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ドイツ・右翼の系譜と在朝日本人 (2)

■目次
(1) はじめに
(2) 恐るべし、ドイツの右翼?
(3) BdV(強制移住者同盟)と在朝日本人

(3) BdV(強制移住者同盟)と在朝日本人

(3-1) 「被害者としてのドイツ人」というアイデンティティ――BdV(強制移住者同盟)

 ところで、本書で最も興味深いと思ったのは、著者がドイツ・右翼の(下からの)系譜として名指している旧ソ連・東欧地帯からのドイツ人引き揚げ者と、在朝日本人との共通項である。といっても、著者は在朝日本人史に直接触れているわけではない。まずは前者について本書から紹介しよう。


 ドイツ民族の歴史において最大の悲劇とは故郷からの追放だ。

 東方植民運動により中世以来ロシア・東欧地帯で営々と生活を築き上げてきたドイツ人たちは、一九四五年五月、ドイツ敗戦前後から始まったドイツ人追放で身ぐるみ剥がされ故郷を追われた。その数は一五〇〇万人といわれる。その悲劇は連合国占領下、ドイツ女性に起こった悲劇と合わせ戦後のドイツ人の物の考え方に決定的な影響を与えた。

 これらの難民たちのうち約四一〇万人が東ドイツへ八一〇万人が西ドイツにいった(一九五〇年時点)。これは一九四九年のソ連占領地帯――のちの東ドイツ――の総人口の二四・一パーセント、西ドイツでは一五・七パーセントに当る(以上『FLUCHT VERTREIBUNG INTEGRATION』 Stiftung Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland KERBER VERLAG より)。

 西に行った人々はBdV(強制移住者同盟)を結成した。彼らは西ドイツでは保守あるいはしばしば右翼と目される人びとだ。その憎ソ・東欧意識は反共を国是にまで導いた。

 東ドイツではどうか。かれらのソ連・東欧に対するルサンチマン(怨恨)、その反ソ・反共意識が東ドイツ建国の理念とぶつかったとき彼らのナショナリズムにどんな影響をあたえたのだろうか。(▼6)


 そして、東ドイツへの引き揚げ者(1994年にBdVに入会)に対する著者のインタビューが続くのだが、これがまるで在朝日本人の回想録のような話なのである(もっとも、こうした評価は在朝日本人に対して好意的にすぎると思うが)。


 一般のポーランド人たちは四五年から翌年にかけて徐々に街に移ってきた。
 ポーランド人はロシア人に比べはるかにドイツ人に辛く当った。「身ぐるみ剥いで」いったという。

 ――ドイツ行きの家畜列車に乗せられたH婦人(一九二二年生まれ)はポーランドの検問で貯金通帳までも没収された。彼らは「私たちを手ぶらでドイツにいくよう」したかった。「父はいつも言っていた。ロシア人はいい人だと。パンがあれば必ず分けるし、お腹が空いていればどこからか食べ物を調達してくれた」。強かんもあったが、それは「戦中だった」し……。「ポーランド人は執念深い」と彼女はいう。「とにかく“ドイツ人が戦争を始めた”の一点張りですからね」――。(▼7)


 ドイツに国を滅ぼされたポーランド人が「ドイツ人に辛く当」たることは、ポーランド人が「執念深い」証拠なのだそうだ。それにしても、彼女の歴史認識は、在朝日本人およびそのメンタリティの忠実な継承者である現代日本人のそれと、あまりにもよく似ている。もちろん、日本の場合は、日本人が解放後の(在日)朝鮮人を「身ぐるみ剥い」だのであるが、在朝日本人的史観によれば、それさえも朝鮮人が「執念深い」からだという証左になるのだろう。


 メッケンブルクフォポマでは現地の言葉もよくわからず、学校でもいじめられた。
 ―それはあなたにとって心的外傷になりましたか。

 「ええ、わすれはしない。いまでもときおり当時のことを思い出すんです。私たち難民はベルリンやラインにいたドイツ人たちと違い戦争のつけをすべて払わされた。(戦後も)東ドイツ人としてソ連に賠償させられて。西ではアメリカから援助さえ受けていたのに」(▼8)


 戦後賠償では東西ドイツで大きな差があり、ソ連への賠償を負担した東ドイツでは工業施設全体の約三分の一が、米国などの連合国に賠償をした西ドイツでは工業設備の3~5%が引き渡されている。けれども、本書によれば、「ソ連・東欧から酷い目に合わされた被害者としてのドイツ人」というBdVの主張は、冷戦を通じて反ソ・反東欧宣伝が浸透していた旧西ドイツでも、すんなり受け入れられる土壌があるという。ちなみに、BdVは与党第一党であるCDU(キリスト教民主同盟)の支持母体でもある。


(3-2) 炸裂するDV史観――在朝日本人とその後継者たち

 それでは、一方の在朝日本人の歴史観はどのようなものなのか。それを非常にわかりやすく教えてくれるのが、例の『マンガ嫌韓流』シリーズである。いま手元にないので、正確な引用ができないが、その核心的な主張は、パターナリズムによる植民地主義の全面肯定である。

 ここに書くだけでも心底げんなりするのだが、『嫌韓流』は、「日本は朝鮮人のために朝鮮を植民地支配して近代化してやったのだから感謝しろ」「日本人に全力で擦り寄らない朝鮮人には存在の価値はない」という類の、日本人レイシストの脳内妄想展示会のようなものだ。言ってみれば、被害者に訴えられたレイプ犯や、子どもへの虐待が露見した親が、「おまえのためを思ってやったのだから感謝しろ(いわれのない非難を浴びている自分こそ被害者だ)」という内容の手記を出版しているようなものである。一言でまとめれば、DV史観が炸裂していると言える。『嫌韓流』シリーズは100万部近く売れているというから、在朝日本人のDV史観を現代日本人がいかに無批判に継承しているかは一目瞭然だろう。

 少し長くなるが、以下に在朝日本人に対する梶村秀樹の分析を紹介しておく。敗戦時点での在朝日本人の人口は約七〇万。これは当時のドイツの総人口における引き揚げ者と比べればはるかに少ないが、小さな県一つ分には相当する人数である。


●「内地の者」

 実際、歴史に登場する朝鮮植民者の生きざまは、ギョッとするほどすさまじく、弁護の余地なく邪悪である。庶民にいたるまで、ときには庶民が官憲以上に、強烈な国家主義者であった。かれらは朝鮮人に対して、国家の論理で完全武装した冷酷なエゴイストであり、あけすけな偏見の持ち主、差別・加害の実行者であった。朝鮮人のことならすみからすみまで知っていると自負しているくせに、実は本当のことをなに一つ知らないのだった。

 だが、だれが見ても奇怪なこの現象に「内地の者」が加える批判は、しばしばなんの効果もなかった。われわれの体裁のよい「人道論」を聞くとき、朝鮮植民者やその後裔たちの内面には、必ず反発の感情が波立ち、ときには居直った心情への固執が表明されるのである。それはなぜかが、植民者自身によって主体的に追求され、そしてトータルに構造的に、明らかにされなければならない。

 そのさい必ず考慮してみなければならないことの一つは、朝鮮民族との関係においてまぎれもなく日本国家の侵略の先頭に立つ朝鮮植民者が、一方日本国家のピラミッド構造のなかでは被害者であると自分自身を意識し、そのため損な役まわりを引き受けているという気持ちがとても強かったことだろう。単にかれらが意識していたというばかりではなく、実際においても、他の国(特に「満州国」)への植民者のばあいは少しちがう面があるが、とくに朝鮮植民者のばあい、もともと専制権力下の日本社会からはじき出され、あるいは自らドロップアウトした人々であることが確かに少なくない。しかも強引に朝鮮社会に侵入するかれらが、当然に朝鮮人の敵意に取り囲まれるとき、かれらはおのれの地歩を保つために、なりふりかまわず国家にたより、手をよごさざるをえなかった。そういう植民者の生活の条件自体、考えてみれば、物質的にはともかく精神的には確かに快適というより陰鬱そのものである。

 そして、そういう条件に耐えて自分たちこそが「お国のために」第一線で苦労しているのだというひそかな自負が生まれるとき、「大日本帝国」の安全な本国で自分たちのおかげでぬくぬくと暮らしている連中に文句をいう資格はないということになり、またこの苦労が分かるわけがないということになるのである。「内地の者はなにも知らないから勝手なことをいう。現実はそんな甘いものではない」ということばは、事実そういう植民者の構造の上に安住しているかぎりの「内地の者」の口を封じてしまう威力を発揮してきたのであった。

●「善良」な日本人

 一九四五年(昭和二〇)年敗戦の時点でも、確かにドラスチックな生活変動は、とりわけ植民者に、「引き揚げ」という形でもっとも極端にあらわれた。その苦労についての被害者意識のみに色どられた手記の類がちまたに氾濫し、戦後における旧植民地認識の骨格を形成するほどの影響力を持ったことは周知のとおりである。そこでは、それ以前のすべての加害体験はきれいに水に流されており、残るのはせいぜい「アカシアの大連」というような懐旧の念だけであった。(▼9)




 こうして一旦人間の意識のなかに形作られた姿勢は、放置すればとめどなく存続する。敗戦後日本に引揚げてからも、ずっとそのままという場合すらある。前記藤井寛太郎の娘である猪原とし子が一九六一(昭和三六)年に自費出版した『嘗の隣邦朝鮮の事ども』は、その最も正直な典型である。そこで彼女は、「朝鮮では雑穀の主食化が普通で、朝鮮人はむしろ米食よりこの方を好む」と主張し、それなのに「日本は朝鮮に対して大いに搾取政治を行ったように記す、実情を少しも知らぬ机上学説のおそろしさ」と慨嘆する。彼女は解放後朝鮮人が日本人の恩恵を忘れたようにふるまっているのは心外であると、何回もくり返して書き、「飼い犬に手をかまれたようなものだ」という。植民地社会は、人をそれほどまで独善的にしか考えられなくしてしまうのである。

●朝鮮の「愛」し方

 ところで、このように朝鮮人を侮蔑しながら、在朝日本人は、自分たちほど朝鮮を深く愛しているものはないと信じて疑わなかった。その傾向は、植民地統治の後半期に入り、朝鮮生まれの日本人二世が育つころになるといっそう強まっていく。とりわけ熱烈にみずからの「愛情」を語っているのは、藤井・猪原のような地主や初期居留商人とソウルに住むエリート・インテリに二分される。(▼10)




(3-3) 平岡敬の朝鮮体験

 梶村は、「植民者の歴史的体験の再生の回路は」「植民者の自己否定の問題だけをくり返し書き続けた故小林勝の「朝鮮をなつかしいといってはならぬ」という言葉」「のなかにだけ含まれている」(▼11)と指摘する。その意味で、戦後日本の朝鮮史研究の先覚者として、晩年まで学究と実践を続けた旗田巍や、1960年代から被爆朝鮮人への取材と支援を行ってきた、元広島市長の平岡敬が、ともに在朝日本人二世であることは、かなり示唆的であると思う。旗田は『朝鮮と日本人』(▼12)で、平岡は『偏見と差別――ヒロシマそして被爆朝鮮人』(▼13)で、それぞれ朝鮮体験を語っている。非常に長くて恐縮だが、このうち後者を取り上げてみたい。同書は、梶村の言う自己否定をなしえた稀有な日本人の記録としても、現代において読み直す価値があると思う。


私の朝鮮体験

 一九四五(昭和二十)年八月六日――広島市に原爆が投下されたその日、私は学徒動員で朝鮮咸鏡南道興南府にあった日本窒素興南工場で働いていた。アルミニウムの原料である水酸化アルミナという白い粉末を作る仕事であった。引き揚げの時に、リュックの底に入れて持ち帰った当時の日記がある。新聞が遅れて届いていたせいか、原爆に関する記述が現われるのは六日後のことだ。

 「八月十二日(日)晴れ 雄基にソ連軍が侵入したという。氷の張りつめた龍水湖や鈴蘭の香に満ちた寛谷が、少年の日の思い出と重なってよみがえる。あと三五〇キロ。……僕も“斬り込み”というものをしなければならぬのだろうか」

 雄基は、私が少年時代の一時期を過ごしたソ連国境に近い港町である。日記はこのあと広島に落とされた“新型爆弾”にふれ「相当の被害があったらしい。わが国は米国に抗議したという」と、簡単に記録している。その前後、私の関心はソ連参戦によって身近なものとなった“死”に集中しており、それについての未熟な思考が黄色に変色したノートに書き連ねてある。

 読み返してみて、“朝鮮”が“日本”に対立するものとして私の意識の中に現われてくるのは、八月十五日以降である。それまでは、私にとって朝鮮は“私の山河”であり、朝鮮人は「内鮮一体」理念に基づく“同胞”であった。それは日本人をAとするなら朝鮮人はA’であり、決してAではなく、Bでもないということである。つまり度しがたい優越感にささえられた寛容さをもって、朝鮮人をA’として認識していたのである。何人かいた朝鮮人級友たちと寮で一緒に生活しながらも、私は被圧迫民族の深い苦悩を感じとることはなかった。彼らを“朝鮮人”として認識していなかったことの意味をいま考えると、このような私的な体験を告白することから始めねば、私にとっての“朝鮮”は無意味である。

 「八月一八日(土)晴れ 明日、京城へ向かう最後の貨物列車が出る。Kは近くの農家で布団と米を交換した。炊いて食う。街はビラの氾濫。……曰く“日本帝国主義の陰謀暴露”“日本人即時撤去”“朝鮮独立万歳”“警察と憲兵を葬れ”“民主国家建設に結集せよ”“解放軍歓迎”u・s・w。ソ連軍は清津にも、元山にも上陸したという。この興南にも明日か明後日にはやって来るという流言が飛ぶ。とにかく大変なものらしい――というのは北から逃げて来た人たちの話である。朝鮮人の級友たちは一室に集まって、歌を歌っている。“螢の光”のメロディーでもの悲しい。朝鮮語の歌詞はよくわからないが、何でも愛国歌だそうだ。……彼らが急に僕たちによそよそしくなったような気がするのは、主客顛倒した敗者のひがみ根性からだろうか。(後略)」

 朝鮮人級友たちと理解し合えたと思い込んでいたのは日本人の側だけであった。表面は仲良くしながらも、彼らの心の奥底までを理解してはいなかったのだということを私が知らされたのは、敗戦後、街角のビラを見てからである。“八紘一宇”の教育を叩き込まれて来た私にとって「日本帝国主義」という文字は別の世界のことばのようであった。

 敗戦の日の夜、私は灯火管制の解除された夜景の美しさに酔っていたが、朝鮮人級友たちは「朝鮮は独立するんだ」と言い残してどこかへ出かけて行った。私たち日本人は「国体は護持されました」と繰り返すラジオ・ニュースを聞きながら、死ななくてすんだという安心感と、これからどうなるのかという不安感の交錯する中で、いろいろなことを話し合ったが、事態を正確にとらえていたとは言いがたかった。

 たとえば「これからおれたちは、朝鮮で居留民として生活するんだな」と言う友人もいたのである。その認識の甘さを、私は笑うことができない。そこには他民族を支配したことへの反省も、被支配者の苦悩への理解もなかった。私たちには「自分は朝鮮人に対して何も悪いことをしていない」という意識が、多かれ少なかれあったように思う。そして、これが平均的な日本人の考え方であったのではないか。

 個人としてどうあろうとも、日本人の一人であり、日本の支配体制に組み込まれて生きてきた以上、その民族の歴史的責任の一端を引き受けなければならないということに私が考え至ったのは、朝鮮からの引き揚げ船の看板の上でであった。(▼14)



(次回に続く)


▼6 平野洋、『ドイツ・右翼の系譜―21世紀、新たな民族主義の足音』、現代書館、2009年、pp.53-54

▼7 同上、pp.55-56

▼8 同上、p.58

▼9 梶村秀樹、「植民地と日本人」、『梶村秀樹著作集 第一巻 朝鮮史と日本人』、明石書店、1992年、pp.194-196

▼10 梶村秀樹、「植民地朝鮮での日本人」、前掲書、p.236

▼11 同上、p.242

▼12 「私の朝鮮体験」、旗田巍、『朝鮮と日本人』、勁草書房、1983年、pp.318-330

▼13 「被爆朝鮮人の怒りと悲しみ」、平岡敬、『偏見と差別――ヒロシマそして被爆朝鮮人』、pp.118-186

▼14 前掲書、pp.118-121

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