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風鈴草 伊勢崎氏の「純朴」 URL 2010-02-22 (月) 16:32

(原因はわかりませんが、どうやら、最初に書いたコメントだけが入らないようですので、最後にもう一度だけ書き直したのを入れさせていただきます)

>伊勢崎の脳内においては、戦争責任とはどうやら第三世界にしか存在しないらしいのであった。

「戦争犯罪を見逃すのかどうか?」と悩むふりをしても、あくまで“当事国の国民同士の間”の「殺し、殺された関係」だけを問うていて、そもそもの始めにそこに介入して混乱を引き起こし、時には直接その国の人々を虐殺して来た先進大国(とその同調者)の責任は棚上げですからね。

>伊勢崎が「破綻国家」で飯を食うためのスポンサーが「先進国」であり、したがってスポンサーへの批判はタブーであるという、さらにろくでもない事情があるのだと思われる。

本当にm_debuggerさんは思い切ったことをズバリと言い切られますね。小心者の私などは、「これって何だかおかしい」と疑問には思っても、なかなかそこまでの言葉は出て来ないのですが、言われてみればそれが真実に近いような気がします。

こういう人物について、例の護憲ブロガー氏もですが、伊勢崎氏の本の出版に関わった編集者の方のブログの、伊勢崎氏の「純朴」を誉めたたえるエントリーにもほとほと呆れました。

>テレビを見ながら思ったことは、伊勢崎さんの純朴さ。それにつきる。
>紛争をなくすために犯罪者を免責することはよくあることだが、それでは紛争の種がまかれるだけではないかと、心から心配している。いろいろな苦闘、悩みが正直に顔に出る。一言でいえば「純真」。
>でも、だからこそ、心に響く言葉が発せられるのだ。何事も政治的に見てしまう習慣がついた私のようなものには、まぶしく感じられる。

この方の言うことが本当なら、伊勢崎氏に「大国(強国)のエゴに振り回され、犯され続けて来た弱小国の現実」が見えない(歴史認識が無い)のは、子供のように「単純素朴で純真」だからなのかもしれませんが、もしそうだとすれば、一体、そんな人に何を任せられるというのでしょう?

m_debugger Re: 伊勢崎氏の「純朴」 URL 2010-02-23 (火) 22:58

>風鈴草さん

>小心者の私などは、「これって何だかおかしい」と疑問には思っても、なかなかそこまでの言葉は出て来ないのですが、

これは新刊を読むと、もっとよくわかると思います。読中感・読後感が最悪なので、あまりお勧めできませんが(笑)。

伊勢崎に限らず、左派が批判をタブー化しているらしい人物は多いので(このブログでは高橋哲哉の「転向」を取り上げましたが、まだまだたくさんいます)、風鈴草さんのように、そうした状況に疑問や違和感を持たれている人は少なくないと思います。

ご紹介の「例の護憲ブロガー氏」が典型例ですが、一部の左派の感覚は、一般レベルでは到底理解できない世界に行ってしまったようですね・・・。せめてもの救いは、主張があまりにも支離滅裂なので、対外的な(社会的な)影響力が自ずと限られてくる、というところでしょうか。内部はこれまでに輪をかけておかしくなってきていますが。

>この方の言うことが本当なら、伊勢崎氏に「大国(強国)のエゴに振り回され、犯され続けて来た弱小国の現実」が見えない(歴史認識が無い)のは、子供のように「単純素朴で純真」だからなのかもしれませんが、もしそうだとすれば、一体、そんな人に何を任せられるというのでしょう?

仰る通りだと思います。ブロガー氏が「何事も政治的に見てしまう習慣がついた私のようなものには・・・」などとわざわざ書いているのは、ご指摘のような正論を、「何事も政治的に見てしまう習慣」として、あらかじめ無化しようとしているのかもしれませんね。伊勢崎を批判する人間は、「政治的」にすぎて「純真」さを失っているとかなんとか。「単純素朴で純真」な疑問ですが、この人は何のために「護憲ブログ」をやっているのでしょうね?

aya URL 2011-07-03 (日) 11:48

アフガニスタンの恩赦法について調べていたところ、たまたまこのページにたどり着き、少しコメントを残させていただきます。
人の考えは様々で、それは個人の自由ですが、あなたの言っていることは伊勢崎氏の言葉を変に屈折させているだけのように思えます。
伊勢崎氏は北朝鮮を"テロリスト"だなんてまったく思っていませんよ。例えの問題です。
アフガンについて一般市民の命が奪われることも仕方がないと言っているのは、彼は様々な、第一線の現場で私たちの見ることのできない「現実」を見てきたからこその言葉です。彼が第一に市民の命を考えているのは、実際に会ってみればわかります。
実際の現場に入っている人間にしかわからないことや、考えの重みがあるのでしょう。本やメディアで情報を得るだけでは及ばない考えです。
また彼はアメリカなどの先進国否定もしますよ。本だけで感じ取れることは少ないものです。

突然のコメント、失礼いたしました。

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Home > スポンサー広告 > 「伊勢崎構想」で何が問われているのか――植民地支配・侵略戦争・戦後責任

「伊勢崎構想」で何が問われているのか――植民地支配・侵略戦争・戦後責任

 前回に引き続き、再び「伊勢崎構想」について、伊勢崎賢治著『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版、2008年3月)および、伊勢崎賢治編『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』(高文研、2008年4月)より。伊勢崎のこれらの著作は、どのページをめくっても不愉快さから逃れられないが、その根本的な原因は、おそらく伊勢崎の歴史認識(というものが伊勢崎に仮にあればだが)にあると思う。この点は、「伊勢崎構想」を評価する際の決定的なポイントである。今回はそのことについて述べてみたい(文中の強調はすべて引用者による)。


●「伊勢崎構想」で何が問われているのか

 アフガニスタンから帰国後、「護憲派宣言」(「バルフォア宣言」の仲間か?)をした伊勢崎は、「とにかく少し変わった護憲派があらわれたということで、突然、いろんな人たちから接触を受けることにな」(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、p.16)り、「九条の会」の本部や、「民主党のリベラルの会からも、共産党からも取材があった。部落解放同盟からも」(p.16)取材を受けた、と語っている。部落解放同盟とのつながりをさり気なくアピールすることで、伊勢崎は左派からの批判を封じようとしているのかもしれないが、部落解放同盟の指導部が、8.15以後も全国水平指導部の侵略責任を否認し続け、「PKO協力法」の成立と維持に協力してきた人々の集まりである(▼1)ことは、思い起こす必要があるだろう。

 このことは、植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任の徹底的な否認と未清算の上に成立している、「平和国家」日本という巨大な欺瞞を、伊勢崎や伊勢崎を支持する人々が共有していることを示す、一例にすぎない。「伊勢崎構想」で問われているのは、「非武装」自衛隊による「平和構築」の可能性を積極的に評価するかどうかということではない(▼2)。それは、日本国家/日本人の植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任に、私たちがどのように対峙するかが、直接問われる命題であると思う。

 伊勢崎は、シエラレオネでRUF(革命統一戦線)の「指揮官も含む全員が恩赦の対象」(p.50)とされた(ただし、伊勢崎も言及しているように、シエラレオネ特別法廷による一部戦犯の追及も行われている)ことについて、次のように述べている。


 武装解除は完了したので、これから当面は、武力紛争は起きないかもしれない。けれども、戦争で人を殺しても問題にならない、裁かれないのだという意識が植え付けられれば、戦争を再発させる土壌をつくってしまうのではないだろうか。間違ったメッセージを次の世代に発してしまうのではないだろうか。(p.51)



〔前略〕ロメ合意で、一時的にでも完全恩赦を与えたという歴史的事実、それがもとで今の和平があるという事実は、これからシエラレオネ社会の倫理回復にどういう影響があるのだろうか。(p.52)


 「戦争」を「侵略」に、「ロメ合意」を「天皇制存続」に置き換えれば、どう考えても、ほとんど日本そのままである。しかし、伊勢崎の脳内においては、戦争責任とはどうやら第三世界にしか存在しないらしいのであった。それどころか、伊勢崎は「二〇〇七年の三月にアフガニスタン国会で可決された「恩赦法」」について、「タリバンとの和解は、現実味を持った話である」(p.124)とした上で、本書の「あとがき」を次のように結んでいる。


 〔前略〕日本人が、“テロリスト”との和解を、単に自衛隊派遣に反対するためだけの対案として扱うことは不謹慎である。その不謹慎さに気づくには、われわれ日本にとっての北朝鮮問題に当てはめて考えるといいだろう。

 拉致問題という、日本人が直接の被害者である北朝鮮という存在を、横田めぐみさんのご両親の顔を思い浮かべながら、それでも平和のために赦さなければならない場面がきたら、どうするか…。

 この真剣さと「当事者意識」をもって、アフガニスタンにとっての「究極の選択」の支援を、「対テロ戦」の将来を、われわれ日本人は考えていかなければならないと思う。(p.159)


 伊勢崎いわく、「われわれ日本人」にとって、「対テロ戦」への「真剣さと「当事者意識」」とは、「北朝鮮という存在」が「“テロリスト”」であることを繰り返し確認する作業によって、適切に培われるであろう礼儀作法なのだそうだ。一方、伊勢崎にとって、「われわれ日本」「という存在」は、以下のように定義(妄想)されている。


 アフガニスタンの軍閥は、われわれが行くと、例外なく言う。「日本だから信用しよう」と。

 アフガニスタン人にとって日本のイメージは、世界屈指の経済的な超大国で、戦争はやらない唯一の国というものだ。もちろん、アフガニスタン人の軍閥が憲法九条のことなんて知るはずもない。しかし、憲法九条のつくりだした戦後日本の体臭というものがある。九条のもとで暮らしてきたわれわれ日本人に好戦性がないことは、戦国の世をずっと生き抜いてきた彼らは敏感に感じとる。そういう匂いが日本人にはあるのだ。これは、日本が国際紛争に関与し、外交的にそれを解決する上で、他国には持ちえない財産だといえる。そういう日本の特性のおかげで、僕らは、他国には絶対できなかった事をアフガニスタンでできたのだ。(p.67)


 ・・・・・・素朴な疑問だが、左派はこんな人物に何を期待しているのだろうか?伊勢崎を支持する(あるいは否定できない)左派は、植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任の否認と未清算の上に成立している、「平和国家」日本という欺瞞を批判するよう、今からでも努力するべきだと思う。


●「破綻国家の復興業界人」ですが、何か?

 伊勢崎は自らをプロの「紛争解決人」と称し、左派の一部もそうした自称を無批判に受け入れているようだが、伊勢崎は「紛争解決人」というより、「破綻国家の復興業界人」と呼ぶに相応しい。これは私の中傷ではなく、本人の言葉を借りて言っているのである。


〔前略〕冷戦後、一九九〇年代以降は国内の内紛がそのまま武力衝突になって、国家が破綻するというケースが増えてきました。どうしてそうなったのかについては、いろいろ議論があると思いますが、そうした事例が増えたことは間違いありません。

 それとともに、いわゆる破綻国家に対して、内戦処理や復興のため「国際協力」ということでお金がたくさん動くようになった。一九六〇年代以降にはアフリカ諸国が相次いで独立していきますが、その当時には国際社会がその国づくりや民主主義の育成に、そんなに労力を注ぐことはありませんでした。しかし、今日は様相が異なって、国際社会が破綻国家のまま放置するということはなくなりました。あわせて、「復興」にあたっては、大きなお金が動くひとつの「業界」が作られるようになりました。そういう背景の中で、DDRという概念が生まれてきたのです。(伊勢崎賢治、『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』、高文研、2008年、p.40)


 「破綻国家」の定義もせずに、「破綻国家」が増えた原因は「いろいろ議論があると思います」も何もないだろうが、とりあえず、伊勢崎が「破綻国家」の「復興」「業界」人であることは、これで裏が取れた。伊勢崎が、朝鮮に対する日本、東ティモールに対するオーストラリア、シエラレオネに対する英国、アフガニスタンに対する米国(▼3)の歴史的責任を黙殺しているのは、伊勢崎が単に植民地主義者・帝国主義者である(▼4)からというだけでなく、伊勢崎が「破綻国家」で飯を食うためのスポンサーが「先進国」であり、したがってスポンサーへの批判はタブーであるという、さらにろくでもない事情があるのだと思われる。

 また、これは今さらだが、伊勢崎が「護憲派」を自称しているのは、伊勢崎の憲法9条観ではそもそも改憲自体が必要ないからである。


 日本国憲法は、世界の紛争に対し、傍観せよという立場をとっていない。

 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

 憲法前文が示しているのは、傍観主義ではない。積極的な行動平和主義ではないだろうか。そして、人の命を守るために軍事力が必要になる局面がある現実を踏まえ、憲法にそった平和のための軍事支出があり得ると考えるべきではないのだろうか。(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、p.77)

 

 日本にとって最も重要な判断基準は、憲法九条にもとづく外交力という特徴が維持、活用できるのかどうか、ということになると思う。派遣することによって、それが台無しになるなら、それは日本の国益にならない。(p.102)


 伊勢崎賢治は、「国益」論的再編成を経た左派が必要とする、「憲法9条」を持つ「平和国家」日本の、「対テロ戦争」のイデオローグである。佐藤優と伊勢崎賢治の需要は必ずしも重なってはいないだろうが、両者を必要とする欲望は、半ば以上重なっているように思う。


●植民地支配責任・侵略戦争責任・戦後責任

 伊勢崎が、2007年11月5日の「衆議院テロ特別委員会における証言と質疑」において、次のような発言をしていることは、北朝鮮に対する先の発言と合わせて、伊勢崎の言説を評価する上で、広く知られてしかるべきだろう。


〔前略〕DIAG〔注:「DDRの後継プロジェクト」である「非合法武装組織の解体」〕を通じて、とにかく武装勢力と何らかのつながりがある、それが証明されただけでその政治家は罷免するような法案を通さなきゃいけません。これは大変に困難な作業であります。もちろん、その反動も来ます。その代償として、少し一般市民の命も奪われるでしょう。でも、この痛みを経ないとアフガンは浄化されません。これが、今の世界テロ戦の行き詰っている元凶なわけであります。(pp.150-151)


 伊勢崎が新刊でもこうした主張を明確に掲げているのかはわからないが、その後も発言を公的に撤回していないなら(たぶんしていないと思うが)、こうした主張は今でも有効だと考えてよいだろう。伊勢崎が第三世界の民衆の生を徹底的に見下していることは、まったく誤解の余地がない。伊勢崎を支持する左派は、この発言にも異議を唱えないというのだろうか?たとえ、この発言を知らずに伊勢崎を支持しているのだとしても、「対テロ戦争」を肯定し、それに協力することは、結局のところ、第三世界の民衆の命を奪う(「浄化」する!)ことを肯定し、それに協力することではないのか。

 「伊勢崎構想」をどう評価するかは難しい問題だ、という意見が左派系ブログでも散見されるが、私は何も難しい問題などないと思う。「伊勢崎構想」を否定するのに複雑な論理は必要ない。日本国家/日本人による、過去の、現在の、そして将来の侵略を、これ以上許し続けるのか。そのことが端的に問われている。


▼1 「一九二二年三月三日に、京都で全国水平社創立大会がひらかれた。

 日本の被差別部落民衆が団結して、みずからを解放しようとして全国水平社を結成したことは、日本の民衆運動に大きな意味をもつことであった。

 全国水平社の創立は、おおくの日本の被差別部落民衆の解放にむかう力をさらにつよめていく契機となるものであった。

 しかし、「七・七事変」以後、全国水平社は、日本の民衆を部落差別から解放する組織ではなく、「東亜共同体建設」「挙国一致」「国民融和」をかかげて、被差別部落民衆をアジア侵略にむかわせる組織となった。

 全国水平社に結集した被差別部落民衆は、創立大会では、「人生の熱と光」を「願求礼賛」し、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と宣言したが、その約一七年後、一九三八年一一月の一五回大会では、「水平歌」ではなく「キミガヨ」をうたい、会場正面に荊冠旗ではなく「ヒノマル」をかかげ、
  「日本民族の崇高なる使命として東亜共同体建設の雄大なる偉業が樹立されんとするの秋、挙国一致の完璧を期し国家総力の発揚に努め、以て天業翼賛の誠を竭すことは融和報国の赤誠に燃ゆる吾等の本懐とする処である」
と、宣言した。(1)

 一九九二年は、全国水平社創立七〇周年であった。だが、この年にいたってもなお、全国水平社が、アジア太平洋の民衆にたいしてだけではなく、解放をもとめる被差別部落民衆にも敵対する組織になっていた事実をかくそうとする人びとがすくなくなかった。そして、それ以後も、その試みはつづけられている。

 全国水平社が、民衆の解放をさまたげる組織となったのは、なぜなのか。全国水平社が、アジア民衆の反日民族解放闘争に敵対する組織となったのはなぜか。それをはっきりさせなければならない。

 そうしなければ、同じあやまちがくりかえされる。

 じじつ、その兆候は、一九八九年にも、一九九二年にもあらわれている。(2)」(キムチョンミ、『水平運動史研究――民族差別批判』、現代企画室、1994年、pp.39-40)

「(1)全国水平社総本部『第十五回大会報告』一九三八年一二月一五日。
 この水平社宣言の起草者は明らかになっていないが、大会当日、草案をよみあげたのは、井元麟之であり、満場一致で可決されている。

(2)一九八九年一月、部落解放同盟委員長上杉佐一郎と部落解放同盟機関紙は、ヒロヒトの死を「哀悼」し、天皇(制)承認の意思を表示した。

 一九九二年六月一三日、「PKO協力法」が国会を通過するか否かの決定的な時点に、部落解放同盟和歌山連合会は、同年七月の参議院選挙に和歌山県の現職自民党議員を推薦することを公表し、「PKO協力法」成立・維持に協力し、日本軍出兵に加担した。このとき部落解放同盟委員長上杉佐一郎は、「これからの人権運動にイデオロギーは必要ない」「お世話になった人に恩返しをしなければならない」とのべたという(『朝日新聞』一九九二年六月一四日、および『読売新聞』同日付)。その一〇日ほどまえに、部落解放同盟和歌山県連は、一万五千五百人の「支援者名簿」をその自民党議員にわたしていた(「「社党」の「友」が自民推薦」、『毎日新聞』一九九二年七月二日夕刊)。さらに同月二三日に部落解放同盟大阪府連は、参議院選挙で、PKO問題を中心問題としないという意志を、連合大阪、社民党大阪府連、民社党大阪府連らとともに表明した。」

 「部落解放同盟委員長らが「PKO協力法」立法を強行する自民党の議員を推薦した理由は、その議員が自民党地域対策特別委員長であり、「地対財特法」(「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」)の五年延長に大きな役割をはたしたから、というものであった(上杉佐一郎「真の〔ママ〕部落解放〔ママ〕をめざし」、『解放新聞(福岡版)』一九九二年一〇月一五日)。一九九二年に、被差別部落民の生活向上(「地域改善」)のためと称して、部落解放同盟委員長らは「PKO協力法」成立・維持(日本軍出兵)に加担したのである。」(前掲書、pp.40-41)

▼2 ネット上の書評を読むと、伊勢崎は、新刊『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』で、「武装」自衛隊を派兵しないためにも「非武装」自衛隊の活用が必要である、という珍説を展開しているようだが、まったく白々しい話である。そもそも、伊勢崎はハイチへの「武装」自衛隊の派兵にすら、ろくに反対していないのではないのか?

▼3 「多民族間で武力闘争を繰り返してきたのがアフガニスタンの歴史です。そうした複数の武装グループを「軍閥」と呼びますが、普段は仲が悪い彼らも、共通の敵を持った時には一時的に団結する時がある。それが、日本もモスクワ・オリンピックをボイコットすることで抗議表明したソ連の軍事侵攻(一九七九年)で、外的ソ連に対する聖戦です。ソ連が撤退(一九八九年)すると、また内戦状態になり、その混乱に乗じてタリバンが台頭する。そこで二〇〇一年の同時多発テロに対するアメリカの報復攻撃に協力し、タリバンを相手に「北部同盟」として対テロ戦を戦い、タリバンを崩壊させました。

 ここでアメリカは考えるわけです。なぜアフガンの地が、アメリカを本土攻撃するようなテロリストを生んだのか?それはこの地が、内戦に明け暮れた群雄割拠の歴史だったからだ。だから、二度とそうさせないためには、この地に安定した政権、それも親米の統一政権をつくらなければならないと。」(『日本の国際協力に武力はどこまで必要か』、pp.20-21)

 「〔前略〕とにかくアメリカが対テロ戦の戦略として、根本に考えているのはアフガニスタンの安定なのです。アフガニスタンを安定させる土台として、SSR(治安分野改革 )があり、その上に対テロ戦がある。アフガン内政は依然として流動的であり、カルザイ政権につくことがいいことなのだと住民が理解しないと、タリバンの方へ行ってしまう。なにしろ国の人口の半分近くがタリバンを生んだパシュトゥーン部族系なのですから。つまり、対テロ戦とは、アフガンの内政問題なのです。

 そのことを一番よく知っているのが、自ら血を流しているアメリカなのです。OEF(不朽の自由作戦)を続行しながら、コラテラル・ダメージを制御できず、それで敵を増やしながら、同時にアフガンの安定を考えなければならないアメリカの苦悩を、なぜ理解しようとしないのか。」(前掲書、pp.35-36)

 「ここで問われているのは、「正義」か「平和」か、という問題です。シエラレオネとアフガニスタンはどちらもアメリカが介入しました。シエラレオネでは、戦費を全く使わない方法、つまり「正義」に妥協し、「平和」をもたらしました。一方、アフガニスタンの方は、テロリストを許さないという「正義」に妥協せず、いまだに莫大な戦費をかけて戦争を継続しています。アメリカの、いわゆるダブルスタンダードです。」(前掲書、p.52)

 ・・・・・・どの文章を読んでいても急速に意識が遠のいていくが、伊勢崎を支持している左派は平気なのか?

▼4 例えば、伊勢崎はエルサレムについてこんなことを述べている。

 「当時〔注:1990年代後半〕、これらと平行して、僕はかなり中東問題に入れ込んでいた。後に首相になったオルメルトがエルサレムの市長だった時に、そのエルサレムの都市としての多重統治の可能性について、世界から英知を集めるというシンポジウムを企画していた。その温厚な性格から中東で尊敬を集めていた隣国ヨルダンのハッサン皇太子を呼びかけ人にして、ドイツのベルリン、ベルギーのブラッセル、キプロスのニコシアや北アイルランドのベルファストとか、一つの都市を複数の権力が統治している、もしくはその経験があるところの関係者を集め、都市の多重統治というテーマの国際会議を当のエルサレムで開催しようとしていたのである。民族分断の象徴である聖都エルサレムでこのテーマを広く議論し、パレスチナ問題にアカデミックな立場から一石を投じようとしたのである。」(『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』、pp.24-25)

 エルサレムを支配している「複数の権力」と、それによって「分断」されている「民族」とは、いったい何を指しているのだろうか?伊勢崎は、「一つの都市を複数の権力が統治している、もしくはその経験があるところの関係者」、すなわち、アジアの都市を侵略し、民衆のレジスタンスを受けた「経験があるところの」大日本帝国の「関係者」として、「世界」の「英知」に加わろうとしていたのだろうか?

Comments:3

風鈴草 伊勢崎氏の「純朴」 URL 2010-02-22 (月) 16:32

(原因はわかりませんが、どうやら、最初に書いたコメントだけが入らないようですので、最後にもう一度だけ書き直したのを入れさせていただきます)

>伊勢崎の脳内においては、戦争責任とはどうやら第三世界にしか存在しないらしいのであった。

「戦争犯罪を見逃すのかどうか?」と悩むふりをしても、あくまで“当事国の国民同士の間”の「殺し、殺された関係」だけを問うていて、そもそもの始めにそこに介入して混乱を引き起こし、時には直接その国の人々を虐殺して来た先進大国(とその同調者)の責任は棚上げですからね。

>伊勢崎が「破綻国家」で飯を食うためのスポンサーが「先進国」であり、したがってスポンサーへの批判はタブーであるという、さらにろくでもない事情があるのだと思われる。

本当にm_debuggerさんは思い切ったことをズバリと言い切られますね。小心者の私などは、「これって何だかおかしい」と疑問には思っても、なかなかそこまでの言葉は出て来ないのですが、言われてみればそれが真実に近いような気がします。

こういう人物について、例の護憲ブロガー氏もですが、伊勢崎氏の本の出版に関わった編集者の方のブログの、伊勢崎氏の「純朴」を誉めたたえるエントリーにもほとほと呆れました。

>テレビを見ながら思ったことは、伊勢崎さんの純朴さ。それにつきる。
>紛争をなくすために犯罪者を免責することはよくあることだが、それでは紛争の種がまかれるだけではないかと、心から心配している。いろいろな苦闘、悩みが正直に顔に出る。一言でいえば「純真」。
>でも、だからこそ、心に響く言葉が発せられるのだ。何事も政治的に見てしまう習慣がついた私のようなものには、まぶしく感じられる。

この方の言うことが本当なら、伊勢崎氏に「大国(強国)のエゴに振り回され、犯され続けて来た弱小国の現実」が見えない(歴史認識が無い)のは、子供のように「単純素朴で純真」だからなのかもしれませんが、もしそうだとすれば、一体、そんな人に何を任せられるというのでしょう?

m_debugger Re: 伊勢崎氏の「純朴」 URL 2010-02-23 (火) 22:58

>風鈴草さん

>小心者の私などは、「これって何だかおかしい」と疑問には思っても、なかなかそこまでの言葉は出て来ないのですが、

これは新刊を読むと、もっとよくわかると思います。読中感・読後感が最悪なので、あまりお勧めできませんが(笑)。

伊勢崎に限らず、左派が批判をタブー化しているらしい人物は多いので(このブログでは高橋哲哉の「転向」を取り上げましたが、まだまだたくさんいます)、風鈴草さんのように、そうした状況に疑問や違和感を持たれている人は少なくないと思います。

ご紹介の「例の護憲ブロガー氏」が典型例ですが、一部の左派の感覚は、一般レベルでは到底理解できない世界に行ってしまったようですね・・・。せめてもの救いは、主張があまりにも支離滅裂なので、対外的な(社会的な)影響力が自ずと限られてくる、というところでしょうか。内部はこれまでに輪をかけておかしくなってきていますが。

>この方の言うことが本当なら、伊勢崎氏に「大国(強国)のエゴに振り回され、犯され続けて来た弱小国の現実」が見えない(歴史認識が無い)のは、子供のように「単純素朴で純真」だからなのかもしれませんが、もしそうだとすれば、一体、そんな人に何を任せられるというのでしょう?

仰る通りだと思います。ブロガー氏が「何事も政治的に見てしまう習慣がついた私のようなものには・・・」などとわざわざ書いているのは、ご指摘のような正論を、「何事も政治的に見てしまう習慣」として、あらかじめ無化しようとしているのかもしれませんね。伊勢崎を批判する人間は、「政治的」にすぎて「純真」さを失っているとかなんとか。「単純素朴で純真」な疑問ですが、この人は何のために「護憲ブログ」をやっているのでしょうね?

aya URL 2011-07-03 (日) 11:48

アフガニスタンの恩赦法について調べていたところ、たまたまこのページにたどり着き、少しコメントを残させていただきます。
人の考えは様々で、それは個人の自由ですが、あなたの言っていることは伊勢崎氏の言葉を変に屈折させているだけのように思えます。
伊勢崎氏は北朝鮮を"テロリスト"だなんてまったく思っていませんよ。例えの問題です。
アフガンについて一般市民の命が奪われることも仕方がないと言っているのは、彼は様々な、第一線の現場で私たちの見ることのできない「現実」を見てきたからこその言葉です。彼が第一に市民の命を考えているのは、実際に会ってみればわかります。
実際の現場に入っている人間にしかわからないことや、考えの重みがあるのでしょう。本やメディアで情報を得るだけでは及ばない考えです。
また彼はアメリカなどの先進国否定もしますよ。本だけで感じ取れることは少ないものです。

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