スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments:-

Comment Form

Trackback+Pingback:-

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/25-28f4c146
Listed below are links to weblogs that reference
スポンサーサイト from media debugger

Home > スポンサー広告 > 「非国民」から「国民」への解放――差別からの脱却という同化志向 (前半)

「非国民」から「国民」への解放――差別からの脱却という同化志向 (前半)

 今週(10月2日)号の『週刊金曜日』の読者欄に、「「非国民」とはいやな言葉だ」という投書が掲載されている。投稿者は60代の聴覚ショーガイシャの男性である。投書は、学校教育で「日の丸・君が代」が強制されることによって、「君が代」を歌わない教員が生徒や親から「非国民」と名指される風潮が強まっていることへの危惧に始まり、「非国民」とはいやな言葉だ、と続く。その理由は、ショーガイシャが戦時中「非国民」として差別されていたためで、投稿者はその歴史が繰り返されることに危機感を抱いているのである。投稿者は、続いて「障害者自立支援法」に象徴される、現在も続くショーガイシャへの制度的・社会的差別を語り、ショーガイシャは一体いつになったら「非国民」から解き放たれ、真の「国民」になり得るのか、と慨嘆している。

 私には『金曜日』の読者が本誌に何を求めているのかを窺い知ることはできないが、少なくともこの読者にとっては、「愛国左派」(日本人原理主義左派)路線を掲げる『金曜日』は、文字通り「癒し系」メディアとして機能しているのだろうと思う。もっとも、最近の『金曜日』は「愛国左派」以前に得体の知れないカルト雑誌じみてきているが。佐藤優にいたっては連載企画で毎回霊と交信しているが(霊感商法?)、読者には特に異存はないのだろうか(と思っていたら、やはり異存はあるらしい。当たり前か)。

 それはさておき、投稿者は、兵役に就くことも軍需工場で働くこともできなかったショーガイシャは、戦時下では役立たずと罵られ、屈辱的な体験を強いられたと憤慨している。それでは、ショーガイシャが戦争に与する回路が開かれていさえすればよかったのだろうか?残念ながら、投書からはそうした問いを否定することはできないように思う(もちろんジェンダー的にも問題含みであるが)。ショーガイシャであったからこそ、差別もされたが、植民地支配・侵略戦争には加担しなかったという、マイノリティが選び取りうる矜持は(事実そう言い切れるかどうかは厳しい検証が必要だとしても)、かつて横塚晃一(「青い芝の会」)が「内なる健全者幻想」と呼んだ同化志向によって、その芽を始めから摘み取られているのである。

 ショーガイシャは「非国民」から「国民」へと解放されなければならないという投稿者の主張は、端的に言って、自分たちが外国人扱いされるのは心外だという意思表示である。日本人としての特権は自明視した上で、ショーガイシャをその特権階級から排除しないでほしい、と言っているわけだ。

 あくまで推測だが、現在の『金曜日』や『世界』などの左派論壇を(辛うじて)支えている読者の多くは、こうした「国益」論的価値観を多分に内面化した日本人「マイノリティ」ではないだろうか。この場合の「マイノリティ」というのは、ショーガイシャや性的少数者など、マジョリティの文化に日常的な息苦しさを感じざるを得ない人々に留まらず、自らを「マイノリティ」と規定する人々の総体を指す。これは必ずしも個人的な偏見ではないと思うのだが、左派は(右派も)自らの属性とは無関係に自己を(内面的)「マイノリティ」と見なす傾向が強いようなので、上の投稿者の訴えも、「国益」論的価値観に適合的な「マイノリティ」にとっては、「連帯」の呼びかけとして受け止められる可能性が高いと思う(もちろん、そこではケンジョーシャとショーガイシャの差異を無化することが「連帯」の前提になっている。言うまでもなく、マジョリティとマイノリティの差異を無化する「連帯」はマジョリティの責任を全面的に解除する)。こうして、日本人マイノリティによる「差別」との闘いが、外国人をより社会の周縁に固定化するという事態が進行するわけである。

 もっとも、日本人マイノリティが「国民」への包摂を強烈に希求するのは、ショーガイシャに限ったことではない。新川明が「「非国民」の思想と論理」(▼1)で鋭く指摘したように、「琉球処分」後の沖縄において、上からの皇民化政策に対応する下からの日本同化が推進されたのは、制度的な差別をともなう施策(地租改正、府県制・郡制の施行、参政権の実施など、「廃藩置県」にともなう地方制度の改革の意図的・政策的な遅延)が、「支配の側の意図をはるかに上回って、一見すれば反体制的とみられる運動も含めて、このような差別的施策の大きさに対応して、沖縄内部から「差別からの脱却」を強く求めさせ、沖縄の内側から積極的な日本同化へのエネルギーを引き出すように機能(▼2)(強調は著者による。以下同様)した帰結であった。新川は、沖縄における「差別撤廃運動」は、「日本ナショナリズムの否定=天皇制国家否認の思想的前提に立たない」「限りにおいて、それは差別をともなわせることでより効果的にすすめられた皇民化=日本同化を、差別からの脱却という形で沖縄の内側から補完していく役割をもつものであったことは否めない」(▼3)と述べている。

(後半に続く)


(▼1) 「「非国民」の思想と論理」、新川明、『反国家の兇区――沖縄・自立への視点』、社会評論社、1996年、pp.61-140

(▼2) 同上、p.119

(▼3) 同上、p.122

Comments:0

Comment Form

Trackback+Pingback:0

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/25-28f4c146
Listed below are links to weblogs that reference
「非国民」から「国民」への解放――差別からの脱却という同化志向 (前半) from media debugger

Home > 日本人原理主義/レイシズム > 「非国民」から「国民」への解放――差別からの脱却という同化志向 (前半)

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。