スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments:-

Comment Form

Trackback+Pingback:-

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/83-d24ab1b9
Listed below are links to weblogs that reference
スポンサーサイト from media debugger

Home > スポンサー広告 > 岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(中盤)

岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(中盤)

 ところで、小林よしのりは、「知識人」を叩くという明確な意図にもとづいて、自ら捏造した「知識人」像を読者に提示し、それを叩いてみせているのだから、大衆の知識人「バッシング」が「まさに幻想の敵、幻想の権威への攻撃」であるという⑩の吉見の発言にも一定の説得力があるのではないか、と思われる読者もいるだろう。けれども、本書の底流をなす、吉見とテッサの恐るべき大衆蔑視・愚民観を素直に解釈するなら、二人の本音は、大衆による自分たち「良心的」知識人への批判は、どのようなものであれ、「大衆的ルサンチマン」に根ざした藁人形叩きであり、自分たちの高邁さを理解できない大衆の愚かしさの証左である、という点に帰着するように思われる。

 本書は、吉見とテッサの大衆蔑視・愚民観を示す例に事欠かないが、以下に二つだけ挙げておこう。


テッサ 九〇年代を観察すると、もしオウム事件(地下鉄サリン事件)さえなかったら、もっともっとそれ〔新新宗教の台頭〕がはっきりと見えてきたのではないかと思います。オウム事件が起きたことで、新新宗教に対するアレルギーが出た。もしあの事件がなかったら、甘い夢がもてない時代に、新興宗教が一定の社会的役割を果たすようになって、新しいオルタナティブが生まれていたかもしれません。それがいいかどうかは別としてですが。

吉見 しかし実際にはオウム事件があまりにショッキングだったので、宗教的なオルタナティブの可能性が消え、どんどん内側にこもっていくことになった。(pp.182-183)


 二人は、「オウム事件(地下鉄サリン事件)さえなかったら」、(自分たちのようには「知性」を持ち合わせていない)大衆は、「甘い夢」を求めて今頃カルトにどっぷり漬かっていたのではないか、と言っているのである(▼3)


テッサ いわゆる“宗教”ではないのですが、最近、日本ではエンターテイメントの世界でもスピリチュアルなブームが起こっていて、芸能人のような占い師たちが影響力をもちはじめているのではないでしょうか。しかも宗教ではないのに、宗教的な世界観を説明したりします。出版物も売れ、商業的な成功を収めていますね。

 悪い霊がついているからこうしよう、とか、心を平和に保つためには、こういう色の服を着ようとか。自分が幸せになるためのマニュアルとでもいいましょうか。

吉見 それも、人々のアイデンティティが非常にあやふやになっているからでしょうね。自己に対する過剰な意識というか、自己をケアしなくちゃいけないということに対する強迫観念をみんながもっていて、しかもメディアがそれを増幅していく。また、そうした強迫観念に対する癒しの手法として宗教は使えるアイテムということです。結局、みんな関心が向かっている先は“自分”なんですね。〔後略〕(p.188)


 吉見の宗教観のお粗末さにも呆れるが、要するに、(自分たちとは違って他者への「知的」関心と無縁な)大衆は「アイデンティティが非常にあやふや」で、自分にばかり関心を向けている、というわけだ(スピリチュアル本の売れ行きに対する嫉妬もあるのかもしれない)。私から見れば、吉見とテッサこそ、「良心的」知識人たる「自己に対する過剰な意識」を炸裂させており、自らの「心を平和に保つために」仲間内で愚民観を切磋琢磨しているのではないかと思うのだが。

 さて、<佐藤優現象>に象徴されるリベラル・左派の「国益」論的再編成に対して、公的に反対し(ようとし)ていない「良心的」知識人とは一体何なのか、という問題を考えるためにも、引き続き本書から二人の具体的発言を拾ってみたい。


●帝国のフェミニスト


テッサ 〔前略〕ところで女性の行動右翼ってあまり見かけませんね。街宣車で女性が怒鳴っている声を聞いたことがありません。しかし、最近外国人参政権などに反対している「在特会」のデモには女性の参加者がかなり多いようです。

吉見 確かに女性の右翼はあまり見ないですね。やっぱり男性が多い。

テッサ しかしもう二一世紀ですから。街宣車もぜひジェンダーフリーにしていただきたい(笑)。(p.150)


 「外国人参政権などに反対している「在特会」のデモ」というテッサの発言の悪質さについては、今さら説明不要だろう。テッサの脳内では、在日朝鮮人(外国人)の人権を全否定するレイシスト運動の最先端に日本人女性が躍り出ることは、「ジェンダーフリー」として歓迎するべき事態であるようだ。まったくたいした帝国のフェミニストぶりである。この暴言を取り消さないままなされる、「人権」に関する彼女のどのような「良心的」発言も、レイシズムを容認する帝国のフェミニストのお喋りにすぎないという批判を根本的に免れることはないだろう。

 ところが、実のところ、テッサは帝国のフェミニストですらないのかもしれない。彼女は「プロローグ」で以下のように述べている。


 神代から続く血統のユニークな相続者として、国家神道における神的中心として、霊気を帯びた制服姿の英雄的な軍事指導者として、のちに敗戦を経れば、戦後の民主的な家族的価値の身体化として、そして終わりなく流されるメディア記事での好奇心の対象として……、まるでカメレオンのごとく周囲の色に合わせながら、天皇は象徴的権力として歴史の洪水を生き延びた。(p.11)


 「神代から続く血統のユニークな相続者」、「霊気を帯びた制服姿の英雄的な軍事指導者」という表現の意味不明さもさることながら、天皇が「戦後の民主的な家族的価値の身体化」であるとは何なのか?天皇(制)は民族差別・女性差別の根幹である。(大和民族以外の)他民族の尊厳を徹底的に貶めて、女性を子産み機械として扱う天皇(制)が「民主的な家族的価値の身体化」であるとは、いったい彼女の脳内はどうなっているのか?

 テッサと吉見が、「ジェンダーフリー」と天皇制存続を推進するための「女帝」(容認)論に便乗していることも、見逃すわけにはいかない。


▼女帝

テッサ 小泉政権のときに、皇室典範を改正して女帝を認めようという動きが確かにありました。それなのに紀子さんに男子が生まれたら、突然、その話がなくなってしまいます。あれは不思議でした。これからも男子が生まれない可能性はいくらでもあるのに、どうして討論できなくなってしまったのか。

吉見 問題はまったく解決されていないのに。何だったんだろう、あの騒ぎはみたいな。〔中略〕だいたい一夫多妻を認めない以上、男子だけでは本当に誰も世継ぎがいなくなってしまう事態が将来、いつかは必ず起きます。〔中略〕別に天皇制廃止を唱えなくても、もしもこのまま何もしなければ、日本の天皇制は、やがて誰も継ぐ人がいなくなって自然消滅する可能性が十分にあるのです。(pp.200-201)


 見ての通り、テッサも吉見も「別に天皇制廃止を唱え」ているわけではさらさらない。「問題はまったく解決されていない」として吉見が指摘している「問題」とは、「女帝」を容認しないことで天皇制が存続できなくなってしまう「問題」なのであった。もちろん、天皇(制)を容認しない立場からすれば、こんなものは問題でも何でもないのだが(天皇制の廃止が、日本人の主体的な取り組みの成果としてではなく、自然消滅によって実現するとすれば、単純に喜ばしいとばかりも言えないが)、テッサも、「いずれにしても、女帝への道は遠そうですね」(p.204)などと言って、天皇制存続を前提とした「女帝」(容認)論議の必要性を得々と語っている。


●オバマ礼賛

 二人がこの期に及んでお寒いオバマ礼賛を繰り広げていることも要チェックである。二人はオバマを「リベラルな改革者」(テッサ、p.165)、「大きな志をもっ」た「一人のカリスマ的な人間」(吉見、p.167)などと絶賛し、「日本のオバマ」が「彗星のように現れ」て「人々の価値観が大きく変わる」事態を待望している(▼4)。もうどうしようもないとしか言いようがないが、この圧倒的などうしようもなさについては、少々紹介させていただきたい。


テッサ 二〇〇八年のアメリカの大統領選挙の投票日も迫ったときでした。熱気に包まれたオバマの集会にロックシンガーのブルース・スプリングスティーンが登場しました。で、彼は歌った後で勝利を確信してこう叫んだのです。

 「私は自分のアメリカを取り戻したい!」

 この言葉は非常に象徴的です。多くのアメリカ国民は、ブッシュとその取り巻きが、アメリカというものの意味を独占して解釈し、とんでもない方向にいってしまったと感じていました。その簒奪されていたアメリカを、オバマの勝利によって人々は自分に取り戻したいという気持ちになる。ただし、その「自分のアメリカ」は人によってさまざまで、どこまでそれに応えられるかが、圧倒的な支持で政権をまかされたオバマの大きな課題です。〔中略〕オバマの大統領就任演説には、社会的権利および公民的権利に関する素晴らしい約束がたくさんあるのですが、アメリカ先住民族に関する言及がなかった。リベラルな改革者であるオバマですら、アメリカ帝国主義の深部に触れるのは困難なのだ、という非常に象徴的な演説でしたね。〔後略〕(pp.164-165)



吉見 オバマのような人物が彗星のように現れ、こうしたかたちで大統領にまでなる。これはアメリカ社会の草の根的な民主主義の力であることは間違いないのですけれども、インターネットの威力も目立ちましたね。ブッシュ政権のように抑圧的な体制があって、それを覆すときに、ネットによって人々がつながり、つながった力をひとつに集めるようなカリスマ的な人物が出てきた。そうしたときに、インターネットは大きな政治的な力になるということを、今回の選挙も象徴的に示しました。(p.165)


 つくづくおめでたい人々であるが、帝国の「良心的」知識人とはもともとこの程度の代物なのかもしれない。まさに藤永茂氏が「オバマ・シンドローム(症候群)」と呼ぶ病状そのままである。藤永氏の新著『アメリカン・ドリームという悪夢――建国神話の偽善と二つの原罪』(三交社、2010年)は大変面白かったので、未読の方には強くお勧めしたい。

(後半に続く)

※当初は「前半」と「後半」の二部構成だったが、天皇制と植民地支配責任・侵略戦争責任に関する二人の発言があまりにもひどすぎるため、それらを後半に回し、新たに「中盤」を増設して三部構成にした。


▼3 もっとも、二人は宗教についても適当な発言を重ねている。


テッサ 国民国家成立以降における宗教の特徴のひとつは、人はつねに国家のために自分を改造しなくてはならない、と教える部分にあるのではないか。もちろん例外はあるのですが、その例外の宗教は邪教とかカルトとか呼ばれて、無視されたり迫害の対象となった。国民国家成立以前の宗教には、そういう側面はなかったと思います。(p.56)


 宗教がナショナリズムの従属物にすぎないのであれば存在意義はないだろう。テッサの専攻は歴史学とのことだが、旧植民地諸国や第三世界における宗教の民衆史は、彼女のいう「歴史」の中には含まれていないのだろうか。もちろん、「文化研究」者である吉見も、彼女の発言をそのまま受け入れているのだが(本書には二人が対立する論点は一つもないようである)。

▼4 二人は「日本のオバマ」は沖縄から現れると述べているが、根拠はまったくわからない。たぶん沖縄が好きなのかもしれない。


テッサ 〔前略〕日本からオバマのようなリーダーが登場するとしたなら、それはきっと沖縄からなのではないでしょうか。天地をひっくり返すような構造転換がないと、それもなかなか難しい。

吉見 そうですね。沖縄から日本のオバマが現れる。しかも自民党ではなく。もし沖縄からそんな政治的リーダーが出てきて首相になれば、人々の価値観が大きく変わるでしょう。〔後略〕(p.169)


 「もし沖縄からそんな政治的リーダーが出てきて首相になれば、人々の価値観が大きく変わるでしょう」という吉見の発言にも、彼の愚民観が鮮やかに示されている。吉見のような「良心的」知識人にとっては、大衆は「政治的リーダー」を選ぶ主体ではなく、「政治的リーダー」に「啓蒙」される客体にすぎないのだろう。無論、吉見ら「良心的」知識人は、「政治的リーダー」をすら「啓蒙」する立場に自らを位置づけていると思われる。

Comments:0

Comment Form

Trackback+Pingback:0

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/83-d24ab1b9
Listed below are links to weblogs that reference
岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(中盤) from media debugger

Home > <佐藤優現象> > 岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(中盤)

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。