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Home > スポンサー広告 > 「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (1)

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (1)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(1) はじめに

 やや挑発的な連載と思われるかもしれないが、タイトルは別段誇張ではない。当ブログでは、このたびの「岩波書店の著者」による政権の成立に便乗して、「岩波書店批判強化月間」を実施することにした。第一回目の題材は、岩波新書から刊行されている「シリーズ日本近現代史」(全10巻)である。

 本シリーズの第5巻『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子、2007年)については、以前のエントリーで取り上げたので、今回は「戦後」を扱った、第7巻『占領と改革』(雨宮昭一、2008年)、第8巻『高度成長』(武田晴人、2008年)、第9巻『ポスト戦後社会』(吉見俊哉、2009年)および第10巻『日本の近現代史をどう見るか』(岩波新書編集部編、2010年)を検討することで、個々の著者の歴史認識を明らかにし、その問題性と岩波書店(新書編集部)の社会的責任を追及することにしたい。

 結論を一部先取りして言えば、本稿で述べる「国民の正史」とは、「つくる会」に象徴される右派の歴史修正主義そのものを指すわけではない。本シリーズにおいては、<佐藤優現象>と連動し、またそれを推進する形で、右派とは(一見)別の「国民の正史」を立ち上げる試みが行われているのである。そこでは、侵略の結果として多民族国家になった日本の歴史から、(大和民族以外の)他民族を徹底的に排除することで、「国益」論的再編成を経たリベラル・左派の(自己正当化の)欲望に奉仕しようとする語りが意図されている。より具体的に言えば、本シリーズの「戦後」史を読んでも、なぜ朝鮮人が日本にいるのかはまったくわからないようになっているのである(もっとはっきり書けば、朝鮮人が日本にいることすら、あまりよくわからないようになっている)。まさにリベラル・左派版「国民の正史」であり、岩波書店版「歴史修正主義」とさえ呼べるのではないかと思うが、この点については第五章で改めて考察する。まずは本シリーズの言説を個別に追っていこう。


(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』

(2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者

 シリーズ日本近代史⑦『占領と改革』の著者は、岩波書店から『戦時戦後体制論』(1997年)を出版した「政治学」者の雨宮昭一である。雨宮は、その特異な歴史観から、その筋では有名な人物であり、岩波新書編集部による本企画での雨宮起用は、言ってみれば、護憲派が憲法記念日のイベントのパネリストに著名な9・11陰謀論者を採用するようなものである。要するに、意外とよくあること・・・いや、それ自体が社会的悪影響をもたらす点で批判を免れないわけだが、後述するように、雨宮の論理の非科学性は、「水からの伝言」にもおさおさ引けを取らないため、岩波書店の雨宮起用は、岩波の迷走ぶりを読者に周知徹底させるという、社会的にかえって好ましい影響もあるかもしれない(いずれにせよ不愉快ではあるが)。

 雨宮の歴史観の特異性は、何と言っても、雨宮が「戦後」を肯定するために「戦前」との連続性をひたすら賞賛しまくる点にある。雨宮は、(リベラル・左派の一部がそうであるように)「戦後」を肯定するために「戦前」を否定しているのでもなく、(保守・右派の一部がそうであるように)「戦後」を否定するために「戦前」を肯定しているのでもない。雨宮は本書で、リベラル・左派および保守・右派を含む日本人マジョリティが否定する「戦前」と「戦後」の連続性を執拗に強調しているが、それは大日本帝国の負の遺産を継承する日本社会/日本人を批判するためではまったくなく、逆にそれらを臆面もなく祭り上げるためなのである。

 これだけでも雨宮がユニークな「政治学」者であることは明らかだが、雨宮のもう一つユニークな点は、持論(その多くは仮説ですらなく単なる妄想と化している)を展開する際に、その根拠をろくに示さない、または歴史的事実を曲解・歪曲(してその「根拠」に)する、といった習性が、あまりにもわかりやすく観察できることである。

 さて、雨宮の持論のポイントは、一言でいえば「占領がなくても戦後改革はおこなわれた!」(強調は引用者による。以下同様)というものである。本書の編集者(平田賢一)は、「このような考え方はまだ一般にはあまり浸透していませんが、研究レヴェルでは一つのパラダイム転換をおこしたものといわれているようです」と解説している。「このような考え方」は、岩波書店では「一つのパラダイム転換をおこしたものといわれている」のかもしれないが、管見の範囲では、「一般」からも「研究レヴェル」からも、あまり相手にされていないようである(▼1)

 ちなみに、雨宮は「占領がなくても戦後改革はおこなわれた!」根拠の一つとして、大日本帝国が総力戦体制によって「社会民主主義的体制」を実現していたことを挙げている(雨宮によれば大日本帝国は何と「福祉国家」だったそうである(▼2))。

 バカバカしくて大変恐縮だが、以下に雨宮の驚愕の持論を抜粋しよう。


 総力戦体制の前の時代である一九二〇年代の日本の社会は、どのような社会であったのか。〔中略〕農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等は、一九三〇年代以降も存在した。とくに一九二九年から始まる世界大恐慌の中では、この格差と不平等が緊急に解決すべき問題として出てくる。この問題の解決には三つの方法があったと考えられる。第一は社会運動による解決、第二は社会の中の支配層の進歩的な勢力と中間層以下との連合による解決、第三は総力戦体制への参加による平等と近代化、現代化による解決である。

 第一の社会運動による格差と不平等の解決の方法は、治安維持法などによって運動が弾圧されたり、政治参加が限定されることによって不可能になった。

 第二の社会の中の支配層の進歩的な勢力と社会の中間層以下との連合は、どうだろうか。〔中略〕日本の場合には、民政党と無産政党との連合によるこの可能性はあったが、日中戦争の開戦によって不可能になった(雨宮昭一『戦時戦後体制論』第一章)。

 しかし、社会に存在する格差と不平等の問題は依然として残り、それどころか、いっそう強化された形で一九三〇年代の後半には出てきた。したがって、いま言った第一と第二の二つの方向が閉ざされたことによって、大部分が第三の総力戦体制に参加し、平等化と近代化、現代化するという解決方法によることになる。

 結論をいえば、日本では国家総動員体制(総力戦体制)によって社会が変革されたのである。一九三〇年代の後半から四〇年代前半の総力戦体制によって、社会関係の平等化、近代化、現代化が進行した。(pp.2-4)


 雨宮は、「農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等」の「解決方法」として「国家総動員体制」を評価しているが、「さまざまな格差と不平等」というからには、当然そこには民族間の差別と不平等が含まれていなければならない。つまり、雨宮は、アジアの諸民族との「格差と不平等」をも「解決」するために、日本人はアジアを侵略したと主張していることになる。

 念のため述べておけば、「一九三〇年代の後半」――とりわけ「七・七事変」(いわゆる「盧溝橋事件」)以降――は、女性運動や水平運動の指導者が天皇制に全面的に屈服し、民衆を侵略に煽動して、自ら侵略に積極的に加担することになる、決定的な分岐点である。雨宮は、「第一の社会運動による格差と不平等の解決の方法は、治安維持法などによって運動が弾圧されたり、政治参加が限定されることによって不可能になった」と秒殺しているが、女性運動や水平運動の崩壊は、治安維持法などによる運動の弾圧や「政治参加が限定されること」によって直接もたらされたわけではない(▼3)「格差と不平等」の「現実的」な解決方法と称して「総力戦体制」を全面擁護する雨宮の歴史観は、「一視同仁」や「八紘一宇」を絶叫してアジア侵略を煽動した国家社会主義者の歴史観とも半ば重なっているのではないだろうか。


▼1 本書の読者の一般的な反応(と思われるレビュー)を以下に挙げておく。


この著者のように,「占領がなくても,日本の民主化が進んだのだ」などと語るのは,結局,単なる歴史的自慰行為にしかすぎないように思います。

あの岩波書店が,このような新書を「占領と改革」として出版する世の中になったのですなあ。

 夜明け前の独り言 弁護士 水口洋介:「読書日記 「占領と改革」 岩波新書 雨宮昭一著」
 http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2008/02/post_ce65.html

▼2


 また、自由主義と封建体制、保守と革新という対抗軸から離れて自由に事態をみると、たとえばイギリスでは、総力戦体制を社会民主主義が担い、国民に負担を負わせたため、大きい政府、福祉国家を形成した。それに対し日本の場合は、社会国民主義と国防国家派が総力戦体制を推進し、大きな政府、福祉国家をつくり、それは戦後に継承された。(p.192)


 ・・・・・・素朴な疑問だが、「社会国民主義」ではなく「国家社会主義」の間違いではないのだろうか?

▼3 鈴木裕子『フェミニズムと戦争――婦人運動家の戦争協力』(マルジュ社、1986年)およびキムチョンミ『水平運動史研究――民族差別批判』(現代企画室、1994年)など参照。

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