁」
 http://mainichi.jp/select/jiken/saibanin/news/20090912ddm012040147000c.html


 弁護士は、検察の求刑について「(求刑の8割の判決を前提にした従来の)『八掛け求刑』でなく、ストライクゾーンを狙った感じ。(判決は)法定刑最低の6年をさらに下げる酌量減軽をしていただいた」と評価した。


 一瞬読み間違いかと思ったほど腐った発言である。こういう物言いをする人間を、私は心の底から軽蔑する。


(4) 東京新聞(2009年9月11日付):「被害男性『一生懸命生きて』 被告、手で何度も涙ぬぐう」
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20090911/CK2009091102000117.html


 「どうしたらあなたが一生懸命生きられるか、みんな真剣に考えています。私も同じ気持ち」。さいたま地裁で十日開かれた路上強盗事件の裁判員裁判第三回公判。意見陳述で被害者の男性(27)は、強盗致傷罪に問われている被告のフィリピン人の男(20)を君付けで呼び、静かに諭しながら「更生のためにあえて厳しい処罰を望む」と語った。




裁判官が「社会に戻ったらどんな生活をしたいですか」と尋ねると、被告は「ちゃんと仕事し、家族をつくって幸せになりたい」と述べた。「お母さん以外に立ち直りの面倒をみてくれる人はいますか」との裁判長の質問には、「フィリピンにおじがいます」と答えた。


 もうそろそろよいだろう。フィリピン人少年の行為に心を痛め、彼の「更生」に心を砕く日本人たちの「美談」は、あまりにも醜悪な自己陶酔劇にすぎないと思う。そして、被告席に立たされる外国人がひとたび「反日」的な主張を始めれば、こうした自己陶酔劇は一転して(死刑を含めた)厳罰を求める大合唱に変わるだろう。外国人に対する「市民(=日本人)の健全な常識」など、唾棄すべきレイシズムでしかありえない。

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