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Home > スポンサー広告 > 岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(後半)

岩波書店への批判は「反知性主義」?――本当に怖い「良心的」知識人(後半)

●米国の偽善と原罪

 藤永氏は、著書『アメリカン・ドリームという悪夢』で「オバマ現象」を次のように分析している。

 「「オバマ現象」は一般の白人アメリカがバラク・オバマを救世主として熱狂的に迎えている現象ではなく、黒人をアメリカ合州国大統領として擁立しようと熱心に努力する自分たちの姿こそ、アメリカ白人の心の正しさ、寛容さ、美しさを映すものであるとする自己陶酔、自己欺瞞が「オバマ現象」の真髄であり、中核であると私は考える。初の黒人大統領バラク・オバマを良きアメリカの「顔」とすることで、つまり“オバマ”という新しいブランドを売り出すことによって、可能な限り大きな利益を収めようと目論む支配層エリートたちの打算は「オバマ現象」の外殻をなしている。」(pp.18-19)

 「このアングロサクソン白人の集団的自己陶酔、自己催眠、ナルシシズムによって覆い隠されている地底のマグマは、アメリカ合州国という国家の二つの原罪、インディアン・ホロコースト(先住民大虐殺)と黒人奴隷制である。黒人奴隷制がアメリカの建国の原罪とされるのが普通だが、アングロサクソン白人が北米先住民に対して犯した重罪も、深く彼らの集団心理の底に沈殿して、彼らの実存的不安の震源になっていると私は考える。」(pp.22-23)

 「一七七六年、「独立宣言」で、万人に生命と自由と幸福の追求の権利ありと高唱したアメリカが、すでに、完全な人間的自由と生活の基本的幸福を保証する社会を実現していたインディアンの土地を奪い、北米大陸からインディアンを抹殺することを新国家実現の必須条件としたことは、まことに瞠目に値する歴史の皮肉である。この避けることのできない認識が、アメリカ人の集団心理の奥底に沈潜して彼らの原罪意識となったものと、私は考える。」(p.106)

 吉見もテッサもアメリカ白人ではないが、帝国の「良心的」知識人として、「アメリカを取り戻す」というオバマのキャッチフレーズ――藤永氏の言葉に倣えば「際限のない自己欺瞞としての「良きアメリカ」の幻影」(p.11)――に共鳴し、軍部と財界と産業界の複合体が実現させたオバマ大統領当選を、「アメリカ社会の草の根的な民主主義の力」、「インターネットの威力」によると信じて舞い上がっているようである。特に、テッサが、オバマの就任演説に「アメリカ先住民族に関する言及がなかった」こと、先住民に対するジェノサイドが「アメリカ帝国主義の深部」であることを明確に指摘した上で、なおオバマを「リベラルな改革者」として持ち上げていることには、私は寒気を覚える。彼女は、日本という国家についても、その原罪を正しく認識した上で、なお日本人の「集団的自己陶酔、自己催眠、ナルシシズム」を共有することを厭わないだろうと思うから。


●日本の偽善と原罪――テッサの場合

 それでは、日本の偽善と原罪に関するテッサの発言を見ていこう。まず基本的な点として、テッサが大日本帝国は「植民地に技術的な近代化を促し」たという暴言を吐いていることを確認しておこう。例えば、以下のような暴言は、「在特会」内部で飛び交っているとしても、何の不思議もないのではないか。


テッサ 〔前略〕大英帝国とかフランス帝国といった古い帝国には、植民地を技術的に近代化させるという発想がほとんどなかった。でも、アメリカ、日本といった新しい帝国は、植民地に技術的な近代化を促しました。これは大きな相違点ですね。(p.58)


 実際、本書におけるテッサの歴史認識の劣化は半端ないようである。


テッサ 〔前略〕日本の場合はその歴史認識論争がもう二〇年ぐらい続いていますが、表層では、保守派とか、いわゆる歴史修正主義者は日本の過去は素晴らしいと主張し、一方、いわゆる進歩的と呼ばれる人たちは、だいたい日本の罪深い過去のみを強調する、という構図です。イメージとしてはそういう構図ではないでしょうか。

 でもそれはおかしいと思います。実際には保守的な人たちも日本の過去に対して非常に暗いイメージをもっているわけですし、逆に進歩的な人たちも、日本の過去の素晴らしい面を強調してもいい。(p.176)


 「それはおかしいと思います」というのはこっちの台詞である。「その歴史認識論争」にはテッサ自身も参加して、「自虐史観」なる概念を批判していたはずなのに(▼5)、この他人事のような物言いは何なのだろうか?彼女は<佐藤優現象>を(相対的には)中心的に推進しているわけではないが、自らの過去の言動に対する傍観者的態度や、レイシズムと容易に共存しうる非論理的・非倫理的な発言の数々は、<佐藤優現象>を主犯格で遂行している人々のそれと驚くほど似ているように思う。テッサは佐藤のいう「左右の「バカの壁」」を華々しく正面突破してしまったのかもしれない。

 もちろん、テッサは本書でまともなことも述べている。例えば、「戦後民主主義とはまさに日本の植民地主義の忘却の上に成り立ったものであった」(p.131)という指摘がその一つだろう。けれども、彼女のまともさはあまり長続きしていない。


テッサ 〔前略〕私がいちばんショックを受けたのは、占領期の早い段階で、GHQは日本社会の差別をほとんど全部存続させてしまった点でした。これは朝鮮人・台湾人に対する民族差別の継続を容認したことです。戦前との恐ろしい連続性がそこにあります。

吉見 トップは変わっても、マイノリティへの差別、実際の管理面ではシステムが引き継がれていたわけですね。この連続性は、韓国、朝鮮の側からどう見えていたのでしょう?

テッサ 日本の占領当局と、朝鮮半島の南半部にいた占領当局の意見には微妙なずれが見受けられます。例として、日本から朝鮮半島に引き揚げる人たちは、日本で築いた自分の資産はほとんど(一〇〇〇円まで可)持ち帰れなかったのに、朝鮮半島にいる占領当局は、資産が持ち出せるようにするべきだと主張して、論争しています。

吉見 なるほど。〔後略〕(pp.132-133)


 吉見の質問は、日本の戦前と戦後の連続性を朝鮮人がどのように捉えていたのか、というものだと思うのだが(テッサに解答を求める吉見もどうかと思うが)、彼女は、「韓国、朝鮮の側」という吉見の言葉を、「朝鮮半島にいる占領当局」という言葉にすり替えて返答している。吉見も「なるほど」などとそれに応じているので、一見会話は噛み合っているようにも見えなくないが、普通に考えれば、テッサの「誤解」を吉見が適当に流しているだけだろう(▼6)

 それにしても、テッサは吉見の質問の意図を本当に誤解していたのだろうか?もしそうだとすれば、彼女は「韓国、朝鮮の側」という表現が朝鮮人を意味しないと考えたことになり、なかなかに興味深い。一方、テッサが吉見の質問の意図を故意に誤解してみせた可能性もある。その場合、理由として最もありそうなのは、わからない(とは言いたくない)から、というものだろう(バカバカしい理由だが「知識人」にはありがちであると思う)。もしそうだとすれば、彼女は、日本の戦前と戦後の連続性を朝鮮人がどのように捉えていたかについて、まともに考えたことがないということになり、これはこれでまた興味深い。


●日本の偽善と原罪――吉見の場合

 次に吉見の発言を見てみよう。吉見は「エピローグ」で、在朝日本人であった祖父母と母の過去を何やら感傷的に語った後に、次のように述べている。


 私はしかし、国家神道の神様ほど都合よく降臨したり昇神したりできるわけではないが、人生を賭けて朝鮮半島に渡った一般の日本人、またその人生を無理やり捻じ曲げられるように日本に連行され、やがて「帰還」させられていった朝鮮半島の人々ほど生死がかかった困難に直面したのでもない、ちょうど両者の中間に立つ鵺的な立場の人物が、確かに存在したように思う。――もちろん、天皇のことである。東アジアと西太平洋の広大な領域に拡張した大日本帝国の各地に建設されていった何百という神宮、神社、神祠の神々が、終戦とともに早々と姿をくらましてしまった後、そうした神的秩序の中心にいた天皇は、もはや帝国の神々を統べる神格ではありえなくなった。帝国がすでに失われた以上、そしてその再拡張もありえない以上、神であり続けることを辞めて人間になるのが得策である。こうして天皇はアメリカを迎え入れ、その保護の下で人間化を果たす。(p.237)


 吉見が、在朝日本人史を「人生を賭けて朝鮮半島に渡った一般の日本人」の歴史として認識しているらしいこともひどいが(▼7)、それよりひどいのは、この文章が意味すらよくわからないことである。

 吉見は「戦後のフィリピンだとか、あるいは韓国、また沖縄のメディア」(p.127)における天皇報道についてテッサに尋ね(少しは自分で調べろよ)、「終戦直後のフィリピンの『マニラ・タイムズ』を読んでみると、日本に関する報道は、ほとんどありません」(p.127)、「『沖縄タイムス』も調べましたがほぼ同様で、やはり天皇に関する報道はほとんどなかった」(p.128)というテッサの講釈を真に受けて(▼8)、次のようにコメントしている。


吉見 つまり戦後、日本本土のメディアは沖縄や台湾、朝鮮半島やフィリピンなど、かつて自分たちが占領していた地域がその後、日本にどのような眼差しを向けるようになっているかにあまり関心を払ってこなかったし、逆にそれらの地域も日本の動向にあまり関心をもたなかった。自分たちのことで精一杯という面もあったでしょうが、日本本土と沖縄、韓国、台湾などの社会の間には、ある種の情報の壁が構築されていたように見えます。〔中略〕朝鮮半島の人たちやフィリピンの人たちをはじめとする東南アジアの人たちが、昭和天皇に対する断罪を表立ってやり始めるのはいつぐらいからなんでしょうか。(pp.128-129)


 吉見にとっては、「メディア研究」を生業とする自らが、今日まで「かつて自分たちが占領していた地域がその後、日本にどのような眼差しを向けるようになっているかにあまり関心を払ってこなかった」ことや、自分たち日本人が、いまだに昭和天皇個人の歴史的責任を追及することも天皇制を解体することもできずにいることは、何ら恥ずべき問題ではないらしい。

 実際、吉見にとっては、日本の植民地支配・侵略戦争責任と天皇制廃絶はまったく結びついていないようである。吉見は、「今上天皇は、最後までみずからの戦争責任とアジア諸国に対する加害について曖昧な言辞を重ねることしかできなかった昭和天皇とは異なり、はるかに率直に隣国に与えた苦しみに対する日本の責任を認めています。つまり、自ら積極的にコスモポリタンとしてふるまおうとしている。こうした平成の皇室の文化外交官としてのふるまいは、おそらく国内の右翼、ネオ・ナショナリストたちをいらだたせているでしょうが、グローバリゼーションの最先端にいる日本企業にとっては歓迎するべきものだと思います」(p.206)などと語り、「自ら積極的に」天皇制支持者「としてふるまおうとしている」(まあ天皇(家)に対して敬語を使っているのだから当然だが)。吉見の立場からは、天皇訪韓はおそらく日韓「和解」を「先導」するための「皇室外交」として積極的に「歓迎」されることになるだろう。ちなみに、吉見のこの発言には、テッサも「おっしゃるとおりだと思います」(p.207)と賛同している。

 吉見はさらに、植民地の民衆にとっては「天皇という存在は観念にとどまったのではないか」などと勝手なことを述べている。


吉見 台湾や朝鮮、満州において、皇太子や溥儀は生身の身体をさらして人々の前に登場しましたが、天皇その人はほとんど具象化されない。遥かかなたの東京にいるらしい天皇を拝むように強制されても、どこに向けて拝んでいるのか、そこにいる存在と自国の歴史がどのように関係するのかよくわからない。拝んでいる先の具体的なシンボルは曖昧にしか認識されていなかったのではないかという気がします。

テッサ 金日成の肖像みたいなかたちで、いたるところに肖像画が置かれていたり、銅像がつくられたりという方法は採用しない。

吉見 そういうかたちにはならなかった。そうすると、植民地では天皇という存在は観念にとどまったのではないか。〔後略〕(p.74)


 吉見のこのような「分析」は社会学の世界では通用するのかもしれないが(?)、歴史的検証には到底耐えられないだろう。神としての「天皇という存在」は誰にとっても虚構の「観念」でしかなく、その強制の最たる例が「皇民化教育」である。無論、天皇(家)は実体として存在するから、植民地の多くの民衆にとっては、天皇(家)は「具体的な」敵そのものとして明確に「認識されてい」ただろう。だからこそ、趙明河は裕仁の義父に短刀を投げつけ、李奉昌は裕仁に爆弾を投げつけ、彼らを殺害しようとしたのである。もしも、裕仁が植民地を頻繁に訪れていたとすれば、裕仁は民衆によってとっくに殺されていたのではないか。


●帝国の「良心的」知識人と<佐藤優現象>

 最後に、天皇制をめぐる二人の極めつけの会話を晒しておこう。


▼想像力の解放

テッサ たとえば来年から天皇制がなくなるとしたら、何か変わりますか?

吉見 生活の面での急変はないでしょう。ただ、中長期的には社会のあり方が変わってくると思います。何か社会のタガが外れるというか、社会のなかで見えない壁となっていた諸々の制約がなくなることで、日本社会に別の想像力の回路が生まれてくるかもしれません。

テッサ 共和制になれば、それまで当然と思われてきたことにも、選択肢が生まれてくる。

吉見 天皇制を廃止する、というところからスタートするのではなく、共和制的な状況が実現するかもしれない回路を構築していく、というほうが現実的だと思いますね。その結果、天皇制がなくなるか、なくならないかは根本的な問題ではない。ただ、みんなそれが実現できる可能性がものすごく低いと思っているから議論にすらならない。

テッサ これは重要な部分なのですが、多くの研究で指摘されているとおり、現行憲法の平和条項と天皇制はセットで存在しています。つまり日本は平和憲法を受け入れる代わりに、天皇制を存続させることができた。では憲法九条を変え「フツーの国」にするんだという議論がでたら、「それなら天皇制はどうする?」という提起があって当然だと思います。

吉見 天皇の存在を根底から否定する議論は、右翼を刺激しますから、メディアも気軽に流すことができない。それで世論を醸成できない。これは、社会心理学的にはいわゆる沈黙のスパイラル状況ですね。そうすると、人々の発想のなかから共和制論議ということがなかなか生まれなくなってくる。想像力の縮減ですね。

テッサ 想像力の欠如こそ、危険なのです。おそらく現在の天皇制に関する議論、憲法に関する議論で、いろいろな難しい問題はあるのですが、最も大きな問題のひとつは想像力の欠如ではないかと感じます。

 天皇制がなくなっても、さほど世の中に変化はないはずです。いちばん変わるのは、想像力が解放される部分ではないでしょうか。(pp.219-220)


 ・・・・・・いやー、さすがにこの展開はありえんだろ。宝くじでさえ買わなければ当たらないことは子どもでもわかることだが、吉見とテッサは、天皇(家)に対して敬語を使い、「女帝」(容認)論を主張して(▼9)、自ら天皇制を実質的に支えておきながら、一般の「日本人には、天皇制のない日本というものが、もはや想像することすらできなくなっている」(吉見、p.219)が、私たち「良心的」知識人は「想像力が解放され」ているから、「たとえば来年から天皇制がなくなるとしたら」、「生活の面での急変はない」ことや「さほど世の中に変化はない」ことが「想像」できる、などと言っているわけである。それって、天皇制の廃絶について想像してるんじゃなくて、「天皇制の廃絶について想像している私」について想像して悦に入ってるだけじゃないのか?

 当たり前のことだが、日本人が主体的に天皇制を廃絶することは、植民地支配責任・侵略戦争責任を果たし、民族差別や女性差別を克服するという確固たる意志なしに実現しうることではない。したがって、日本人が自ら天皇制を廃絶した時点では、日本政府および日本企業によるアジアへの賠償は相当程度行われており、(冷戦体制への便乗を含む)植民地支配責任・侵略戦争責任の不履行によって担保されてきた、日本経済のアジアに対する優越性も放棄されている、と考えるのが妥当であると思う。日本はすでに「先進国」ではなくなり、日本人の平均的な生活水準は大きく下がっているだろう。それは、在日外国人労働者を含むアジア、第三世界に対する構造的な収奪から、日本人が自らを解放するという意味で、たいへん望ましいことである。

 もちろん、「国益」論的再編成を経たリベラル・左派は、今以上に大衆から相手にされなくなっているだろうから、吉見やテッサのような「良心的」知識人の需要も大幅に落ち込んでいるだろう(岩波書店はとっくに潰れているだろうが)。「生活の面での急変はない」(吉見)、「さほど世の中に変化はない」(テッサ)などと呑気に構えている場合ではないと思うのだが(▼10)

 吉見やテッサのような「良心的」知識人は、自らの「想像力」の飽くなき筋トレのために、かれら自身が本音ではどうでもよいと考えている事柄や人々(天皇制、在日朝鮮人、マイノリティ・・・)についてのお喋りを続けているだけなのかもしれない。ちなみに、二人は日本社会における同調圧力が言論の自由を抑圧していることを批判しておきながら(▼11)、「きわめて素朴な疑問を発しようとすると、「事故」が起こるかもしれない、という雰囲気」を進んで盛り上げていたりもする。


吉見 占領期の雑誌で、『真相』というのがあります。そこでは五〇年前後になると、非常にゴシップ的な天皇のイメージがたくさん出されていた。

テッサ 昭和天皇の顔が、掃除で使うほうきになっていたりする。

吉見 戦後、地方巡幸で天皇が来ると、そこに道路整備の予算などが下りて道がきれいになる。天皇は掃除のほうきと同じようなものだということです。この類のイメージがいっぱいあります。昭和天皇が無数のしゃれこうべを踏みつけている表紙もある。痛烈な批判ですね。

テッサ 以前、吉見さんに見せてもらったもののなかには、まさに相対化された天皇の戯画がたくさんありました。

吉見 いろいろあります。たとえば、「あなたの命令で幾百万の兵隊が戦争にいった。赤紙一枚で、死ににいった。『英霊』のレッテルを貼られて」云々かんぬんと昭和天皇の戦争責任を問う科白がずっと続いていきますね。「宣戦布告の署名人、天皇ヒロヒトよ、あなたはケロリカンとして朕がわるかったともいわぬ。ゆるしてくれともいわぬ」というような具合です。

テッサ 現在こんなものを出版しようとしたら、間違いなく「自主規制」ですね。

吉見 そう、今なら襲撃を受けますね。〔後略〕(pp.136-137)


 ・・・・・・いや、もう何なんですかね、この人たちは。

 さて、そろそろ(とっくに?)読者もうんざりしていると思うので、ネタは尽きないが、このあたりで終わりにしよう。すでに明らかなように、「良心的」知識人である二人の言説は、第一に、<佐藤優現象>と矛盾なく共存しうるものであり、第二に、<佐藤優現象>の中心的な担い手である岩波書店や朝日新聞への批判を、大衆の「反知性主義」として切り捨てることで、<佐藤優現象>の持続を側面から支える役割を担うものであると言える。

 <佐藤優現象>と親和性の高い、この種の「良心的」知識人の言説は、しばしば信じがたいほどの大衆蔑視・愚民観を露骨にさらけ出しているため、一般レベルではそれほど浸透力はないようだが(本書もネット上では酷評されている)、彼ら・彼女らが良心的であるという認識は、<佐藤優現象>に批判的な人々の一部にも、一定程度共有されているように思う。けれども、これまで見てきたように、帝国の「良心的」知識人は、まさに民族差別を容認することによって、人権や平和について語る資格と責任を自ら放棄している、と言わざるを得ない。彼ら・彼女らに対して、私たちが寄せてしまう期待が大きいほど、私たちが差し控えてしまう批判が多いほど、<佐藤優現象>は加速度を増して促進されていくだろう。<佐藤優現象>に対抗するためには、私たちは帝国の「良心的」知識人と決別しなければならないのではないか。


▼5 例えば『批判的想像力のために――グローバル化時代の日本』(平凡社、2002年)など。もっとも、同書には加藤典洋『敗戦後論』への川村湊の「批判」(「湾岸戦争の批判空間」、『群像』1996年6月号)を「至極妥当な疑問」(p.94)として評価するなど、噴飯物の主張も展開されている。

▼6 しかし、単なる飲み会での内輪話としてならともかく、これほど適当な「対談」を出版してしまうとは、吉見とテッサは読者に対して失礼なだけでなく、互いに対しても相当不誠実であると思うのだが。

▼7 吉見は、身内の引揚げ体験の困難さを、森田芳夫の著書を引いて想像している。


日本人世話人会によって組織的に引揚げ事業が行われていく一〇月以降と異なり、初期には「整然たる引揚げはとうてい行なわれず、証明書なしで切符を買うもの、途中から乗りこむもの、それに朝鮮人の往来も多くて、列車は混雑を極めた」(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』厳南堂書店、一九六四年)。(pp.230-231)


 吉見は、「朝鮮人の往来も多くて」在朝日本人の引揚げが大変だった、という類のろくでもない歴史認識の拡大再生産にも一役買っているようである。

▼8 テッサが「読ん」だという「終戦直後のフィリピンの『マニラ・タイムズ』」がいつ頃のものかは不明だが、フィリピンは日本敗戦から1946年7月4日の独立までは米国の占領下にあったため、少なくともこの時期において天皇の戦争責任を追及する報道が困難であったことは、容易に推測がつくと思うのだが。

 もちろん、テッサが「読ん」だり「調べ」たりしていない天皇報道はいくらでもある。例えば、在日朝鮮人の金斗鎔(キム・ドゥヨン)は、1946年2月の『前衛』創刊号で、天皇制廃絶が在日朝鮮人の課題でもあると述べている(「日本における朝鮮人問題」)。本書におけるテッサの在日朝鮮人軽視は、彼女の言説(の変質)が、「先進国」におけるリベラル・左派の「国益」論的再編成と連動していることを実証する上で、最も興味深い論点であると思う。

▼9 しかも、吉見は「女帝」(容認)論を主張するに当たって、天皇(家)の「意向」を忖度してみせている。


吉見 〔前略〕結構、それ〔「女帝」誕生〕をいちばん望んでいるのは、天皇家の人々自身かもしれません。明治国家がつくり上げた「万世一系」というフィクションのために、今やいちばんつらい思いをしているのは、彼ら自身であるように思えてなりません。彼ら自身が誰よりも、たとえ君主制を存続させるにしても、もう天皇制が日本独自の伝統であるというフィクションは終わりにして、ヨーロッパの一般の王室と同様のものになりたい、唯一性はもう捨ててしまいたいと思っているのではないでしょうか。〔中略〕天皇の地位は、今よりも不安定になるかもしれませんが、天皇家の人々は、確実に今よりも自由にふるまえるようになるでしょう。(p.223)


 「天皇家の人々自身」が天皇制の最大の被害者であるという「フィクション」にはとてもついていけないが、私の知る限り、この手のフィクションを共有しているリベラル・左派は少なくない。それにしても、天皇制や「ヨーロッパの一般の王室」を含む王制が差別そのものであるという基本的な認識さえない人物が、「良心的」知識人として通用している日本の言論状況は恐ろしい限りである。

▼10 天皇制があろうがなかろうが「根本的な問題ではない」という「東大の学者」の暴言は、例えば「君が代」「日の丸」が日々強制される現場の教師にとっても受け入れがたいものだろう。吉見やテッサと比べれば、天皇制がなくなれば日本は崩壊すると絶叫しているネット右翼の方が、日本社会における天皇制の影響力を相応に把握しているという意味で、よほどまともである、と私には思える。

▼11 

吉見 ただ、ほんとうに行動右翼や街宣車右翼が政治力をもっているのかどうかは疑問です。

テッサ でも、「こんなことを書いたらやられる」とか、マスコミは自主規制します。任侠右翼団体を例外とすれば、思想右翼団体の規模はそれほど大きくありません。ですので右翼の戦略は、ものすごくコスト・エフェクティブです。散発的に事件を起こすだけで、これだけの恐怖感を植え付けることに成功した。〔中略〕マスコミにも、右翼をエクスキューズとしている側面があると思います。だから、自己検閲するにあたって、右翼は都合のいい存在として利用される。

吉見 「右翼からの攻撃」を隠れみのにしている面はありますね。

テッサ 現在の日本社会のひとつの性格は、すぐに警戒してしまう点です。昭和天皇のご病気の際の自粛など、これが民主的で自由な国なのか、と思いました。天皇制批判だけではなくて、拉致問題に関しても、異なった意見を発言できないような圧力を感じる。言論の自由をもっているのは、多数派だけじゃないのか。たとえば天皇制でも拉致問題でも、きわめて素朴な疑問を発しようとすると、「事故」が起こるかもしれない、という雰囲気がつくられます。実際、どうなるかは誰も説明しないけれど、何か嫌なことが起こるに違いない、だから発言してはいけない、何もするな、と。でも、それはすごく危険で卑しいことです。(pp.144-145)


 もちろん、本書自体が保守・右派に対する媚ではないのか、という話もある。

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