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大日本帝国bot――加藤陽子×佐藤優×福田和也(中編)

 では次に、「生命至上主義を超え」る「近代の超克」の問題(佐藤優)について、その概要を押さえておこう。


●「近代の超克」

 「近代の超克」とは、いわゆる京都学派の<世界史の哲学>に代表される、<大東亜戦争>のうちにヨーロッパ的「近代の超克」の可能性を積極的に見出そうとした(すなわち<大東亜戦争>を積極的に正当化する役割を果たした)、大日本帝国知識人の言説を指す。ここでは高橋哲哉の1993年の論文「《運命》のトポロジー――<世界史の哲学>とその陥穽」(『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ』、岩波書店、1995年。初出は『現代思想』1993年1月号・5月号、青土社)に倣って、「京都学派のなかでも際立った体系家」(廣松渉)とされる高山岩男の主著『世界史の哲学』を引くことにしよう(漢字は旧字体を新字体に置き換えた。以下同様)。

 『世界史の哲学』の本領は、その序文から遺憾なく発揮されている。


 今日の世界大戦は決して近代内部の戦争ではなく、近代世界の次元を超出し、近代とは異なる時期を画さうとする戦争である。前のヨーロッパ対戦は、世界戦としては画期的のものであつたが、その根本性格に於ては近代内部の戦争であり、近代の延長たる性格を超出するものではなかつた。〔中略〕今次のヨーロッパ大戦は近代に終焉を告げる戦争であり、またさうなければならぬ。このことは我が日本を主導者とする大東亜戦争では極めて明白であつて、何らの疑義をも挟まない。満洲事変、国際連盟脱退、支那事変と、この世界史的意義を有する一連の事件を貫く我が国の意志は、ヨーロッパの近代的原理に立脚する世界秩序への抗議に外ならなかつた。昨年十二月八日、対米英宣戦と共に疾風迅雷の如く開始せられた大東亜戦によつて、旧き近代の世界秩序を打破し、新たな世界秩序を建設しようとする精神ば、愈々本格的な姿を現し、これは今日の世界史の趨勢にもはや動かすべからざる決定的方向を越えるに至つた。世界史の転換がいはれるのは、今日の世界大戦がもつこの性格を捉へていはれるのでなければならぬ。(高山岩男、『世界史の哲学』、岩波書店、1942年、pp.1-2)


 高橋は、自著で<世界史の哲学>が「西洋の「帝国主義的哲学」に対抗するための武器とした<反帝国主義的>な論理」(p.179)――この哲学の<反帝国主義的>論理が、いかにして「事実上」の「帝国主義的哲学」に帰結せざるをえないのか。あるいは、この「事実上」の「帝国主義的哲学」が、いかにしておのれを<反帝国主義的>哲学に見立てることができたのか(p.180)――について緻密に論じているが、そもそも、「我が日本を主導者とする大東亜戦争」が「近代の超克」を「超出するもの」であることは「極めて明白であつて、何らの疑義をも挟まない」などという、反論や疑問を一切拒否した空虚なご宣託を序文に掲げる<世界史の哲学>が、<反帝国主義的>哲学としての内実を備えられるはずもない。高橋が引用する「序文の有名な一節」(p.267)からも、また高橋自身が強調しているように、「<世界史の哲学>が「<大東亜共栄圏>にたいする日本の事実上の支配を正当化」するものであったこと、すなわち、日本のアジアへの「帝国主義的」侵略を正当化するまさに「帝国主義的哲学」となったことに異論の余地はな」いだろう(p.179)。


 世界史の哲学に就いて私見を発表する勇気を生じ、またその義務を感ずるに至つたのは、支那事変の勃発後、日頃教室で顔を合わせてゐた学生で、卒業後戦地に赴く人々が出てきた頃であつた。彼等は支那事変の本当の意義が何処にあるかを訊ね、それを摑へることによつて戦場の覚悟への一助とするといふ風に見受けられた。私は率直にこの事変のたゞならざる所以を語り、その必然性を深く世界史の立場から捉ふべきであることを語った〔強調は高橋による〕。これが生死超越の境地を語る資格のない私の、彼等に贈るべきせめてもの餞別であった」(高山前掲書、pp.5-6)

 
 ところで、高橋は「往時から半世紀後の今日、<経済大国>日本の主導による事実上の<大東亜共栄圏>の実現というイメージがある種のリアリティをもって流布する一方、<世界史の哲学>の問題意識や諸概念をいわば<非帝国主義的>に「解釈」し、「建設的」に「継承」していこうという議論も登場してきている。そうした議論がはたしてどこまで成功しうるものなのか、わたしは懐疑的であらざるをえない」(p.180)と述べている。私も高橋の「懐疑」を共有する立場から、竹内好再評価ブームを批判してきたわけだが、少なくとも『en-taxi』の鼎談を素直に読む限り、佐藤や加藤は「<世界史の哲学>の問題意識や諸概念」をそのまま帝国主義的に「解釈」し、そのまま「継承」(復権)していこうという「議論」をしているようにすら見える。

 言ってみれば、「侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある」などという竹内好の「思想」を(再)評価している人々が、不気味に「論壇」を蠢いている傍らで、佐藤や加藤のような人物が、「(アジアへの侵略と植民地支配を可能にした)大日本帝国のマニュアル」は「非常によくできている」(加藤)、「新しい思想」である(佐藤)などと得意気に語っているわけである。

 どちらにしてもどうしようもないが、『週刊金曜日』を例に挙げれば、前者の立場をアピールしたがっているらしい中島岳志は同誌の編集委員であり(▼2)、後者の立場の佐藤は同誌の常連執筆者であるし、加藤は同誌社長改め編集委員の佐高信と共著『戦争と日本人――テロリズムの子どもたちへ』(角川学芸出版、2011年)(▼3)を出すなど、リベラル・左派メディアもこうした立場を積極的に容認している。

 話を<世界史の哲学>に戻すと、『世界史の哲学』の出版元が岩波書店であることは、今日的な視点から見ると、なかなかに示唆的であると思う。同書の第二章「歴史の地理性と地理の歴史性」の第一節(「歴史と地理との内面的関係」)には次のようなくだりがある。

 
我が国の愛国心が、必ずしも排他的性格を伴はず、愛国心が好戦的でないのも、また日本人が異民族に対して寛容であり、民族憎悪の心をもたないのも、国土の自然的な封鎖性や民族の自然的な統一性に基き、外国の侵略の歴史を経験しないことに基くところが多いと思ふ。従つて権謀術数に富む外交も発達せず、国家思想に於ても権力国家の思想は入る余地なく、道義国家の思想が入つても常に道義をも越えた神国観念を保持して動かぬのである。(この国民精神は他国からは容易に理解されないものである。)(p.110)(▼4)


 ・・・・・・念のため繰り返しておけば、同書の第一刷が発行されたのは1942年9月30日である。ちなみに、奥付には「小店の出版物に就ては永久に責任を負ひ度く存じますから落丁・乱丁の場合は直接小店へ御申出下さい」と書かれているのであった。もちろん、「小店」たる岩波書店は、「落丁・乱丁」どころでは済まされない(関連して細かい点を述べれば、高橋は前掲書で『世界史の哲学』の刊行年を「一九四五年」(p.267)としているが、これは「一九四二年」が正しい)、日本のアジア侵略における歴史的「責任を負」っているはずだが、今なお労使一体で<佐藤優現象>に邁進しているのだから、実に懲りない面々である。

 岩波原理主義は、高山の日本人原理主義ぶりと比べれば、いささか精彩を欠くかもしれないが(いや、欠かないのか?)、金光翔さんに対して、脱退の自由をまったく認めようとせず、その後ご都合主義的に「除名」してきた岩波書店労働組合の思想・行動原理は、朝鮮民族に対して、日本国籍からの離脱を一切許さず、その後一方的に日本国籍を剥奪した日本国家の思想・行動原理とあまりにも重なって見える。

 本来なら『統帥綱領・統帥参考』についても中編で取り上げる予定だったが、注3が無駄に長くなってしまったため、後編に回すことにする。

(後編へ続く)


【追記】(『統帥綱領・統帥参考』の代わりに)伊勢崎賢治が相変わらず酷い。



とりあえず、ゲリラ的に、ツーバイフォー仮設住宅資材を大量に積んだ船をアメリカから八戸港に送り込むか。ムーブメントの話題づくりに。


 http://twitter.com/#!/isezakikenji/status/49118900192944129


風評被害対策の第一歩。南相馬に大量のボランティアを送りこむこと。キャッチはどうしようかな?


 http://twitter.com/#!/isezakikenji/status/55481739136610304


キャッチ候補 「広島は福島にふるさとを捨てさせはしない」


 http://twitter.com/#!/isezakikenji/status/55214694536970240


とにかく、半径何キロ云々の問題ではないことは確か。少なくとも南相馬からアクセスした10キロ圏内までなら、ガイガーカウンターを普及し、累積被爆を考慮した生活パターンをモデル化し、避難訓練を徹底的に日常化すれば、忙しないが何とか住める、という印象を持った。


 http://twitter.com/#!/isezakikenji/status/57091051579654144

 とても人間の発言とは思えないが、仮にガイガーカウンターが普及すれば、首都圏からも避難者が続出することは間違いないだろう。大衆を情報操作の道具・対象としてしか見ることのできない伊勢崎には、いい加減、社会的にご退場願いたい。


(▼2) もっとも、中島岳志のTwitterにも有益な情報は存在する。


戦後、東京大学原子核研究所長・日本原子力学会長・日本原子力研究所長を歴任した原子物理学者・菊池正士の著書を読み進めている。菊池は科学者代表として 1942年の座談会「近代の超克」に参加し、苦悩しながら「科学の超克」を論じている。一方で、戦後は原子力発電を積極的に推進した。


 http://twitter.com/#!/nakajima1975/status/61399292140716032
 ↓  ↓  ↓

菊池正士の著書で一般に広く読まれたのは岩波新書の『原子核の世界』だろう。ここでは原子力発電の安全性を強調し、事故への懸念から推進に反対する議論に対して、「その論理は…結局近代文明の否定に終わる」と論じる。「近代の超克」論から原発推進に至る論理を追いたい。


 http://twitter.com/#!/nakajima1975/status/61401816738439168
 ↓  ↓  ↓

1970年代には、岩波新書でも原発の安全性を訴える本が出ていたことに、少し驚いた。


 http://twitter.com/#!/nakajima1975/status/61402515656294401
 ↓  ↓  ↓
 そして2000年代には、岩波ブックレットでも中島岳志の共著が出ている。

(▼3) この本も感動的な駄本である。ここまでズレていると最早突っ込みようもないほどだが、いくつか挙げておこう。まずは佐高の「おわりに」より。


 軽佻浮薄なベストセラーがはびこっている中にあって、加藤さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が読まれていることは救いだが、この歯ごたえのある対論〔注:同書を指すらしい〕が読まれることも期待したい。(p.235)


 次は「歯ごたえのある対論」第一章より抜粋。


加藤 私は、小沢さんが主婦層や若い正義感あふれる女性層に向かってもっとしゃべれる能力をもっていたら、世の中の小沢観はすごく変わるだろうなと思うんです。

 ネット配信動画で話すのも一つの方法だと思いますが、女性層に拒否感をもたせないような工夫も欲しいように思いますね。

佐高 原〔敬〕のように、もう少しおしゃれに気をつけるとか?(笑)

加藤 まあ、そういうイメージも大事ですからね(笑)。(p.56)


 同じく「歯ごたえのある対論」第五章。


加藤 中国がパンダをあげるときは、本気で相手を落としたいときです(笑)。〔中略〕あの可愛らしさを考えれば、ペ・ヨンジュンさん一人で日本の対韓国感情が劇的に改善されたのと同じ効果が、パンダにはあるということでしょう。(pp.182-183)

〔中略〕

佐高 私は、パンダに頼るよりは、人間同士のそういうコミュニケーションを上手に活用したほうがいいように思うんです。(p.185)


 一味違った「歯ごたえのある対論」第二章。


加藤 ようやくシベリア抑留者に対する、国家としての謝罪と補償が「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」の施行によって、なされるようになりました。

 ただ、細かいことを言いますと、同じ抑留者でも、日本人という国籍条項が付いている。当時は日本人だった朝鮮人の軍人さんなどが抑留されても、この法律では補償の道がないんですね。このような、積み残してきたもののデコボコを、できるだけ早くなくしていきたい。そうでなければ、戦争の記憶が少しでもある国民の側は、対外的な戦争責任を自覚するというところまでいかないでしょう。

 国内におけるそういったさまざまな気持ちの欠損が埋められていった暁に、日本人はようやく自分たちの戦争責任とも向き合えるようになるのではないか、私にはそんな期待があります。(pp.76-77)


 (これも加藤典洋の劣化コピーだが)「他人を殴った記憶が少しでもある加害者の側は、対外的な加害責任を自覚するというところまでいかないでしょう」、「自分の中でのそういったさまざまな気持ちの欠損が埋められていった暁に、加害者はようやく自分の加害責任とも向き合えるようになるのではないか」・・・・・・ってどういう意味ですか?

 それでも「歯ごたえのある対論」終章。


佐高 一九三六年のベルリンオリンピックのときにマラソンで優勝した孫基禎(ソンギジョン)という人がいました。当時、朝鮮は日本の統治下にあったので日本選手として出場して日の丸が掲げられた。当人はそれが本当に悔しくて、心の中では日の丸を破り捨てたかったというんです。

 その後、ベルリンにオリンピックの優勝記念碑が建てられ、彼の国籍は「Japan」と刻まれた。するとあるとき、韓国人の旅行者がその部分をノミで削り取って「Korea」と直した。それをIOCは、再び「Japan」に戻すんです。本人は「JOCが国籍変更を申し出てくれればIOCも理解してくれるはずだ」と語ったわけですが、私は本人の思いが「Korea」にしてほしいならばしてやるべきだろうと思う。

 それなんかも西部〔邁〕は反対しないんですよ。だから一緒に本を出したりすることもできる。私としては、西部と一緒に本を出すようになるなんて、我ながらずいぶん大人になったもんだ、という感覚です(笑)。

加藤 なるほど。大人としての包容力ですかね(笑)。


 ・・・・・・。

 やっぱり「歯ごたえのある対論」第四章。


加藤 生活の中でいろいろな青年運動がありましたが、その中の一つに、キリスト教の影響があったという点も見逃せません。

 今、満州移民の話をしましたが、終戦時に満州にいた日本人は約二〇〇万人。軍人が約五〇万人、民間人が約一五〇万人、この数の多さには驚嘆します。ではそれだけ多くの人がなぜ移民しようという気持ちになったのか。〔中略〕

 一九三〇年代、キリスト教的な人道主義を背景として、生活協同組合なども広まります。また、産業組合が、その機関誌『家の光』で、農村の生活改善キャンペーンに乗り出します。〔中略〕この『家の光』に、協同組合運動の父と称される賀川豊彦が『乳と蜜の流るゝ郷』(復刻版 家の光協会 二〇〇九年)という連載小説を書いていて、この人気小説のせいで、三五年からの『家の光』は一〇〇万部を超えたといいます。二年くらい続く連載でしたが、大ヒットするんです。

 「乳と蜜」という言葉は日本の語彙ではありません。聖書の言葉です。賀川豊彦は「出エジプト記」などに出てくるような言葉をうまく使いながら、貧しくもまじめな青年が、苦界に身を一度は落としてもけなげに働く農家の嫁となった女主人公とともに、満州をめざす話を書いた。新天地・満州へと青年層にダイレクトに訴えかけた小説でした。

佐高 ああ。つまり、ここより彼の地へということですね。ここにいてもあまり希望がない、もっと夢のある地へ行こう、と。〔中略〕そこは、本当は「乳と蜜の流れる郷」でないかもしれないけれども。

〔中略〕

加藤 じつはこの「乳と蜜」という言葉は、満州移民の悲劇だけにとどまらず、戦後、大陸から引き揚げてきた人々の苦労とともに語られることもありました。

 これは実際にあった話ですが、大陸から命からがら戻ってきても、村には戻る場所もない。よって、戦後の開拓として、郡上市高鷲町の「ひるがの」というところを開拓することとなる。大陸でも開拓、帰国しても開拓で、本当に胸がつぶれる物語です。(pp.137-139)


 侵略者の「苦労」に「本当に胸がつぶれる」加藤。しかし、佐高も負けてはいなかった。


加藤 例えば、在日特権を許さない市民の会(在特会)のメンバーを取材したジャーナリストの話ですが、実際に会ってみると普通の穏やかに見える人が、この運動を通じて初めて「団結と連帯」の場を見つけることができた、というようなことで運動に入っている。これは惜しいと思う。他に入っていくべき運動はなかったのかと思います。これはかつての『家の光』の喚起力に相当する話なのではないでしょうか。

佐高 そこで「乳と蜜」のある場所へと勇躍跳んでいくという意欲はない。(p.150)


 ・・・・・・スポーツ紙の見出しなら、「佐高、「在特会」に北東アジア侵略を煽動!」で決まりだな。念のため一番下には小さく「?」を入れておくよ。

(▼4) 「神国観念」については、同じく1942年に出版された高山岩男の著作『文化類型学研究』(弘文堂書房、p.242, p.249)を引用した、高橋の解説が参考になる。


〔中略〕日本では、その「島国的条件」のゆえに、皇室を「国民の大宗家」とする「血縁的統一性」および「民族と国民の合致」が成立し、国家観念の基礎が他者との「対抗関係」にではなく、「国民の血縁的起源」を直接さかのぼって「天孫降臨の神勅」に求められるから、権力と倫理との対立を超えてそれらに「所を得」させる「神国国家」の理念が、すなわち、「対立を越えた高き立場」から「よく対立者に所を得しめ」、「相違の根柢に深奥な統一性を実現する」「絶対至高」の「国体」の理念が確立された、というわけである。(高橋前掲書、p.230)

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