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「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (3)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性

 というように、本書に対しては突っ込みを入れていくとキリがなく、かつ不毛な気分に陥ってくるのだが、もうしばらく雨宮のボケに付き合ってみるとしよう。

3.教育改革――「復帰」するべき植民地主義的「日常」

 教育改革についての雨宮の歴史認識も相当すさまじい。雨宮は、大日本帝国の教育がおかしくなったのは1930年代からなのだから、敗戦後は放っておいても、復古的な教育「改革」が可能だったと強弁するのである。雨宮の脳内では、教育勅語やそれに基づく朝鮮民族に対する同化教育は、どうやら全面的に肯定されているようだ。


 教育内容についていうと、小学校の読本が「ススメススメ ヘイタイススメ」という軍国主義的色彩の濃いものになったのは一九三三年からであり、「国家への献身……の強固な確立」(橋田邦彦文相)を目的とする国民学校制度が開始されたのは四一年であった(久保前掲論文〔久保義三、「占領と教育改革」、中村政則編『占領と戦後改革』(近代日本の軌跡6)、吉川弘文館、1994年〕)。つまり、これらの教育内容は「満州事変」以来の戦争状態という非日常的な体制の中でおこなわれた教育内容と制度であって、一九二〇年代の平常時のものとはかなりちがう。したがって、敗戦ということになれば、その制度と内容の少なくとも平常への復帰、つまり二〇年代への復帰ということが当然考えられるので、占領当局が勧告しなくても、敗戦によって軍国主義的な内容が変えられるということはほぼ自明と考えてよい。(pp.43-44)


 雨宮によれば、植民地支配と、「満州事変」以前の日本のアジア侵略は、「日常的な体制」であり、「復帰」するべき「平常」であり、何も問題ないらしい。大日本帝国の1920年代と言えば、「大正デモクラシー」の時代であり、日本人による台湾原住民族殺戮の時代であり(▼5)、朝鮮独立運動への弾圧と朝鮮民族に対する虐殺をより徹底していく時代であり(1920年~1921年の間島侵略、1923年の関東大震災時のジェノサイド、1928年の裕仁即位前の度重なる弾圧など)、治安維持法による大弾圧(1928年3月15日)が行われた時代であり、まさに侵略と天皇制が強化されていく時代そのものであるはずなのだが。

 「日本は「満州事変」によっておかしくなった(「満州事変」までの日本はまともだった)」という雨宮の歴史観の独善性は、「司馬史観」よりひどいとしか思えないが、本シリーズの著者に雨宮を起用した岩波書店は、いつからおかしくなった(いつまでまともだった)のだろうか?なお、雨宮が、解放後の在日朝鮮人の民族教育と日本政府によるその弾圧を徹底的に無視していることについては、次節で述べる。

4.政教分離――歴史の偽造

 雨宮は、靖国神社に関しても適当な発言を重ねている。これでは歴史叙述ではなく単なる妄想の垂れ流しだろう。


 四五年一二月一五日、「国家と神道の分離の指令」(神道指令)、つまり政府による神社、神道への支援、監督を禁ずるという指令が出され、国家と神道の分離がおこなわれた。これも非常に複雑な問題であるが、国家と神道が癒着したのは、やはり戦時体制の中でであった。国家と神道との癒着は三五年から三六年にかけての国体明徴運動のように機関説的天皇制から神権説的天皇制への移行がなされたことと深い関係があるだろう。国家と神道との癒着による戦時体制は、敗戦によって、権威の凋落は明らかであった。したがって、これも国家と神道の分離の仕方が、GHQが指令したようになるかならないかはともかくとして、少なくとも戦時中のような形での癒着そのものは、GHQが神道指令を出そうと出すまいと、もう少し時間はかかったかもしれないけれども、分離がありえたと考えるべきではないか。(pp.44-45)


 高橋哲哉著『靖国問題』(ちくま新書、2005年)から引用して紹介すると、「靖国神社は一九六九年に東京招魂社として創建され、一〇年後の一八七九年に靖国神社と社号を改称し、別格官弊社となった。その間、一八七四年の「台湾出兵」から海外派兵における戦死者の合祀を開始し、日清戦争に至った」(p.44)。ちなみに、靖国神社には「明治維新」と「西南戦争」による戦死者も祀られているが、靖国が祀っているのは「官軍」の死者のみで、「賊軍」の死者は一人も祀られていない。

 つまり、国家と神道の癒着は、靖国神社(当時の「東京招魂社」)の創建時から明らかなのであって、さらに日清戦争直後の1895年11月14日に、「時事新報」(福沢諭吉が創設し、社主を務めていた新聞)が「戦死者の大祭典を挙行す可し」という論説を発表した後、同年12月15日から「大寺安純陸軍少々以下一五〇〇名の招魂式が挙行され〔中略〕日清戦争の臨時大祭が行われ〔中略〕二日目には「大元帥」明治天皇自らが靖国神社に参拝」(p.45)するなど、「靖国信仰のシステムが確立され」(p.44)ていくことになる。「国家と神道が癒着したのは、やはり戦時体制の中でであった」という虚偽の前提にもとづいて、占領がなくても国家と神道の分離がありえただろうと語る雨宮は、一体どこまでおめでたいのか。

5.財閥解体――朝鮮人・中国人強制連行の無視

 財閥に対する雨宮の「寛容」も特筆に価する。雨宮は、財閥は「必ずしも日本軍国主義の温床であるとはいえ」ず、財閥解体は非軍事化や経済民主化を特に意味しなかっただろうと述べている。単純な話として、雨宮は帝国主義というものをまるで理解していない(したくない)のではないかと思う。


 少なくとも一九二〇年代をみると、大財閥は基本的には総力戦体制に対してかなりの程度消極的であり、著者の言う四つの政治潮流の中では自由主義派である。だから新興財閥以外の旧財閥は、必ずしも日本軍国主義の温床であるとはいえないのではないか。少なくとも政治勢力からみると、そのことははっきり言える。(p.51)


 面倒なので、もういちいち突っ込まないが、雨宮が朝鮮人・中国人に対する強制連行をまったく問題視していないことは、「少なくとも」ここから「はっきり言える」だろう。

6.農地改革――時空間の超越

 雨宮によれば、「第一次農地改革案をつくったのは、四つの政治潮流論でいうと、国防国家派であり、日本の戦時体制で総力戦体制を推進した派であった」(pp.53-54)ため、①「総動員体制そのものもまた、農地改革を求めていたという側面があることを意味する」(p.54)のだという。雨宮には時間の概念もあまりないようだ。こんな論理が通用するなら、「「戦後」に反戦平和を唱えるようになった日本人の多くは、「戦前」には日本のアジア侵略に加担していた」のだから、「日本のアジア侵略そのものもまた、反戦平和を求めていたという側面があるということを意味する」、ということにもなってしまう。

 雨宮は、②「敗戦によって海外の植民地がなくなっていたから(図2-9、2-10)、敗戦そのものが、国内の食料生産問題を考えざるをえなくさせていた。いっそう農地改革の内発的な必然性は高まらざるをえなかっただろう」(p.54)とも述べている。①と②は端的に矛盾しているのだが、「雨宮史観」においては、あらゆる矛盾は日本人の「主体性」によって止揚されるため、この程度の論理的破綻は珍しくも何ともないのであった。

 ちなみに、「図2-9」は「海外からの引揚げ者の地域別分布」(p.55)であり、「図2-10」は「帰国を前に所持品の検査を受ける兵隊たち」(p.56)である。一方、日本に約230万人いたと言われる解放後の朝鮮人がどうなったのかは、本書を読んでもまったくわからない。というか、そもそも朝鮮人が日本にいる(いた)ことさえよくわからないのであった。


▼5 キムチョンミ著『故郷の世界史――解放のインターナショナリズムへ』(現代企画室、1996年)参照。

 「一九二〇年九月一八日、台湾中央部に住むタイヤル族のサラマオ部の民衆が、警官の分遣所と派出所を攻撃した。それにたいして日本警察は、「味方蕃」(警察に協力する台湾原住民族)をも利用して、報復した。

 一九二一年五月から六月にかけて、日本軍と警官隊が、ブヌン族の「ターフン社」「トシヨ社」を襲撃した。その最終段階の六月一七日に、かれらは「トシヨ社」に侵入し、「蕃社附近の耕地を蹂躙蕃屋を焼却」し、翌一八日午前二時には、留置所に監禁していた「トシヨ社」の二二人の人びと全員を、「臨機処分」した。

 台湾原住民族襲撃・殺戮に、日本赤十字社も参加していた。〔中略〕この年〔1928年〕七月に、一八九五年以後の台湾での日本人戦死者全員などを「祭神」とする「建功神社」が、台北市に立てられた。」(pp.69-71)

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (2)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈

 引き続き、雨宮の歴史認識の独善性を鑑賞していこう。雨宮は、「占領改革があろうとなかろうと、遅かれ早かれ改革はなされる条件と主体と内容が「発見」されなければならない」(p.91)と述べている。これは奇妙な日本語である。占領改革は実際にあったのだから、その「条件」はともかくとして、「主体と内容」を事後的に「発見」するというのは、詰まるところ歴史の偽造にすぎないのではないか?

 別の例で考えてみよう。実際にはドラえもんに片付けてもらった宿題について、「宿題をやってもらおうとやってもらうまいと、遅かれ早かれ宿題はなされる条件と主体と内容が「発見」されなければならない」とのび太が述べたとすれば、どうだろう?それは、どう考えても、宿題を自分でやらなかったことの言い訳をしているにすぎないのではないだろうか(もっとも、のび太もここまで稚拙な言い訳はしないだろうが)。

 それでは、雨宮が「発見」したという、戦後改革の「なされる条件と主体と内容」を以下にざっと見ていこう。

1.日本国憲法――「押しつけ」論の否定

 なかなか笑えることに、その一つは日本国憲法の草案作りなのであった。雨宮は、憲法草案作成における米国の関与を過小評価しようとするあまり、日本国憲法の草案は「憲法草案づくりに携わったアメリカの若者や軍人が自ら考え出せるはずはな」かった、などと滅茶苦茶なことを言っている。


 〔日本国憲法の〕国民主権、生存権、象徴天皇制などの条項を憲法草案づくりに携わったアメリカの若者や軍人が自ら考え出せるはずはなく、福沢諭吉や吉野作造などの思想、日本側の案、イギリスも含む世界の知識、知恵を集めている(原前掲書〔原秀成『日本国憲法制定の系譜』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ(日本評論社、2004-2006年)〕、小西前掲書〔小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』〕、中村政則『戦後史と象徴天皇』、坂野潤治『明治デモクラシー』など)点ではけっして「押しつけ」ではないが、その手続きにおける関係は明白に支配、被支配関係にもとづいている。(p.90)


 それを言うなら、「福沢諭吉や吉野作造などの思想」こそ欧米の影響を色濃く受けており、彼らが「自ら考え出」したものではないだろうと思うのだが、日本人を歴史の主体としてひたすら特権化する雨宮にとっては、そんなことはどうでもよいらしい。雨宮は当時の各党の憲法草案を紹介して、「最も保守的な政党さえも自己改革が可能であったことが確認できよう」(p.88)と豪語している。もちろん、当該部分を読むと、進歩党や自由党の憲法草案がろくなものでないことが改めて「確認でき」るようになっている。雨宮のいう「自己改革」とは、他人を踏みつけにしている自分の靴が汚れてきたからといって、他人を踏みつけにしたまま、新しい靴に履き替えてみせる程度の代物なのかもしれない(▼4)

2.天皇制の存続――だってアメリカが余計なことするんだもん 

 中でもひどいのが、天皇の植民地支配責任・侵略戦争責任に関する記述である。雨宮は、「天皇の戦争責任について言うと、少なくとも占領期にはその意思があったにもかかわらず、アメリカによって阻止され、政治体としての自立性を奪われた」(p.47)、「天皇退位問題に対する日本人、とくに天皇自身やリーダーたちの見解は、責任をとる主体的条件が十分存在していた」(p.151)などと述べている。ところが、雨宮がその根拠として挙げているのは、基本的に以下の四点にすぎない(p.150)。

①東京裁判の「判決とともに天皇は退位すべきとの動きがあった」こと

②「天皇自らも「過去数年の日本の運命を左右する決定を下したことへの責任を感じ」退位したい意向を四八年六月に駐日イギリス代表部のガスコインに人を介して伝え(古関前掲論文〔古関彰一「占領政策の転換と中道内閣」、『新憲法の誕生』〕)、宮内庁も退位の方法を模索していた」こと

③「政府内、三淵忠彦最高裁長官、さらには佐々木惣一京大教授、政治学者大山郁夫、国際法学者横田喜三郎などの学者や外電も退位の必要性を述べたり、伝えていた」こと

④「『読売新聞』が〔1948年〕八月七日から九日にかけて全国三〇八〇人(無作為抽出)に対しておこなった調査によると、天皇制存続九〇・三%、廃止四・〇%、天皇が在位された方がよい六八・五%、退位されて皇太子にゆずられる一八・四%、退位されて天皇制を廃した方がよい四・〇%であった(『読売新聞』四八年八月一五日)」こと

 そもそも天皇の植民地支配責任・侵略戦争責任が退位問題(国民に対する「敗戦責任」)に矮小化されている時点でおかしいが、「天皇自身やリーダーたち」が米国と結託して植民地支配責任・侵略戦争責任から遁走し続けた証拠なら山のようにあるのだし、④の世論調査にしても雨宮の主張の反証であるとしか思えない。ドラえもんに宿題を片付けてもらっておきながら、「僕一人でも宿題はできたんだ」と強がりを言い、宿題の答えが間違っていることを他人に指摘されると、「だってドラえもんが余計なことするんだもん」と開き直るのは、あまりにも恥ずかしい振る舞いであると思うのだが・・・(繰り返すが、私はのび太に対しては他意はない。念のため)。


▼4 一例を挙げれば、1946年8月17日の衆議院各派交渉委員会において、椎熊三郎・進歩党代議士は、「第三国人の傍若無人な振舞いにたいする処置」と称して、GHQ・日本政府による朝鮮人・台湾人に対する弾圧の徹底化を煽動する、極めて醜悪な民族差別演説をぶち上げた。同年11月20日の『解放新聞』社説によれば、「日本共産党を除く各政党――進歩党、自由党、協同党あるいは社会党までもがこの演説内容を検討し支持した」だけでなく、「このような演説を草案として出した背景には、日本政府のそそのかしがあったという」(朴慶植、『解放後在日朝鮮人運動史」、三一書房、1989年、p.123)。

「国民の正史」を立ち上げる岩波書店 (1)

■目次(随時更新)
(1) はじめに
(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』
 (2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者
 (2-2) 日本国憲法と天皇制と日本人の「主体性」をめぐる屁理屈
 (2-3) 「司馬史観」を超える「雨宮史観」の独善性
 (2-4) 他民族を無視する「国民の正史」
 (2-5) 「はてな」右派ブログで自説を補強?
(3) 植民地支配責任・侵略戦争責任の黙殺――武田晴人『高度成長』
 (3-1) 植民地支配による搾取を否定する「経済学」者
 (3-2) 植民地支配責任・侵略戦争責任を黙殺する「歴史」叙述


(1) はじめに

 やや挑発的な連載と思われるかもしれないが、タイトルは別段誇張ではない。当ブログでは、このたびの「岩波書店の著者」による政権の成立に便乗して、「岩波書店批判強化月間」を実施することにした。第一回目の題材は、岩波新書から刊行されている「シリーズ日本近現代史」(全10巻)である。

 本シリーズの第5巻『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子、2007年)については、以前のエントリーで取り上げたので、今回は「戦後」を扱った、第7巻『占領と改革』(雨宮昭一、2008年)、第8巻『高度成長』(武田晴人、2008年)、第9巻『ポスト戦後社会』(吉見俊哉、2009年)および第10巻『日本の近現代史をどう見るか』(岩波新書編集部編、2010年)を検討することで、個々の著者の歴史認識を明らかにし、その問題性と岩波書店(新書編集部)の社会的責任を追及することにしたい。

 結論を一部先取りして言えば、本稿で述べる「国民の正史」とは、「つくる会」に象徴される右派の歴史修正主義そのものを指すわけではない。本シリーズにおいては、<佐藤優現象>と連動し、またそれを推進する形で、右派とは(一見)別の「国民の正史」を立ち上げる試みが行われているのである。そこでは、侵略の結果として多民族国家になった日本の歴史から、(大和民族以外の)他民族を徹底的に排除することで、「国益」論的再編成を経たリベラル・左派の(自己正当化の)欲望に奉仕しようとする語りが意図されている。より具体的に言えば、本シリーズの「戦後」史を読んでも、なぜ朝鮮人が日本にいるのかはまったくわからないようになっているのである(もっとはっきり書けば、朝鮮人が日本にいることすら、あまりよくわからないようになっている)。まさにリベラル・左派版「国民の正史」であり、岩波書店版「歴史修正主義」とさえ呼べるのではないかと思うが、この点については第五章で改めて考察する。まずは本シリーズの言説を個別に追っていこう。


(2) 大日本帝国との連続性の賞賛――雨宮昭一『占領と改革』

(2-1) 大日本帝国との連続性を賞賛する岩波書店の著者

 シリーズ日本近代史⑦『占領と改革』の著者は、岩波書店から『戦時戦後体制論』(1997年)を出版した「政治学」者の雨宮昭一である。雨宮は、その特異な歴史観から、その筋では有名な人物であり、岩波新書編集部による本企画での雨宮起用は、言ってみれば、護憲派が憲法記念日のイベントのパネリストに著名な9・11陰謀論者を採用するようなものである。要するに、意外とよくあること・・・いや、それ自体が社会的悪影響をもたらす点で批判を免れないわけだが、後述するように、雨宮の論理の非科学性は、「水からの伝言」にもおさおさ引けを取らないため、岩波書店の雨宮起用は、岩波の迷走ぶりを読者に周知徹底させるという、社会的にかえって好ましい影響もあるかもしれない(いずれにせよ不愉快ではあるが)。

 雨宮の歴史観の特異性は、何と言っても、雨宮が「戦後」を肯定するために「戦前」との連続性をひたすら賞賛しまくる点にある。雨宮は、(リベラル・左派の一部がそうであるように)「戦後」を肯定するために「戦前」を否定しているのでもなく、(保守・右派の一部がそうであるように)「戦後」を否定するために「戦前」を肯定しているのでもない。雨宮は本書で、リベラル・左派および保守・右派を含む日本人マジョリティが否定する「戦前」と「戦後」の連続性を執拗に強調しているが、それは大日本帝国の負の遺産を継承する日本社会/日本人を批判するためではまったくなく、逆にそれらを臆面もなく祭り上げるためなのである。

 これだけでも雨宮がユニークな「政治学」者であることは明らかだが、雨宮のもう一つユニークな点は、持論(その多くは仮説ですらなく単なる妄想と化している)を展開する際に、その根拠をろくに示さない、または歴史的事実を曲解・歪曲(してその「根拠」に)する、といった習性が、あまりにもわかりやすく観察できることである。

 さて、雨宮の持論のポイントは、一言でいえば「占領がなくても戦後改革はおこなわれた!」(強調は引用者による。以下同様)というものである。本書の編集者(平田賢一)は、「このような考え方はまだ一般にはあまり浸透していませんが、研究レヴェルでは一つのパラダイム転換をおこしたものといわれているようです」と解説している。「このような考え方」は、岩波書店では「一つのパラダイム転換をおこしたものといわれている」のかもしれないが、管見の範囲では、「一般」からも「研究レヴェル」からも、あまり相手にされていないようである(▼1)

 ちなみに、雨宮は「占領がなくても戦後改革はおこなわれた!」根拠の一つとして、大日本帝国が総力戦体制によって「社会民主主義的体制」を実現していたことを挙げている(雨宮によれば大日本帝国は何と「福祉国家」だったそうである(▼2))。

 バカバカしくて大変恐縮だが、以下に雨宮の驚愕の持論を抜粋しよう。


 総力戦体制の前の時代である一九二〇年代の日本の社会は、どのような社会であったのか。〔中略〕農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等は、一九三〇年代以降も存在した。とくに一九二九年から始まる世界大恐慌の中では、この格差と不平等が緊急に解決すべき問題として出てくる。この問題の解決には三つの方法があったと考えられる。第一は社会運動による解決、第二は社会の中の支配層の進歩的な勢力と中間層以下との連合による解決、第三は総力戦体制への参加による平等と近代化、現代化による解決である。

 第一の社会運動による格差と不平等の解決の方法は、治安維持法などによって運動が弾圧されたり、政治参加が限定されることによって不可能になった。

 第二の社会の中の支配層の進歩的な勢力と社会の中間層以下との連合は、どうだろうか。〔中略〕日本の場合には、民政党と無産政党との連合によるこの可能性はあったが、日中戦争の開戦によって不可能になった(雨宮昭一『戦時戦後体制論』第一章)。

 しかし、社会に存在する格差と不平等の問題は依然として残り、それどころか、いっそう強化された形で一九三〇年代の後半には出てきた。したがって、いま言った第一と第二の二つの方向が閉ざされたことによって、大部分が第三の総力戦体制に参加し、平等化と近代化、現代化するという解決方法によることになる。

 結論をいえば、日本では国家総動員体制(総力戦体制)によって社会が変革されたのである。一九三〇年代の後半から四〇年代前半の総力戦体制によって、社会関係の平等化、近代化、現代化が進行した。(pp.2-4)


 雨宮は、「農村と都市、ジェンダー等々を含めたさまざまな格差と不平等」の「解決方法」として「国家総動員体制」を評価しているが、「さまざまな格差と不平等」というからには、当然そこには民族間の差別と不平等が含まれていなければならない。つまり、雨宮は、アジアの諸民族との「格差と不平等」をも「解決」するために、日本人はアジアを侵略したと主張していることになる。

 念のため述べておけば、「一九三〇年代の後半」――とりわけ「七・七事変」(いわゆる「盧溝橋事件」)以降――は、女性運動や水平運動の指導者が天皇制に全面的に屈服し、民衆を侵略に煽動して、自ら侵略に積極的に加担することになる、決定的な分岐点である。雨宮は、「第一の社会運動による格差と不平等の解決の方法は、治安維持法などによって運動が弾圧されたり、政治参加が限定されることによって不可能になった」と秒殺しているが、女性運動や水平運動の崩壊は、治安維持法などによる運動の弾圧や「政治参加が限定されること」によって直接もたらされたわけではない(▼3)「格差と不平等」の「現実的」な解決方法と称して「総力戦体制」を全面擁護する雨宮の歴史観は、「一視同仁」や「八紘一宇」を絶叫してアジア侵略を煽動した国家社会主義者の歴史観とも半ば重なっているのではないだろうか。


▼1 本書の読者の一般的な反応(と思われるレビュー)を以下に挙げておく。


この著者のように,「占領がなくても,日本の民主化が進んだのだ」などと語るのは,結局,単なる歴史的自慰行為にしかすぎないように思います。

あの岩波書店が,このような新書を「占領と改革」として出版する世の中になったのですなあ。

 夜明け前の独り言 弁護士 水口洋介:「読書日記 「占領と改革」 岩波新書 雨宮昭一著」
 http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2008/02/post_ce65.html

▼2


 また、自由主義と封建体制、保守と革新という対抗軸から離れて自由に事態をみると、たとえばイギリスでは、総力戦体制を社会民主主義が担い、国民に負担を負わせたため、大きい政府、福祉国家を形成した。それに対し日本の場合は、社会国民主義と国防国家派が総力戦体制を推進し、大きな政府、福祉国家をつくり、それは戦後に継承された。(p.192)


 ・・・・・・素朴な疑問だが、「社会国民主義」ではなく「国家社会主義」の間違いではないのだろうか?

▼3 鈴木裕子『フェミニズムと戦争――婦人運動家の戦争協力』(マルジュ社、1986年)およびキムチョンミ『水平運動史研究――民族差別批判』(現代企画室、1994年)など参照。

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