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Rawan URL 2010-04-10 (土) 13:12

はじめまして。
エントリー、面白かったです。

紹介論評にある純一の背景についての解釈に正解はないと思います。
たとえば、純一が自己の性的倒錯性に気付いていたために、女性(空気人形)との当初の付き合いが極度に無機質でぶっきらぼうであったという解釈も成り立ちます。

一般論ではありますが、近年の日本の映画監督は、重要な登場人物の個性について、あまりはっきりと描かないよう(メタであるかどうかでさえも非常に曖昧で分かりにくい)、意識的、無意識的に選択しているように私には思えます。
そういう技術面を一面では「うまい」と評価できる作品もありますが、情熱の発露としての芸術本来の力強さに圧倒させられるという感動を味わうことは難しくなります(たとえば、キム・ギドク、ポン・ジュノ、イ・チャンドンらの韓国映画などに比べると顕著です)。
人間の複雑さや鑑賞者の想像力に逃避することにより、(世論や社会的風潮などからの)自分への批判をもまた意識的、無意識的に回避しているように思えるのです。
マジョリティの価値観の中に埋没するメジャーな表現者のあり方が、その作品表現に実によく投影されているように私には思えます。

m_debugger URL 2010-04-10 (土) 22:08

>Rawanさん

コメントありがとうございます。

>たとえば、純一が自己の性的倒錯性に気付いていたために、女性(空気人形)との当初の付き合いが極度に無機質でぶっきらぼうであったという解釈も成り立ちます。

それも確かにありそうですね。なるほど。
韓国映画との比較もおっしゃる通りだと思います。『空気人形』と同じ第62回カンヌ映画祭<ある視点>部門に出品されたポン・ジュノの『母なる証明』も、登場人物すべてが病んでいる話だと思いますが、人間描写力が圧倒的に違いますよね。

>人間の複雑さや鑑賞者の想像力に逃避することにより、(世論や社会的風潮などからの)自分への批判をもまた意識的、無意識的に回避しているように思えるのです。
マジョリティの価値観の中に埋没するメジャーな表現者のあり方が、その作品表現に実によく投影されているように私には思えます。

この点も分析してみると面白そうですね。日本の映画は普段あまり観ないので、『空気人形』はある意味刺激的でしたが。ご指摘の傾向は文学全般にも言えるかもしれませんね。引き続き考えてみたいと思います。

- URL 2010-04-11 (日) 02:23

m_debuggerさん

返信有難うございます。

ポン・ジュノ監督の「母なる証明」は、昨年見た3指に入る作品でした。

ペ・ドゥナさんは、山下敦弘監督の「リンダ・リンダ・リンダ」で有名になったので日本でも比較的人気のある女優さんですが、
日本の監督にも彼女のファンが結構いるようで、是枝監督もその1人だと思います(どの程度「ファン」なのかはよく分かりませんが)。
彼女の作品では、ポン・ジュノ監督の長編デビュー作になる「ほえる犬は噛まない」、チョン・ジェウン監督「子猫をお願い」、パク・チャヌク監督「復讐者に憐れみを」の三作品が傑出していると思います。

>この点も分析してみると面白そうですね。日本の映画は普段あまり観ないので、『空気人形』はある意味刺激的でしたが。ご指摘の傾向は文学全般にも言えるかもしれませんね。引き続き考えてみたいと思います。

ざっくりですが、それを行ってもいます。
実は、そこでは以前m_debuggerさんのエントリーによってインスパイアーされたことが反映されている箇所があります。
お時間のあるときにでも覗いてみてください。↓

http://homepage3.nifty.com/kaikaikyo/sinemakatari_1.html#gekijyono

m_debugger URL 2010-04-12 (月) 21:58

>Rawanさん

サイトのご紹介ありがとうございます。大変参考になりました。実は『空気人形』を観たときには、是枝監督がこれほど人間を薄っぺらく描けるのは、もしかして人間への悪意からではないのかと疑っていたのですが、事態はそれより深刻なようですね。

 特に以下のご指摘には刺激を受けました。「自分達のために「言論・表現の自由」を訴えているに過ぎないような人々」が、差別を禁止する国内法の制定に反対していたり無関心だったりすることも、「靖国」現象の特徴なのでしょうね。

--------------------------------------------------------
「靖国 YASUKUNI」(2007年/李纓監督)上映阻止騒ぎのとき、さまざまなメディアによって、ジャーナリズムや評論家や映画人たちは、その横暴を非難した。しかし、もともとトラブルを回避して、自ら批判や責任を引き受けることなく、「内向きな自己満足」に埋没しているという意味では、「非難している側とされている側」の関係は交わることのない縦軸と横軸ではなく、むしろ同一線上の少し離れた位置にあるだけといえるし、作品の中で問われていることへの視点を向けるのではなく、むしろ自分達のために「言論・表現の自由」を訴えているに過ぎないような人々の言葉はどこか空々しい。暴力と脅迫で上映中止に追い込もうとする行為は論外としても、そのような活動を実質的に放置・容認する社会(つまり、「靖国」の“中”にある空間が“外側”にも存在する)を構築しているのは日本人自身なのである。
--------------------------------------------------------

「雑記」の「朝鮮学校無償化除外案で露呈する日本の人権意識と民主主義の程度」も拝見しました。今後ともよろしくお願いします。

Rawan URL 2010-04-13 (火) 03:37

m_debuggerさん

サイトを見ていただき、また、ご丁寧な感想を返信してくださり有り難うございます。

こちらこそ、今後とも宜しくお願いいたします。

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映画『空気人形』雑感――マジョリティの内面救済と責任回避の物語に寄せて

 是枝裕和監督の最新映画『空気人形』を観てきたので、以下に雑感を書き留めてみる。内容はタイトルから推察されるように、是枝ファンの方々を不快にすること請け合いで、おまけに100%ネタバレの上、いわゆるココロ系への批判でもあるので、それらを望まない読者は、ぜひとも読まれないでいただきたい。
 『空気人形』は、巷では「切ない愛の物語」ということになっているが、私が思うに、愛はこの映画の主要なテーマではない。私見によれば(というか、映画評も作品解説も監督のメッセージも何も見ていないので、私見しかないのだが)、『空気人形』はマジョリティの内面救済と責任回避の物語であり、自己の内面を救済するためだけに結ばれる共依存関係を「愛」と呼ぶのでない限り、愛など出る幕のない作品であるように思えてしまう。この映画に出てくる登場人物は、主人公の空気人形を含め、誰もが「持ってはいけない「心」」だけを持った「空っぽな、誰かの代用品」のようである、と私には思われる。「持ってはいけない「心」」とは、他者との応答可能性をあらかじめ切り捨てたところに生じる、内面に特化した「心」のことである(と私は思う)。


●『空気人形』ストーリー解説(私見版)

(1)
 空気人形(ペ・ドゥナ)は、ファミレスで働く男性A(▼1)(板尾創路)に5980円で買われてきた量産型「CANDY」。一人暮らしのAのアパートで、Aの仕事の愚痴や星座のウンチクを聞かされ、「性欲処理の代用品」として扱われてきた空気人形(基本メイド服)は、「ある日、持ってはいけない「心」を持ってしまった」。「心」を持った空気人形は、Aが仕事に出かけた後、好奇心から街を探索しているうちに、レンタルDVDショップに迷い込み、「生まれて」初めて自分に話しかけてきた店員の男性B(ARATA)に惹かれ、その店で突然働き始めることになる(この作品は全体的にやたらと展開が早い)。

(2)
 Bに言葉や知識を与えられ、ファッションやメイクにも凝り始めた空気人形は、Aの前では以前と変わらない「人形」として振舞っていたが(ちなみに、Aは彼女の変化にまったく気づかない。まあお約束である)、内心ではAが疎ましく思えてならなかった。しかし、空気人形は腹部にバルブがあり、定期的にAに息を吹き込んでもらわなければしぼんでしまい、体温もないのであった。そこで、空気人形は、通勤途中の公園のベンチにいつも一人で座っている男性C(高橋昌也)に、「私は空っぽなの」と自分の秘密を打ち明ける。すると、Cは『私もそうだよ。この街にはそういう人が多いんじゃない?』(▼2)と真顔で応じ、空気人形に次のような詩を贈る。『風は目に見えないが花々の受粉を助けているように、<私>も誰かにとっての風であるかもしれない。目には見えず、実感することもできないが、<私>は<他者>と確かにつながっている。』

(3)
 ある日、空気人形は、DVDショップで脚立から落ちたはずみに手首に穴が開いてしまい、Bの目の前で派手にしぼんでしまう(ちなみに顔はしぼまない。これもお約束だろう)。「見ないで」とつぶやく空気人形のもとに、セロテープを持って駆け寄ったBは、彼女の手首を塞いでバルブから息を吹き込み、空気人形を復活させる。このシーンは「あなたの息で、私のからだを満たして」という本作品のキャッチコピーに当たるシーンなのだが、個人的にはこのキャッチコピーごと怖かった。二人は息を切らしたまましばらく抱き合う。

(4)
 Bの息で満たされた空気人形は、なぜか体温を獲得し、「人間」に大きく近づいたことで有頂天になる。翌日の二人の会話。

空気人形:「びっくりしたでしょ」
B:「うん」
空気人形:「私、空っぽなの」
B:『そう。でも僕も空っぽだよ(真顔で)』
空気人形:『そうなの?実は私も初めて会ったときから、何となくそう思ってたの。私たち、似てるなあって』

 そして微笑み合う二人。このシーンもなんだか不気味だ。

(5)
 しかし、有頂天な日々も束の間、空気人形は、彼女とAの関係を偶然知った店長(岩松了)に脅されて(Bへの口止めの「代償」に)レイプされてしまう。しかも、その夜、Aは自宅に二人目の人形をお持ち帰りして盛大に誕生日パーティーを始めたのだった。空気人形はついにキレる。

空気人形:『あなた、私のどこが好きなの?』
A:『・・・っ・・・お前、のぞみか!?』
空気人形:『私のときには誕生日パーティーなんかしてくれなかったくせに』
A:『そそそそんなことあらへんねん!ほら、写真もあるねんって!』
(中略)
空気人形:『やっぱり私は代用品なのね。私じゃなくてもいいのね!』
A:『あーーーっ、こういうのが面倒くさくてお前にしたのに!なあ、のぞみ、悪いけど元の人形に戻ってくれへんか』
空気人形:『ひどい!やっぱり私じゃなくてもいいのね!』

(6)
 家を飛び出した空気人形は、自らの「ルーツ」を知るために、人形師の男性D(オダギリジョー)の作業場を訪ねる(「CANDY」のパッケージに住所が記載されている)。Dは空気人形の出現を普通に受け入れ、二人は廃棄処分される人形たちのパーツを前に言葉を交わす。

空気人形:『この子たちはどうなるの?』
D:『残念だけど、燃えないゴミに出すよ』
空気人形:「燃えないゴミ・・・?」
D:『僕たちだって死んだら燃えるゴミになるんだから、同じようなものさ(真顔で)』
(中略)
空気人形:『私、どうして「心」なんか持っちゃったんだろう?こんなに苦しいのに』
D:『でも、君が見た世界は苦しいだけだった?美しいものや綺麗なものもあったんじゃないかい?もしそうだったら嬉しいな(真顔で)』

 空気人形は無言で頷く。Dは救われたような表情で微笑み、空気人形を見送った。

(7)
 自らの「ルーツ」を確認した空気人形は、最後にBの部屋を訪れる。

空気人形:『私、あなたのためなら何だってするよ。だって、そのために生まれてきたんだもの。誰か(あなたの昔の恋人)の代わりでもいいよ』
B:『・・・君にしか頼めないことがある』
空気人形:『私にしか、頼めないこと?』
B:「空気を抜かせてほしい」
空気人形:「・・・・・・でもどうして?」

 Bは質問には答えないが、その表情には、『君に息を吹き込むことで僕が全能感に浸れるからに決まってるだろ?でもそれを口にしたら、まるで僕が残念な人みたいで、僕が傷ついちゃうだろ?てかさっさと空気読め』と書いてある(ように私の目には見えた)。空気人形はBの要求を黙って受け入れ、Bは一心不乱に繰り返し彼女の空気を入れ換える。

(8)
 Bが寝入った後、空気人形はBの腹部をナイフでえぐり、セロテープで塞いで口から息を吹き込む(「私の息で、あなたを満たしてあげる」)。ところが、なぜかBは死んでしまったので、空気人形はBをポリ袋に入れて燃えるゴミに出す。空気人形も、自ら燃えないゴミになるために、ゴミ捨て場で手首のセロテープをはがして「自殺」する。

(9)
 風が吹く。


●解放を放棄した場所で反復される「愛の物語」

 まず、ジェンダー的な問題について。本作品では空気人形が言葉を交わすのは男性だけで、彼女が女性と会話を成立させている場面は、私の記憶が正しければ一度もない。空気人形に言葉や知識を与えるのは男性ばかりであり、しかも彼らの発する言葉は、Wikipedia的な雑学(星座や有名映画のウンチク)でなければ、過度に感傷的な内面の一方的吐露がほとんどであったように思う。端的に言ってしまえば、空気人形に息を吹き込むのは空っぽな男性マジョリティの特権であり、それゆえに、空気人形はどれだけ「人間」に近づこうと、結局は彼ら自身の空虚さを反復するしかないのだというように思われる。

 私が唯一見入ってしまった場面(8)(▼3)でも、空気人形は不甲斐なく死を選んでしまう(ほとんど心中のようである)し、死に至るBの苦悶の表情が、「空気人形に殺されちゃうほど特別な、俺」という自己陶酔の表情にも見えてしまったため、個人的な後味はとても悪い。フェミニズム的には、Bの死後にこそ空気人形の自己解放が始まってもよさそうなものだが、本作品には解放を少しでもイメージさせるような「人間」女性も登場しなかったので、その可能性もたいして期待できなかったように思う(▼4)。空気人形が、「死」の間際に、AやBに囲まれて自分の誕生日を祝ってもらう情景を思い浮かべているというのも、解放という視点からはまったくいただけない。

 本作では、女性も男性に引けを取らないほど空虚であるように見えるが、彼ら・彼女らは自らの空虚が何に由来するかを説明する術を持っていない(彼らの来歴は、昔の恋人の名前や写真といったアイテムを除いては、ほとんど描かれていないし、彼女らの来歴にいたっては、まったく言及されていない)。なぜなら、彼ら・彼女らには、他者には立ち入ることが許されない内面という聖域しか存在せず、したがって、目に見え、実感できるレベルで他者とつながることは不可能だからである(と思う。(2)の詩を参照)。『空気人形』は、自己/他者の解放をあらかじめ放棄した場所で、自分が特別であるという表象を繰り返し確認することで、自己の内面を互いに救済し合うための「愛の物語」なのだと思われる(▼5)


●マジョリティの内面救済と責任回避の物語

 ところで、より一般的に、『空気人形』はマジョリティの内面救済と責任回避の物語としても見ることができると思う。そのように見てみると、本作ではマジョリティとマイノリティの対立構造が見事に無化されていることに気づかされる。空気人形(擬似マイノリティ)がマジョリティの内面の反映にすぎず、マイノリティを抑圧・支配しているはずのマジョリティが、他者との間に開かれた関係を築けない「孤独」な個々人である、ということになってしまっている以上、両者は本質的に対立するはずがなく、そのためマイノリティがマジョリティに鋭く責任を問うような局面も生まれようがない(▼6)のである。

 もう少し進めて書くと、空気人形は一部のリベラル・左派にとっての理想的なマイノリティ像であり、男性Aを保守・右派に、男性Bをリベラル・左派に置き換えて、解釈することもできるかもしれない。参考までに各場面ごとのエピソードを抽出してみよう。

(1)マイノリティは、「心」を持ちさえすれば、保守・右派よりもリベラル・左派を選ぶ。

(2)マイノリティはマジョリティに息を吹き込んでもらわなければ生きていけない存在である。

(3)マイノリティは、リベラル・左派に息を吹き込んでもらったときにこそ、「人間」(=マジョリティ)に近づいていくことができる。

(4)マイノリティはリベラル・左派がどんなに空虚であっても全面的に受け入れなければならない。

(5)マイノリティは保守・右派を信用してはならない。

(6)マイノリティは、自らのルーツを理解した後も、マジョリティに対して宥和的に振舞い続けなければならない。

(7)マイノリティはリベラル・左派に愛され、彼ら・彼女らに全能感を与えるために努力しなければならない(ただし、リベラル・左派は、こうした要求を直接口には出さないかもしれないので、そのあたりは空気を読むように)。

(8)マイノリティは、どれほど「人間」(=マジョリティ)に近づいたところで、「人間」とは決して対等になれないことをわきまえなければならない。

(9)そうして世界は回っている。

 どうだろう?それほど的を外したこじ付けでもないのではないだろうか。主観的空虚とやらを理由にマジョリティとしての責任を回避しようとする「左派」の居直りには、私自身もお目にかかったことがある(▼7)し、上のようなマジョリティの身勝手な幻想は、婉曲化された形で一定程度流通しているように思う。こうした人々は、マジョリティとしての応答責任を問われたとき、「僕だって君には理解できない問題を(内面に)抱えてるんだから、もうこれ以上追い詰めないでくれよ」と言う(あるいは何も言わずに「空気」を読ませようとする)ことで、自らの内面を救済して責任を回避しようとするのである。


 『空気人形』は2009年第62回カンヌ国際映画祭に出品され、「驚きと感動のスタンディングオベーションで熱狂的に迎えられた」(公式サイトより)そうである。私が観たのは平日のレイトショーだったが、客層は20代~30代が大部分で、男性と女性の割合は約6対4で(男性は一人で来ている人がわりと多かった)、劇場はほぼ満席に近かった。「切ない愛の物語」はいろんな意味でシュールであった。


●後記

 この文章を書き終わってから、ネット上のレビューを読んでいたら、次のような論評を見つけた。


おそらくは恋人の死によってできてしまった心の闇によって、純一は女の死と復活を望んだ。
何度も空気人形の空気を抜いては、息を入れて生き返らせることを繰り返す。
以前、しぼんでしまった空気人形に空気を吹き込んで蘇生させたあの官能的な出来事は、空気人形にとっても人の心を得る大きな出来事だったが、実は、余生のように生きていた純一にとっても、自分を揺り動かし心の底の願望を表層にのぼらせる貴重な体験だったのだろう。


 NAGIの小箱:「映画「空気人形」」
 http://nagibox.air-nifty.com/nagi/2009/10/kuuki-ningyou-e.html

 そうだったのか!さっぱり気づかなかったよ!てっきりジュンイチは無内容だから恋人に振られたのかと・・・。しかし、少なくとも監督の意図からすれば、この方の解釈が本エントリーの私見よりもはるかに正しいことは、疑問の余地がなさそうである。普通に考えれば確実にドン引きされるであろう、芝居がかった無個性な台詞の数々や傲慢で甘えた沈黙を、恋人を亡くした男の詩的なたたずまいへと(女性の前で)昇華してみせるとは、イケメン恐るべし。


▼1 本作品の登場人物の中で、特に個性が表現されているように思えたキャラクターはいなかったので、名前があってもすべて匿名扱いとする(あえて言えば、DVDショップの店長には下劣な個性があったが、名前は出てこなかったと思う)。

▼2 タイトル以外の『』部分は正確な引用ではなく大意である。

▼3 この息を吹き込むシーンでペ・ドゥナが見せた、ARATAに対する優越感に満ちた表情は、なかなか魅惑的だった。

▼4 作中には、駐在所の警官に気にかけてもらうために、犯罪(自分と無関係)が起こるたびに自首をしてくる女性Eや、男性受けのよい職場の後輩に嫉妬して、「あなたは特別なんだから」という留守録を携帯から吹き込んで、自宅で自分と「会話」をしている女性Fや、実家から送られてきた林檎の山に囲まれて過食と嘔吐を繰り返す女性Gなどが登場している。

▼5 もしも、空気人形が男性で「所有者」が女性だったら、どんな物語になっただろうか、と想像してみるが、あまりイメージが湧いてこない。女性であれば、どうせ自分で膨らませるなら、男性型人形よりもヨガボールの方がよほど好まれそうなものだし、実際そうだろう。また、空気人形が女性で「所有者」が女性の場合や、空気人形が男性で「所有者」が男性の場合も、具体的なストーリーを想像するのは難しいように思う。映画『空気人形』は、まさに男性およびヘテロによる支配を忠実に反映しているのではないか。

▼6 場面(5)で空気人形がAにキレたのは、別のマイノリティの登場によってマジョリティの「寵愛」を失うことに動転したからであり、マジョリティとマイノリティの対立構造が問題になっているわけではない。

▼7 『マイノリティは、人生における選択肢も少ないし、スティグマをプラスのアイデンティティに変えていける可能性があるから、まだ幸せだ。僕のようなマジョリティは、選択肢が多すぎて人生に迷うし、自分が何者であるかを誰も教えてくれない』という発言だった(ちなみに創作ではないので、念のため。私はこんな想像力は持ち合わせていない)。マイノリティに対する制度的・社会的差別を問題にしていた私に対して、この人物は自分仕様の「幸福論」を持ち出して必死に反論してきた。

Comments:5

Rawan URL 2010-04-10 (土) 13:12

はじめまして。
エントリー、面白かったです。

紹介論評にある純一の背景についての解釈に正解はないと思います。
たとえば、純一が自己の性的倒錯性に気付いていたために、女性(空気人形)との当初の付き合いが極度に無機質でぶっきらぼうであったという解釈も成り立ちます。

一般論ではありますが、近年の日本の映画監督は、重要な登場人物の個性について、あまりはっきりと描かないよう(メタであるかどうかでさえも非常に曖昧で分かりにくい)、意識的、無意識的に選択しているように私には思えます。
そういう技術面を一面では「うまい」と評価できる作品もありますが、情熱の発露としての芸術本来の力強さに圧倒させられるという感動を味わうことは難しくなります(たとえば、キム・ギドク、ポン・ジュノ、イ・チャンドンらの韓国映画などに比べると顕著です)。
人間の複雑さや鑑賞者の想像力に逃避することにより、(世論や社会的風潮などからの)自分への批判をもまた意識的、無意識的に回避しているように思えるのです。
マジョリティの価値観の中に埋没するメジャーな表現者のあり方が、その作品表現に実によく投影されているように私には思えます。

m_debugger URL 2010-04-10 (土) 22:08

>Rawanさん

コメントありがとうございます。

>たとえば、純一が自己の性的倒錯性に気付いていたために、女性(空気人形)との当初の付き合いが極度に無機質でぶっきらぼうであったという解釈も成り立ちます。

それも確かにありそうですね。なるほど。
韓国映画との比較もおっしゃる通りだと思います。『空気人形』と同じ第62回カンヌ映画祭<ある視点>部門に出品されたポン・ジュノの『母なる証明』も、登場人物すべてが病んでいる話だと思いますが、人間描写力が圧倒的に違いますよね。

>人間の複雑さや鑑賞者の想像力に逃避することにより、(世論や社会的風潮などからの)自分への批判をもまた意識的、無意識的に回避しているように思えるのです。
マジョリティの価値観の中に埋没するメジャーな表現者のあり方が、その作品表現に実によく投影されているように私には思えます。

この点も分析してみると面白そうですね。日本の映画は普段あまり観ないので、『空気人形』はある意味刺激的でしたが。ご指摘の傾向は文学全般にも言えるかもしれませんね。引き続き考えてみたいと思います。

- URL 2010-04-11 (日) 02:23

m_debuggerさん

返信有難うございます。

ポン・ジュノ監督の「母なる証明」は、昨年見た3指に入る作品でした。

ペ・ドゥナさんは、山下敦弘監督の「リンダ・リンダ・リンダ」で有名になったので日本でも比較的人気のある女優さんですが、
日本の監督にも彼女のファンが結構いるようで、是枝監督もその1人だと思います(どの程度「ファン」なのかはよく分かりませんが)。
彼女の作品では、ポン・ジュノ監督の長編デビュー作になる「ほえる犬は噛まない」、チョン・ジェウン監督「子猫をお願い」、パク・チャヌク監督「復讐者に憐れみを」の三作品が傑出していると思います。

>この点も分析してみると面白そうですね。日本の映画は普段あまり観ないので、『空気人形』はある意味刺激的でしたが。ご指摘の傾向は文学全般にも言えるかもしれませんね。引き続き考えてみたいと思います。

ざっくりですが、それを行ってもいます。
実は、そこでは以前m_debuggerさんのエントリーによってインスパイアーされたことが反映されている箇所があります。
お時間のあるときにでも覗いてみてください。↓

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m_debugger URL 2010-04-12 (月) 21:58

>Rawanさん

サイトのご紹介ありがとうございます。大変参考になりました。実は『空気人形』を観たときには、是枝監督がこれほど人間を薄っぺらく描けるのは、もしかして人間への悪意からではないのかと疑っていたのですが、事態はそれより深刻なようですね。

 特に以下のご指摘には刺激を受けました。「自分達のために「言論・表現の自由」を訴えているに過ぎないような人々」が、差別を禁止する国内法の制定に反対していたり無関心だったりすることも、「靖国」現象の特徴なのでしょうね。

--------------------------------------------------------
「靖国 YASUKUNI」(2007年/李纓監督)上映阻止騒ぎのとき、さまざまなメディアによって、ジャーナリズムや評論家や映画人たちは、その横暴を非難した。しかし、もともとトラブルを回避して、自ら批判や責任を引き受けることなく、「内向きな自己満足」に埋没しているという意味では、「非難している側とされている側」の関係は交わることのない縦軸と横軸ではなく、むしろ同一線上の少し離れた位置にあるだけといえるし、作品の中で問われていることへの視点を向けるのではなく、むしろ自分達のために「言論・表現の自由」を訴えているに過ぎないような人々の言葉はどこか空々しい。暴力と脅迫で上映中止に追い込もうとする行為は論外としても、そのような活動を実質的に放置・容認する社会(つまり、「靖国」の“中”にある空間が“外側”にも存在する)を構築しているのは日本人自身なのである。
--------------------------------------------------------

「雑記」の「朝鮮学校無償化除外案で露呈する日本の人権意識と民主主義の程度」も拝見しました。今後ともよろしくお願いします。

Rawan URL 2010-04-13 (火) 03:37

m_debuggerさん

サイトを見ていただき、また、ご丁寧な感想を返信してくださり有り難うございます。

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