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Home > スポンサー広告 > 岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(前半)

岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(前半)

 今年の2月に集英社から刊行された新書に、吉見俊哉とテッサ・モーリス=スズキの対談を収めた『天皇とアメリカ』という本がある。本書は、岩波書店からも複数の著書を出し、典型的な「良心的」知識人と一般に目されている著者らが、天皇(制)という表象と何やら親しげに戯れている駄本であり、空虚な知識の顕示と、自らの「良心的」な立ち位置への自己陶酔、保守・右派へのさりげない(?)媚態、度しがたい大衆蔑視といった、近年の「良心的」知識人の言説にありがちな(くだらない)要素を網羅しており、それだけでも普通に驚かされる。が、本書の真骨頂は、大学教授であり、岩波書店の著者である二人が、大学教授や岩波書店への批判は大衆の「反知性主義」である、と臆面もなく断じていることである。あまりにも驚いたので、以下の部分は3回も読み直してしまったのだが、「良心的」知識人である吉見とテッサは次のように述べている(強調は引用者による。以下同様。また、便宜のため各発言に番号を割り振った)。


▼反知性主義

〔前略〕

テッサ それにしても石原に選挙で投票した人たちは、彼にいったい何を期待しているのか、そこがわかりません。彼の政策がいいからという理由で支持しているとは、とても思えないのですが。外形標準課税にしろ、新銀行東京にしろ、失敗ばかりしているはずなのに。

吉見 彼に一貫しているのは、ある種の反知性主義ではないですか。知性的なものに対する嫌悪。都立大つぶしもそうだと思いますが、やっぱり知識人つぶし。でも、それが今の日本の風潮には合っているということでしょう。権威あるものをつぶしていくことへの快感、知性への大衆的ルサンチマンみたいなものが、今の日本社会を動かしている。

テッサ それは日本だけの現象ではないでしょう。現在さまざまな地域のナショナリストを分析すると、反知性主義者が多い。〔後略〕

吉見 〔前略〕結局、知的権威や伝統的な権威をつぶしていくことで、大衆の歓呼を勝ち取る。そしてそれによって権力を構築するという。屈折していますね。金持ちの味方の組織が、大衆とともに権威をたたくという不思議な構図がはびこっています。反権威主義の顔をしたえげつない権威主義。これはこのところ、ほんとうに大きな流れになっていますね。

テッサ ブッシュ前大統領もそうでした。つまり一種の保守ラディカリズムです。基本的には体制を守るためなのですが、別の想像の体制をつくって、それに対して闘う姿勢をとります。たとえば日本の自立を脅かしているのは、アメリカではなくて北朝鮮なんだとか、日本の社会を悪くしているのは自民党や民主党ではなくて、東大の学者であったり、東大の権威主義であったり、東大卒のエリート官僚である、といった具合に。

吉見 東大なんかまさに典型的な標的ですから四方八方からいじめられます。まあ巨大な権力を保持している面もあるから、批判を受けるべきなのも事実ですが、それにしても攻撃が、どうも権威的なものに対する大衆的ルサンチマンを基盤にしているところが気に入りません。へそ曲がりの私としては、あえて「東大の学者」の役を引き受けて、知的権威の復興を主張したくなりますね。

テッサ 岩波書店や朝日新聞などへのバッシングも、同じ構図でしょう。

吉見 おっしゃる通りだと思います。そしてメディア上では誰が、どういう意図で批判しているのかが見えないから、仮想敵が非常に実体化され、それを攻撃することが正義であるかのような語りが成立してしまうんですね。でも、この二項対立は眉唾です。

テッサ 出自は少し異なりますが、小林よしのりの手法もそうでしょうね。彼の漫画のなかでは、議論する知識人たちが、軟弱な敵として描かれることが多い。青白い顔をした知識人たちが、論理的裏づけはないながら彼の一言ですべて論破されたりする。

吉見 まさに幻想の敵、幻想の権威への攻撃ということなんでしょう。(pp.156-158)


 ・・・・・・これほど非論理的で厚かましい大衆蔑視発言を、「大衆」に対して隠そうともしないどころか、(「大衆」が主要な読者層であるはずの)集英社新書から堂々と出版してのけるとは、「良心的」知識人とは一体何者なのだろうか?

 ②で吉見は、石原と石原が支持される「日本の風潮」を、「ある種の反知性主義」、「知性的なものに対する嫌悪」、「やっぱり知識人つぶし」、「権威あるものをつぶしていくことへの快感、知性への大衆的ルサンチマンみたいなもの」と勢いよく断じているが、石原と石原が支持される「日本の風潮」に歴然とした、外国人差別や女性差別、各種マイノリティへの差別を差し置いて、「都立大つぶし」という事例一つを取り上げて、問題の核心を「反知性主義」(知識人への「差別」)に収斂してみせる吉見の主張は、私にはさっぱり理解できない。

 石原が「大学の自治」を疎ましがっているのは事実だろうが、それは石原が「知識人」を無条件に敵視しているからではなく、差別と闘い、それを克服しようとする契機を大衆から奪おうとしているからである、と私は思う。実際、石原は宮台真司のような「リベラル」とは好意的に対談を行ったりもしており、小林正弥のようにカルトじみた反知性主義を貫徹しているわけではない。石原に一貫しているのは差別への強靭な意志である。したがって、仮に吉見のように自らへの「差別」を特権化して、他者への差別には目もくれないような「知識人」が大学を「自治」している分には、石原は取り立てて大学に介入しようとはしないだろう。吉見は石原を差別主義者として名指さないことによって、石原と見事に共存しているのではないのか。

 ③の「さまざまな地域のナショナリストを分析すると、反知性主義者が多い」というテッサの相槌も、あまりにも杜撰にすぎる。いったい彼女は、どこの「地域」のどんな「ナショナリスト」をどのような方法で「分析」して(どこの「地域」のどんな非「ナショナリスト」とどのように比較して)「反知性主義」の定量化を行ったのか?あらゆるナショナリズムを一切の根拠を示すことなく「反知性」的であると決めつける「風潮」は、「先進国」のポストコロニアル業界周辺を風靡しているのかもしれないが、一業界のお約束事にすぎないことを読者がありがたがって内面化すると思ったら大間違いである。

 ④の吉見の発言も、具体例がまったく示されないため(もっとも、この対談全般がそうなのだが)、「これはこのところ、ほんとうに大きな流れになっています」と言われても、あまりよくわからないとしか言いようがない。小泉政権時代の公務員バッシングなどが念頭にあり、②の「都立大つぶし」の話も続いているのかもしれないが、当時も今も、「知的権威や伝統的な権威」に対するバッシングが、北朝鮮バッシングに象徴される排外主義よりも「大きな流れ」になっているわけではない。

 ⑤でテッサは吉見にあからさまに追従しているが、これはオーストラリア国立大学教授から「東大の学者」への率直な「連帯感」の表明なのだろう。けれども、「日本の社会を悪くしているのは・・・東大の学者であったり、東大の権威主義であったり、東大卒のエリート官僚である」という考えは、あらゆるナショナリズムに「反知性主義」のレッテルを貼ろうとする彼女の持論よりは、遥かにまともな認識であり、かなりの程度事実であると思われる。実際、<佐藤優現象>を積極的に推進している「知識人」やマスコミ関係者の多くは、有名大学の教授や出身者なのだから、それだけでも大衆の「知識人」嫌悪には十分根拠があることになる。

 ⑥で吉見は、「東大の学者」への「攻撃が、どうも権威的なものに対する大衆的ルサンチマンを基盤にしている」と述べているが、ここでもその根拠はまったく明らかにされていない。「東大の学者」への批判は、当然多様な文脈で行われうるものであり、このエントリーもその一つである。そうした様々でありうる批判を一緒くたに「攻撃」と呼び、「権威的なものに対する大衆的ルサンチマンを基盤にしている」という結論へと一瞬にして飛んでいくような「東大の学者」は、その非論理性と大衆蔑視観を批判されて当たり前ではないのか。一般的にも、ある主張が「ルサンチマンを基盤にしている」からといって、その主張が誤りであることの証明にはならないだろう。それにしても、「東大の学者」が自らを「大衆的ルサンチマン」の被害者であると訴えて、印税を稼ごうとしているのだから、まったくもって恐れ入る。

 さて、ようやく山場の⑦まで辿り着いた。ここでテッサは「岩波書店や朝日新聞などへのバッシングも、同じ構図」であると語っている。つまり、彼女は「岩波書店や朝日新聞などへのバッシングも」「権威的なものに対する大衆的ルサンチマンを基盤にし」た「攻撃」であり、大衆の「反知性主義」の現れである、と主張しているわけである。もちろん、テッサは吉見同様、その結論に到る過程を読者に何一つ説明していないし、「岩波書店や朝日新聞などへのバッシング」とは、誰によるどのような「バッシング」なのか、という根本的な問題にもまったく触れようとしていない(吉見の放言と「同じ構造」である)。これでは岩波書店への正当な批判者に対する印象操作と言われても仕方ないのではないだろうか。

 これに対して、⑧で吉見は、テッサの見解に同意した上で(それにしても、ここまで無根拠な放談を続ける対談相手の見解に相互に同意できるとは、「良心的」知識人とはさすがに只者ではない)、「岩波書店や朝日新聞などへのバッシング」について、「メディア上では誰が、どういう意図で批判しているのかが見えない」などという、信じがたい台詞で応じている(テッサも⑨でそれに追随している)わけだが、これは一体何なのか?「誰が、どういう意図で批判しているのかが見えない」というからには、ここで言う「メディア」とは主にネットのことを指していると思われるが、例えば匿名掲示板のようなサイトであっても、社会的な影響力を持つに至る、つまり、一定層の支持を集める言説については、その意図が「見えない」ということはまずあり得ないのではないか?大衆は吉見やテッサではないのだから、自らを納得させる具体的な根拠――それはしばしば差別や偏見によっても代用されるが――にもとづいて判断を下すだろう。

 ところで、テッサが⑦で岩波書店と朝日新聞の名を挙げているのは、「良心的」知識人である彼女が「岩波書店や朝日新聞」社から著書を出しているという事情にもよるのだろうが、彼女は佐藤優のような排外主義者も岩波書店から著書を出版しており、『世界』に連載を持っていることをどう考えているのだろうか?中盤・後半でも具体例を検討していくが、これまで見てきたテッサの論理の粗雑さは、彼女の過去のどの著作と比べても際立っており、それは<佐藤優現象>に対する彼女のこの間の沈黙と無関係ではないように思われる。というか、本書で披露されているテッサと吉見の壊れっぷりがあまりにも見事なため(▼1)、もしかして彼女は<佐藤優現象>批判を意識して⑦のように発言し、それを受けて吉見が⑧で、<佐藤優現象>批判はありもしない「仮想敵」を「攻撃することが正義であるかのような語り」である、と応じているのかもしれない、とさえ思えてくるほどである(▼2)

 テッサは⑨で小林よしのりの言説の非論理性を批判しているが、これまで見てきたように、本書における彼女自身と吉見の語りが、小林以上に論理的であるとも特に思えない。⑩で吉見は、(小林の)知識人批判は「まさに幻想の敵、幻想の権威への攻撃」であると述べているが、吉見は⑥の時点では、東大(の学者)は「巨大な権力を保持している面もあるから、批判を受けるべきなのも事実です」と言っていたばかりなのである。東大(の学者)の「巨大な権力」は、⑦から⑩までのどの時点で、「幻想の権威」にまで落ちぶれてしまったのだろうか?⑦から⑩の(台詞の)間にはせいぜい3分ほどしかないと思うのだが、一体この間に東大(の学者)に何が起こったのだろうか?

(中盤に続く)


▼1 例えば、二人は大日本帝国による植民地支配時代のソウルを、「京城」という日本帝国主義者の用語で呼び合い(p.10、pp.227-235)、天皇(家)に対して「崩御」(吉見、p.101)、「ご成婚」(吉見・テッサ、p.139)、「ご病気」(テッサ、p.145)といった敬語を連発している。

▼2 さすがにこれは邪推かもしれないが、本書を読む限り、吉見とテッサは(読者には共有されていない)言語以外の交信手段を用いて対話を成立させている疑いもあながち否定できないため、私の想像力も膨らんでくる次第である。

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