スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments:-

Comment Form

Trackback+Pingback:-

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/96-3c999334
Listed below are links to weblogs that reference
スポンサーサイト from media debugger

Home > スポンサー広告 > 「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (3)

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (3)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性

 というように、本書に対しては突っ込みを入れていくとキリがなく、かつ不毛な気分に陥ってくるのだが、もうしばらく雨宮のボケに付き合ってみるとしよう。

3.教育改革――「復帰」するべき植民地主義的「日常」

 教育改革についての雨宮の歴史認識も相当すさまじい。雨宮は、大日本帝国の教育がおかしくなったのは1930年代からなのだから、敗戦後は放っておいても、復古的な教育「改革」が可能だったと強弁するのである。雨宮の脳内では、教育勅語やそれに基づく朝鮮民族に対する同化教育は、どうやら全面的に肯定されているようだ。


 教育内容についていうと、小学校の読本が「ススメススメ ヘイタイススメ」という軍国主義的色彩の濃いものになったのは一九三三年からであり、「国家への献身……の強固な確立」(橋田邦彦文相)を目的とする国民学校制度が開始されたのは四一年であった(久保前掲論文〔久保義三、「占領と教育改革」、中村政則編『占領と戦後改革』(近代日本の軌跡6)、吉川弘文館、1994年〕)。つまり、これらの教育内容は「満州事変」以来の戦争状態という非日常的な体制の中でおこなわれた教育内容と制度であって、一九二〇年代の平常時のものとはかなりちがう。したがって、敗戦ということになれば、その制度と内容の少なくとも平常への復帰、つまり二〇年代への復帰ということが当然考えられるので、占領当局が勧告しなくても、敗戦によって軍国主義的な内容が変えられるということはほぼ自明と考えてよい。(pp.43-44)


 雨宮によれば、植民地支配と、「満州事変」以前の日本のアジア侵略は、「日常的な体制」であり、「復帰」するべき「平常」であり、何も問題ないらしい。大日本帝国の1920年代と言えば、「大正デモクラシー」の時代であり、日本人による台湾原住民族殺戮の時代であり(▼5)、朝鮮独立運動への弾圧と朝鮮民族に対する虐殺をより徹底していく時代であり(1920年~1921年の間島侵略、1923年の関東大震災時のジェノサイド、1928年の裕仁即位前の度重なる弾圧など)、治安維持法による大弾圧(1928年3月15日)が行われた時代であり、まさに侵略と天皇制が強化されていく時代そのものであるはずなのだが。

 「日本は「満州事変」によっておかしくなった(「満州事変」までの日本はまともだった)」という雨宮の歴史観の独善性は、「司馬史観」よりひどいとしか思えないが、本シリーズの著者に雨宮を起用した岩波書店は、いつからおかしくなった(いつまでまともだった)のだろうか?なお、雨宮が、解放後の在日朝鮮人の民族教育と日本政府によるその弾圧を徹底的に無視していることについては、次節で述べる。

4.政教分離――歴史の偽造

 雨宮は、靖国神社に関しても適当な発言を重ねている。これでは歴史叙述ではなく単なる妄想の垂れ流しだろう。


 四五年一二月一五日、「国家と神道の分離の指令」(神道指令)、つまり政府による神社、神道への支援、監督を禁ずるという指令が出され、国家と神道の分離がおこなわれた。これも非常に複雑な問題であるが、国家と神道が癒着したのは、やはり戦時体制の中でであった。国家と神道との癒着は三五年から三六年にかけての国体明徴運動のように機関説的天皇制から神権説的天皇制への移行がなされたことと深い関係があるだろう。国家と神道との癒着による戦時体制は、敗戦によって、権威の凋落は明らかであった。したがって、これも国家と神道の分離の仕方が、GHQが指令したようになるかならないかはともかくとして、少なくとも戦時中のような形での癒着そのものは、GHQが神道指令を出そうと出すまいと、もう少し時間はかかったかもしれないけれども、分離がありえたと考えるべきではないか。(pp.44-45)


 高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書、2005年)から引用して紹介すると、「靖国神社は一九六九年に東京招魂社として創建され、一〇年後の一八七九年に靖国神社と社号を改称し、別格官弊社となった。その間、一八七四年の「台湾出兵」から海外派兵における戦死者の合祀を開始し、日清戦争に至った」(p.44)。ちなみに、靖国神社には「明治維新」と「西南戦争」による戦死者も祀られているが、靖国が祀っているのは「官軍」の死者のみで、「賊軍」の死者は一人も祀られていない。

 つまり、国家と神道の癒着は、靖国神社(当時の「東京招魂社」)の創建時から明らかなのであって、さらに日清戦争直後の1895年11月14日に、「時事新報」(福沢諭吉が創設し、社主を務めていた新聞)が「戦死者の大祭典を挙行す可し」という論説を発表した後、同年12月15日から「大寺安純陸軍少々以下一五〇〇名の招魂式が挙行され〔中略〕日清戦争の臨時大祭が行われ〔中略〕二日目には「大元帥」明治天皇自らが靖国神社に参拝」(p.45)するなど、「靖国信仰のシステムが確立され」(p.44)ていくことになる。「国家と神道が癒着したのは、やはり戦時体制の中でであった」という虚偽の前提にもとづいて、占領がなくても国家と神道の分離がありえただろうと語る雨宮は、一体どこまでおめでたいのか。

5.財閥解体――朝鮮人・中国人強制連行の無視

 財閥に対する雨宮の「寛容」も特筆に価する。雨宮は、財閥は「必ずしも日本軍国主義の温床であるとはいえ」ず、財閥解体は非軍事化や経済民主化を特に意味しなかっただろうと述べている。単純な話として、雨宮は帝国主義というものをまるで理解していない(したくない)のではないかと思う。


 少なくとも一九二〇年代をみると、大財閥は基本的には総力戦体制に対してかなりの程度消極的であり、著者の言う四つの政治潮流の中では自由主義派である。だから新興財閥以外の旧財閥は、必ずしも日本軍国主義の温床であるとはいえないのではないか。少なくとも政治勢力からみると、そのことははっきり言える。(p.51)


 面倒なので、もういちいち突っ込まないが、雨宮が朝鮮人・中国人に対する強制連行をまったく問題視していないことは、「少なくとも」ここから「はっきり言える」だろう。

6.農地改革――時空間の超越

 雨宮によれば、「第一次農地改革案をつくったのは、四つの政治潮流論でいうと、国防国家派であり、日本の戦時体制で総力戦体制を推進した派であった」(pp.53-54)ため、①「総動員体制そのものもまた、農地改革を求めていたという側面があることを意味する」(p.54)のだという。雨宮には時間の概念もあまりないようだ。こんな論理が通用するなら、「「戦後」に反戦平和を唱えるようになった日本人の多くは、「戦前」には日本のアジア侵略に加担していた」のだから、「日本のアジア侵略そのものもまた、反戦平和を求めていたという側面があるということを意味する」、ということにもなってしまう。

 雨宮は、②「敗戦によって海外の植民地がなくなっていたから(図2-9、2-10)、敗戦そのものが、国内の食料生産問題を考えざるをえなくさせていた。いっそう農地改革の内発的な必然性は高まらざるをえなかっただろう」(p.54)とも述べている。①と②は端的に矛盾しているのだが、「雨宮史観」においては、あらゆる矛盾は日本人の「主体性」によって止揚されるため、この程度の論理的破綻は珍しくも何ともないのであった。

 ちなみに、「図2-9」は「海外からの引揚げ者の地域別分布」(p.55)であり、「図2-10」は「帰国を前に所持品の検査を受ける兵隊たち」(p.56)である。一方、日本に約230万人いたと言われる解放後の朝鮮人がどうなったのかは、本書を読んでもまったくわからない。というか、そもそも朝鮮人が日本にいる(いた)ことさえよくわからないのであった。


▼5 キムチョンミ著『故郷の世界史――解放のインターナショナリズムへ』(現代企画室、1996年)参照。

 「一九二〇年九月一八日、台湾中央部に住むタイヤル族のサラマオ部の民衆が、警官の分遣所と派出所を攻撃した。それにたいして日本警察は、「味方蕃」(警察に協力する台湾原住民族)をも利用して、報復した。

 一九二一年五月から六月にかけて、日本軍と警官隊が、ブヌン族の「ターフン社」「トシヨ社」を襲撃した。その最終段階の六月一七日に、かれらは「トシヨ社」に侵入し、「蕃社附近の耕地を蹂躙蕃屋を焼却」し、翌一八日午前二時には、留置所に監禁していた「トシヨ社」の二二人の人びと全員を、「臨機処分」した。

 台湾原住民族襲撃・殺戮に、日本赤十字社も参加していた。〔中略〕この年〔1928年〕七月に、一八九五年以後の台湾での日本人戦死者全員などを「祭神」とする「建功神社」が、台北市に立てられた。」(pp.69-71)

Comments:0

Comment Form

Trackback+Pingback:0

TrackBack URL for this entry
http://mdebugger.blog88.fc2.com/tb.php/96-3c999334
Listed below are links to weblogs that reference
「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (3) from media debugger

Home > 岩波書店批判キャンペーン > 「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (3)

Recent Comments
Recent Trackback
Search
Meta
Links
Feeds

Page Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。