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ZED 元凶は佐高でしょうか URL 2010-06-10 (木) 15:00

石橋湛山を必要以上に誉めそやすというのはやっぱり佐高信が元凶でしょうね。確かに岸信介のような侵略主義丸出しな連中に比べればマシと思いますが、だからといって過大評価はよくありません。ましてやそれを持ち出して朝鮮や中国の独立運動・抗日運動と同等に扱うのは完全に間違いです。佐高は「佐藤優現象」が顕著になる前から湛山を礼賛していた訳ですから、やっぱりあのオッサンは罪深いですね。荒井信一の言も完全に佐高の言い分に依拠するものですから。
でも石橋湛山を誉めそやすのはまだ可愛い方で、最近目に余るのは甘粕正彦の美化・礼賛ではないでしょうか。現在甘粕正彦の名で検索するとこの男を「有能な人間だった」「魅力的な人物だった」「大杉栄虐殺は事実でなかった」「彼は陸軍や関東軍の罪を背負わされた人間だった」といった類の文が書かれたサイトやブログが大量にヒットして凄い事になります。多分最近の甘粕礼賛は佐野眞一の「甘粕正彦 乱心の曠野」と村上もとかの漫画「龍-RON-」(この漫画は特に悪質ですが、村上もとかの最近の他作品も同様に愚劣極まりないものが多く、今や完全にかわぐちかいじ2世とも言うべき路線を歩んでます)を受けてのものが大半でしょう。私はこれまで「甘粕正彦 乱心の曠野」と「龍-RON-」を日本のアジア侵略を追求する立場から批判的に取り上げた文章をネット・リアル問わず見た事がありません。本当に気持ち悪くなるくらい。

m_debugger Re: 元凶は佐高でしょうか URL 2010-06-10 (木) 18:09

>ZEDさん

佐高は本当にどうしようもないですね。コメントいただいて気づきましたが、荒井氏は原典に当たっていない可能性が高そうですね。いつも有益な情報ありがとうございます。

>最近目に余るのは甘粕正彦の美化・礼賛ではないでしょうか。

これはまったく知りませんでした。本当に来るところまできてますね・・・。村上もとかは子どもの頃『六三四の剣』を読んだきりですが、よりによって、かわぐちかいじ2世になっていたとは。ブックオフで見かけたら読んでみようと思います。

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Home > スポンサー広告 > 植民地支配責任から撤退する左派 (前半)――『世界』の場合

植民地支配責任から撤退する左派 (前半)――『世界』の場合

■目次
(1) はじめに
(2) 再論:「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性を問う
(3) 三・一独立運動と五・四運動と「小日本主義」?
(4) 植民地なき植民地主義――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判①
(5) 「東アジア共同体」構想の原点?――石橋湛山「大日本主義の幻想」批判②
(6) 現代版「石橋湛山」としての『世界』の論調
(7) おわりに


(1) はじめに

 『世界』の最新号(2010年7月号)に、「韓国併合」無効などを確認する日韓知識人の共同声明(「「韓国併合」100年 日韓知識人共同声明」)が掲載されている。今号の『世界』には、「声明」の発起人であり立役者である和田春樹と荒井信一による解説文(和田春樹、「日韓知識人共同声明の発表にあたって」)および論考(荒井信一、「植民地支配責任と向き合うために」)も併載されており、『世界』があたかも「植民地支配責任と向き合」っているかのようなアピールがなされている。

 このアピールが見掛け倒しであることは、ごく最近の一例では『世界』6月号に登場した遠藤哲也の論文を思い起こすだけで明らかだろうが、今回の荒井氏の論考に関しても、「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性について執拗に指摘してきた立場上、不本意ながら批判せざるを得ない。


(2) 再論:「慰安婦」立法と「国民基金」の連続性を問う

 荒井氏に対する私の批判は、必然的に過去のエントリーと重複する点が多いので、以下については手短に済ませよう。

1.「東アジア共同体」構築の手段としての過去清算の位置づけ

 以前述べたことの繰り返しになるが、「遅くとも民主党政権成立以降、戦後補償を求める日本の左派の言説は、極言すれば、アジア諸国の「反日」感情を飼い馴らして「和解」を実現するための有益な投資として「戦後補償」が必要である、というものになっており、民主党の東アジア共同体構想や日韓「和解」キャンペーンにも無理なく回収されてしまったようである」。

 荒井氏は本稿で、民主党政権による東アジア共同体構想を、「東アジア全体の冷戦体制の克服、平和的発展の可能性を広げるおおきな機会ともなることが期待される」(p.93)とまで評価する一方で、アジアの「反日」ナショナリズムへの警戒をさりげなく呼びかけている(p.93、p.96)。荒井氏は、「〔引用者注:東アジア共同体を推進する上での〕問題は、未来志向の立場から現在の問題を整理し、諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくことであろう」(p.93)と述べ、日本の植民地支配責任・侵略戦争責任の履行を、民主党政権下における「東アジア共同体」構築の手段として位置づけ、日本国民による植民地主義的・帝国主義的ナショナリズムの克服なきアジアとの「和解」を訴えているように、残念ながら思われる(▼1)

 まさに本末転倒の論理であり、高校「無償化」の適用対象から朝鮮学校が排除された後でなお、民主党政権が「東アジア全体の冷戦体制の克服」や「平和的発展」を推進しうる、と荒井氏が本気で考えているらしいことにも、正直言って大変困惑させられる。

2.官僚を主要敵とする植民地支配未清算論

 これもすでに指摘したことだが、荒井氏も植民地支配の未清算の責任をもっぱら官僚に押しつけようとしているように見える。官僚を主要敵として、「政治家の高度の関与とリーダーシップ」が植民地支配の清算に不可欠であるとする荒井氏の論理は、それ自体危ういものだと言わざるを得ないが、とりわけ現在の政治情勢のもとでは、解釈改憲を可能にする小沢一郎主導の国会法改定に対するリベラル・左派の批判を、より一層弱める働きをするのではないか、と危惧される(▼2)

3.村山談話、日朝平壌宣言に対する肯定的評価

 荒井氏は、村山談話や日朝平壌宣言について、「さまざまな限界はありながら、すくなくともレトリックの上では日本政府は、植民地支配の加害責任を公式に認めた」として、「このことは四〇年の歴史における大きな変化である」(p.100)と肯定的に評価している。どうやら何度でも繰り返さなければならないようだが、宮沢談話にせよ村山談話にせよ日韓パートナーシップ共同宣言にせよ、すべては日本国家の法的責任の否認を貫徹した上での「道義的」な「お詫び」にすぎない。日本政府が植民地支配の法的責任を認めたことは、「四〇年の歴史」を通じて一度もない。「レトリックの上で」さえないのである。

 荒井氏は上記に続けて「問題はこの責任を日本政府がいかに果たすかである。それが日韓和解の前提になる。その場合、まず韓国の主張する旧条約無効の主張を日本政府が認めることが出発点になる」(p.100)と論じている。日本政府は法的責任の否認の上に成り立つ「道義的責任」しか認めていないのだから、「この責任を日本政府が・・・果たす〔引用者注:「道義的責任」を果たす〕」ために「旧条約無効の主張を・・・認める〔引用者注:法的責任を認める〕ことが出発点になる」という荒井氏の主張は、端的に言って、あまり説得的ではないだろう。(▼3)

4.日韓「和解」の落としどころとしての「促進法」

 以上から当然予期されるように、本稿の結論は、「当面の課題としては、現在日本の国会に上程されている戦時性的強制被害者補償のための法案、国会図書館法改正案(平和調査会法案)の制定を実現することが、北東アジアの和解への大きな一歩となろう」というものである。荒井氏は、「基金による一括解決も選択肢にはいるが、アジア女性基金の失敗から学ぶことが重要である」とも述べており(▼4)より完璧な「国民基金」の必要性を主張しているようにすら受け取れる発言をしている。いずれにせよ、荒井氏および『世界』編集部は、日韓「和解」の落としどころを「促進法」(第二の「国民基金」)に求めているわけであり、強く批判せざるを得ない。


(3) 三・一独立運動と五・四運動と「小日本主義」?

 さて、これらを前提とした上で、荒井氏の論考で私が最も問題だと思うのは、次の箇所である。


 日本は第二次日韓協約(乙巳条約)により韓国の保護国化をすすめ、最後には韓国併合条約(一九一〇年八月二二日)によって韓国を植民地化した。韓国併合一〇〇年目を迎えるときに、日本の首相が東アジア共同体の構築を提唱したことの意義をおもく見たい。それは最初の世界戦争が終り、あたらしい平和秩序の構築が問題となった一九一九年に、日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていたからである。(p.94)


 ここで荒井氏は、三・一独立運動と五・四運動と並べて、石橋湛山の「小日本主義」を挙げて、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」ことの論拠にしている。


 日本でもワシントン会議をひかえた二一年夏、東洋経済新報の社説で石橋湛山(のち一九五六年に首相)は「もしわが国にして支那〔中国〕またはシベリアをわが縄張りにしようとする野心を棄てるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太も必要ないという態度に出るならば、戦争は絶対に起こらない」と述べ、侵略と植民地の放棄を東アジアの平和の大前提とした。(p.95)


 三・一独立運動も五・四運動も、朝鮮と中国の民衆による広汎な反植民地主義・反帝国主義運動であり、石橋の一社説を持ち出して、「日中韓三国の人々がひとしく東アジアの平和の視点から、韓国の独立の問題をとりあげていた」と主張すること自体、あまりにも無理がある、と言わざるを得ない。けれども、それ以上に私が問題だと思うのは、上記の社説をあたかも反植民地主義・反帝国主義の主張であるかのように語る、荒井氏の「レトリック」である。これは原典に当たりさえすれば容易にわかることだが、石橋は植民地の放棄を訴えてはいるが、植民地主義の放棄を訴えてはいないのである。

(後半に続く)


▼1 強調は引用者による。以下同様。

 鳩山由紀夫首相は就任早々、中国胡錦濤主席との会談で、「日中の違いを乗り越えて信頼関係を構築し、東アジア全体の共同体を構築したい」と提案した。同様の提案は韓国に対してもなされ、東アジア共同体の構築が三国共通の課題として急速に表面化した。

 東アジアは、冷戦という過去の清算がもっとも遅れていた地域のひとつであったが、日本における政変が単なる政変の域をこえ、東アジア全体の冷戦体制の克服、平和的発展の可能性を広げるおおきな機会ともなることが期待される。

 東アジアにおける共同体への展望を可能にした基盤はいうまでもなく経済的諸関係の発展と緊密化であり、ヒトとモノ、カネの広範な移動と交流である。同時に急激な社会的経済的変化と格差の拡大などにさらされつつある地域の人たちの文化的心情的な側面、とくにナショナリズムの問題に留意する必要がある。しかしまた「韓流ブーム」のように大衆文化の相互浸透が社会間の距離を縮め、相互に等身大の理解を広めつつあることも無視できない。問題は、未来志向の立場から現在の問題を整理し、諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくことであろう。(p.93)


 「急激な社会的経済的変化と格差の拡大などにさらされつつある地域の人たちの文化的心情的な側面、とくにナショナリズムの問題」という、主体を(おそらく意図的に)曖昧にした問題提起は、自らの植民地主義的・帝国主義的ナショナリズムを決して解体しようとしない、「国益」論的再編成後のリベラル・左派にも受け入れやすいものだろう(このような表象においては、日本ナショナリズムの問題は、せいぜい貧困層に特有の問題として処理できるため)。「問題は〔中略〕諸国民の多様な意識、生活や歴史、文化を尊重しながら歴史的葛藤を理性的に処理してゆくこと」ではなく、日本国民の植民地主義的・帝国主義的「意識、生活や歴史、文化を」徹底的に変えていくことではないのか。


二〇〇五年、日本政府が国連安保理事会の常任理事国入りを要求したのにたいして、中国で日本の常任理事国入りに反対する署名がネット上で二〇〇〇万人分を超えた。署名は「反日」というよりは、アジアの人々の信頼を得るために日本が歴史問題に正しい態度をとるべきだという趣旨であった。中国人の語感からすれば、日本の国連安保常任理事国入りは、日本が過去の戦争の清算をしないままに連合国の中枢にのしあがる不条理に映じたのである。(p.96)


 別に「中国人の語感」に限らず、反植民地主義の普遍的立場からすれば、「日本が過去の戦争の清算をしないままに連合国の中枢にのしあがる」ことは「不条理」そのものである。荒井氏は、中国の民衆による「反日」と日本への過去清算請求を相互排他的に捉えた上で、中国の民衆(の一部)が「反日」であることを否定していない。第二の「国民基金」を首肯しない被害国・被害者の声を「反日」的論調として片付けようとする「慰安婦」立法推進派の論理に、荒井氏も与してしまうのだろうか?

▼2 

 一般的にいって戦後日本の政策決定には官僚制の影響力が強い。官僚制は行政組織を縦割りに分割し権限と責任を分割する。七〇年代に入り、外交のような高次の政策決定に首相官邸が積極的に関与し、官僚制と一定の距離を置いて政策決定をリードする例があらわれた。日中関係での田中首相と中曽根首相の政治手法がその例である。九〇年代の村山首相にもこの方法は受け継がれた。

 上述の政治文書〔引用者注:「これまで日本が公約してきた宮沢官房長官談話(一九八二年)、村山富市首相談話(一九九五年)、日韓パートナーシップ共同宣言(一九九八年)などの約束や趣旨」(pp.98-99)〕にあらわれた国家間の合意は政治家の高度の関与とリーダーシップの産物であった。しかし今世紀にかけて自民党は単独では政権を維持できなくなり、与党の統治能力は劣化した。その間、歴史問題については、文科省も外務省も上記の政治合意を一見尊重する姿勢をしめしながら実質的にはタテマエ化することで骨抜きにしつづけた。その結果、歴史問題を共同で解決しようとする強い政治意思と統合的な歴史政策を明確にしめせないままに周辺諸国の反発と不信を増幅させる状況があった。(pp.99-100)


 自民党の単独政権時代はそう悪くなかった、と言っているように読めるのだが、気のせいだろうか。

▼3 さらに遺憾なことに、「声明」も同様の論理展開になっている。


 現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代に入って、河野官房長官談話 (1993年)、村山総理談話 (1995年)、日韓共同宣言 (1998年)、日朝平壌宣言 (2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。

 なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強制的なものだった」と認めている。村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。

 そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約について判断を示し、日韓基本条約第2条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提をなしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められている。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。


 「韓国併合」100年 日韓知識人共同声明
 http://www.iwanami.co.jp/sekai/2010/07/105.html

▼4 

 日本政府が旧条約無効を認めた場合、文言は上述の諸宣言の表現でもよいが、むしろ実質的な謝罪と補償をどうするかが問題である。謝罪にはまず真相究明などのプロセスが不可欠である。まず日韓会談の議事録等、政府所有の歴史文書の機密解除と公開、韓国の真相糾明の動きへの協力等からはじめなければならない。補償は謝罪・真相糾明と連動するが、何らかの財の移動(物質的措置)が必要である。基金による一括解決も選択肢にはいるが、アジア女性基金の失敗から学ぶことが重要である。当面の課題としては、現在日本の国会に上程されている戦時性的強制被害者補償のための法案、国会図書館法改正案(平和調査会法案)の制定を実現することが、北東アジアの和解への大きな一歩となろう。(p.102)


 「実質的な謝罪と補償」に責任者処罰が含まれていない点も気になるところである。なお、荒井氏は誤解しているようであるが、「促進法」が上程されたのは、第169回国会(常会、2008年1月18日~6月21日、参議院)が最後であり、今国会でも法案は上程されていない。

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ZED 元凶は佐高でしょうか URL 2010-06-10 (木) 15:00

石橋湛山を必要以上に誉めそやすというのはやっぱり佐高信が元凶でしょうね。確かに岸信介のような侵略主義丸出しな連中に比べればマシと思いますが、だからといって過大評価はよくありません。ましてやそれを持ち出して朝鮮や中国の独立運動・抗日運動と同等に扱うのは完全に間違いです。佐高は「佐藤優現象」が顕著になる前から湛山を礼賛していた訳ですから、やっぱりあのオッサンは罪深いですね。荒井信一の言も完全に佐高の言い分に依拠するものですから。
でも石橋湛山を誉めそやすのはまだ可愛い方で、最近目に余るのは甘粕正彦の美化・礼賛ではないでしょうか。現在甘粕正彦の名で検索するとこの男を「有能な人間だった」「魅力的な人物だった」「大杉栄虐殺は事実でなかった」「彼は陸軍や関東軍の罪を背負わされた人間だった」といった類の文が書かれたサイトやブログが大量にヒットして凄い事になります。多分最近の甘粕礼賛は佐野眞一の「甘粕正彦 乱心の曠野」と村上もとかの漫画「龍-RON-」(この漫画は特に悪質ですが、村上もとかの最近の他作品も同様に愚劣極まりないものが多く、今や完全にかわぐちかいじ2世とも言うべき路線を歩んでます)を受けてのものが大半でしょう。私はこれまで「甘粕正彦 乱心の曠野」と「龍-RON-」を日本のアジア侵略を追求する立場から批判的に取り上げた文章をネット・リアル問わず見た事がありません。本当に気持ち悪くなるくらい。

m_debugger Re: 元凶は佐高でしょうか URL 2010-06-10 (木) 18:09

>ZEDさん

佐高は本当にどうしようもないですね。コメントいただいて気づきましたが、荒井氏は原典に当たっていない可能性が高そうですね。いつも有益な情報ありがとうございます。

>最近目に余るのは甘粕正彦の美化・礼賛ではないでしょうか。

これはまったく知りませんでした。本当に来るところまできてますね・・・。村上もとかは子どもの頃『六三四の剣』を読んだきりですが、よりによって、かわぐちかいじ2世になっていたとは。ブックオフで見かけたら読んでみようと思います。

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