加藤陽子 Archive

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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』がそれでも売れるわけ (2)

 加藤は『戦争の日本近現代史』の「あとがき」で次のように述べている。


 一九九四年、現代新書への執筆を、当時、講談社のPR雑誌『本』編集長であった堀越雅晴氏から勧められたとき、わたくしの念頭にあったのは、山口定氏の言葉でした。それは、「二度と戦争は起こさない」という誓いが何回繰り返されても、今後起こりうる悲劇の想定に際して、起こりうる戦争の形態変化を考えに入れた問題の解明がなくては、その誓いは実行されないのではないか、といった内容でした(『戦争責任・戦後責任』)。

 戦争責任について容易に論ずれば、「誠実を装つた感傷主義か、鈍感な愚かしさか、それとも威張りちらした居直りか」になってしまうと喝破したのは丸谷才一氏でしたが(『雁のたより』)、この山口氏の静かなる提言は、たしかにわたくしの心に届きました。感傷主義でもなく、居直りでもなく、戦争や戦争責任を論ずることができるのではないか、と。(加藤陽子、『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』、講談社現代新書、2002年、p.291)


 つまり、加藤にとっては、明治以降の日本による朝鮮侵略・植民地化は、「国家の元気を回復するために」行われてきたことであって、断じて差別意識から生じたわけではないなどといった、荒唐無稽な主張をすることが、「感傷主義でもなく、居直りでもなく、戦争や戦争責任を論ずること」になっているようである。というか、加藤はそもそも日本固有の歴史的文脈における植民地主義・帝国主義について、どこまで意図的なのかは不明だが、ろくに何も考えていないように思う。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の第4章「満州事変と日中戦争―日本切腹、中国介錯論」で、加藤は「満州事変」の2カ月前のアンケートによれば東大生の88%が中国への武力行使を肯定していたとして、次のように述べている。


一般的に、知的訓練を受け、社会科学的な知識を持っている人間は、外国への偏見が少なく外国に対する見方が寛容になる傾向があります。「中国側にだっていろいろな事情があるのだ。日本側にもあるように」と思える人間には、やはり知性、インテリジェンスがあるだろうと。(加藤陽子、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』、朝日出版社、2009年、p.261)


 他国を侵略しておきながら、「中国側にだっていろいろな事情があるのだ。日本側にもあるように」という「見方」が、「寛容」であり「知性、インテリジェンス」の賜物だというのもどうかしていると思うが、それ以上におかしいのは、加藤が天皇制軍国主義国家における教育の特殊性――端的に言えば、他民族に対する支配と差別を体系化する神がかった教育のあり方――について何一つ語っていないことである。加藤が論じているらしい「戦争責任」には、加藤自身がその一員である、教育者の戦争責任・戦後責任もまた、丸ごと抜け落ちているように思う。

 ついでに言えば、旧教育基本法のもとで行われてきた戦後日本の教育も、天皇制の存続に象徴される、戦前からの連続性を引きずっている以上、学歴の高い人間ほど他国・他民族への差別意識がないといった「一般的」な傾向は、特に見られないように思う。第一、加藤自身が東大大学院博士課程修了で、現在は東大の教授なのだから、まあ、そういうものだろう、という感じである。

 では、加藤は日本国家の「戦争責任」については、どのように考えているのだろうか?再び『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』から引用してみよう。


 暗澹たる覚悟

 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。それを説明するにはいろいろな方法があるのですが、まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。(p.322)


 加藤によれば、日中戦争の直接の契機は「偶発的な戦闘」であり、日中戦争が拡大した原因は中国側にある、ということになっているらしい。詳細は省くが、加藤はこの後、胡適と汪兆銘の発言を取り上げて、次のように結んでいるのである。


 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍によって中国は一九三八年十月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとはいいません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。(p.329)


 日中戦争が「なぜ拡大したのか」「を説明するにはいろいろな方法がある」などと言いつつ、加藤がここで挙げている「説明」はこれしかない。胡適や汪兆銘らの「深い決意」とは、日中戦争を拡大させようとする「暗澹たる覚悟」である、というわけだ。侵略された側が抵抗(や「内戦」)をやめないから「戦争」が終わらないというのは、帝国主義者の言い草そのものだが、この論理が悪質極まりないと思うもう一つの理由は、植民地支配を強制された朝鮮や台湾の諸民族にあたかも「国を支え」る「覚悟」や抵抗への「深い決意」が欠けていた(「常識的に」「降伏」した状態だった)というような、虚偽の「説明」が暗示されているように見えることである。

 ところで、本書は、加藤が中高生を対象に行った講義の内容ををまとめたものであり、加藤は生徒たちに「自分が作戦計画の立案者であったなら、自分が満州移民として送り出される立場であったならなどと授業のなかで考えてもら」(p.8)ったという。ちなみに、『満州事変から日中戦争へ』には以下のような記述がある。


 主権や社会契約や憲法原理の対立から、国家と国家は不可避的に戦いに向かってゆく。満蒙問題でいえば、日本人にとって戦いを不可避とする憲法原理とは何であったのだろうか。日本が満蒙に獲得した権益は、東インド会社など、私企業の獲得した権益と異なり、戦勝による講和条約によって規定されたものだった。つまり、原初から国際法的な色彩をもたされて成立したものであった。(加藤陽子、『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』、岩波新書、2007年、p.239)


 南満洲鉄道株式会社(満鉄)は東インド会社と同じ植民地企業であり、その認識を抜きにして日本の中国東北部への侵略を語ることは不可能だろう(加藤は日本の中国侵略自体を語っていないので、満鉄と東インド会社の基本的な特性とその共通項についても触れていないのだが)。植民地支配を強いられた民族のレジスタンスの歴史を無化するような先の発言(仮に加藤にそうした作為がないとしても、「日本近代史」と銘打った著作においてすら朝鮮・台湾の抗日運動をまったくと言ってよいほど取り上げていないのだから、結果的には同じことだろう(▼7))と合わせて、強く批判しておこう。以下、キムチョンミ(金靜美)氏の『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』から引用する。


 帝国主義者にとって、鉄道は、侵略の重要な手段であった。

 イギリス帝国主義者は一九世紀中期にインドで、フランス帝国主義者は一八六二年にアルジェリアで、植民地鉄道の建設を開始した。アメリカ帝国主義者はインディオの大地を侵略しつつ、一八六九年に最初の大陸横断鉄道を建設した。ベルギーの交通会社が、パリからイスタンブールまでの直通列車、オリエント急行の運行を開始したのは、一八八三年一〇月であった。その五年後、一八八八年から、ドイツ帝国主義者は、ベルリンからビザンチン(イスタンブール)、バグダードにむかう東方侵略政策(「3B政策」)にもとづいて、バグダード鉄道の建設を開始した。ロシア帝国主義者は、一八九一年にシベリア鉄道を着工し、日ロ帝国主義戦争開戦時に完成した(中国東北部を貫通するシベリア鉄道支線、中東鉄道は、その前年の一九〇三年に完成)。

 日本帝国主義者は、「日清戦争」によって台湾を植民地としてから半年後の一八九五年十二月から軍用軽便鉄道の建設を開始し、さらに一八九九年に台湾を縦断する植民地鉄道(「台湾縦貫鉄道」)を起工し(一九〇八年四月に完成)、日ロ帝国主義戦争開始前後から、朝鮮を縦断する植民地鉄道の建設をいそいだ(一九〇五年一月、釜山―ソウル間完成。一九〇六年三月、ソウル―新義州間完成。一九〇八年四月、釜山―新義州間直通急行列車営業開始)。また、日本帝国主義者は、「ポーツマス条約」でサハリン南部を植民地としたあとすぐに、軍用の軽便鉄道を建設し、一九一二年にサハリン南部を縦断する植民地鉄道の建設をはじめた。

 満鉄が業務を開始したのは、一九〇七年四月であったが、このときの満鉄の主要路線は大連―長春間と安東―奉天間の鉄道であった。このうち、大連―長春間は、「ポーツマス条約」によってロシア帝国が「移譲」した中東鉄道の長春以南部分であり、安東―奉天間は日本軍が日ロ帝国主義戦争時に急造した軽便鉄道であった(一九一一年一〇月に軌幅二フィート六インチの軽便鉄道を、軌幅四フィート八インチ半の広幅鉄道に改築)。

 植民地鉄道の建設に対し、被侵略地の民衆はたたかった。そのたたかいをおさえるために、帝国主義者はしばしば軍事力をつかった。植民地鉄道建設の過程は、帝国主義者がその地域を軍事的、経済的に制圧する過程でもあった。

 アフリカを分割占領したヨーロッパ帝国主義者は、それぞれの占領地域に鉄道を建設し、全体としてアフリカ大陸を縦断あるいは横断する鉄道を建設しようとした。

 帝国主義者は、必要なぼうだいな労働力、資源(枕木用の材木など)を、現地からうばって植民地鉄道を建設した。労働力を現地でうばえない場合には、「囚人」や「移民」をおくりこんだ。インディオの大地を横断する北アメリカ大陸の鉄道建設には多くのアジア人「移民」が働いた。

 吉会鉄道建設の過程においても、日本帝国主義者は、正規軍の暴力をつかった。中国東北部の民衆を先頭とする建設反対闘争にはばまれて、かれらは、吉会鉄道を〔1931年〕「九・一八事変」〔「「柳条湖事件」と「九・一八事変」、「盧溝橋事件」と「七・七事変」という用語は、前者は「事件」そのものを指し、後者は「事件」およびその後のひとつづきの侵略と抵抗の歴史的事実を指すものとして、使いわけた。」(p.22)〕以前には完成させることはできなかった。かれらは、中国東北部侵略の手段である吉会鉄道を、侵略戦争を発動し中国東北部を植民地としたのちにようやく完成した。

 吉会鉄道の建設は、日本の資本で、日本の土建会社によってすすめられた。日本の土建会社は、吉会鉄道をふくむ、台湾、朝鮮、サハリン、中国東北部の鉄道建設工事で企業の基礎をかためた。

 植民地鉄道は、①、植民地を支配、防衛するための軍事的手段であるとともに、②、植民地の資源をはこび出し、植民地に帝国主義国の工業生産物を導入するための経済的手段であるが、その建設過程において帝国主義の土建業を成長させる。また、大量の工作機械やレールや車両などを本国から搬入することによって、本国の工業を発展させる。一九二九年の世界恐慌後において、中国東北部における吉会鉄道建設は、朝鮮北部における図們線、雄基―羅津港の建設等と結びついて、日本の土建業、工業、運送業に大きな利益をもたらした。

 「九・一八事変」以後、吉会鉄道は日本人移民を中国東北部にはこびこむ手段としても用いられた。日本人移民は、経済的意味だけではなく、軍事的意味をももっていた。「五・一五事件」の五か月後、一九三二年一〇月から中国東北部に侵入しはじめた日本人「武装移民」は、軍事的役割を最優先していた。

 吉会鉄道に反対する朝中民衆のたたかいは、朝鮮と中国における広範な反日闘争の一角を形成していた。このたたかいの経験は、朝中民衆を鍛え、吉会鉄道完成後のあらたなたたかいへの教訓をうみだした。

 アジア侵略の規模を拡大するにしたがって、日本帝国主義者は、より残虐にアジアの民衆におそいかかった。植民地鉄道建設においても、日本帝国主義者は、数多くの民衆のいのちをうばうようになった。もっとも多くの民衆を死にいたらしめた鉄道建設は、タイのノンブラドッグとビルマのタンビザヤを結ぶ「泰緬鉄道」建設であった。この工事のさい(一九四二年一〇月~一九四三年一〇月)、数万人あるいは一〇万人にちかい人びと(マラヤ人、インドネシア人、ビルマ人、パキスタン人、インド人、ベトナム人、タイ人、中国人、およびイギリス人、オーストラリア人、オランダ人、USA人捕虜)がいのちをうばわれた。〔中略〕

 「侵略と開発」などと称して、日本帝国主義者の中国東北部侵略を肯定しようとする日本人研究者があらわれ、それを支持する日本人研究者もすくなくないという現状を変革していくためには、さらにさらに、日本帝国主義者が中国東北部で何をやったのかということが具体的に――なによりもまず日本人研究者によって――明らかにされなければならない。(キムチョンミ、『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』、現代企画室、pp.292-297)




▼7 これと関連して、加藤は日本の植民地支配・侵略戦争に「積極的に呼応」した中国人の存在を強調している。


呼応する北方人

 さまざまな理由(張学良との距離感、日本との親和性、清朝との親近性など)から、満州国の建国に参加した、満州族、蒙古族、朝鮮族を含めた多くの中国人がいたように、日本の華北分離工作に積極的に呼応する中国人もいた。(加藤陽子、『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』、岩波新書、2007年、p.192)


 もちろん、「さまざまな理由」の根源にあり、それゆえにアジアの民衆の広範な抗日闘争を巻き起こした日本帝国主義の性質については、加藤はひたすら沈黙している。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』がそれでも売れるわけ (1)

 加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が、やたらと売れているらしい。


普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか?
高校生に語る――日本近現代史の最前線。


 ・・・という煽りを読むだけで、十分げんなりしてくるが、Amazonの書評でも、著者の歴史観が左でも右でもなく「公平」で「客観的」で、「巨視的な視点から戦争が捉えられ」ていて、「切り口」が「極めて斬新」で、「ハイレベルな内容を平易に語ってい」る、というように賞賛されている。ちなみに、数少ない批判的なコメントのほとんどは、右からの「反日」呼ばわりだった。小沢一郎が今ではほぼ右からしか叩かれなくなっているのも当然だと思える右傾化ぶりである。

 だいたい本書はタイトルからしておかしいと思う。日本人が選んだのは「戦争」というより侵略なのだから、本来なら、「普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう侵略しかない」と思ったのはなぜか?」と問うべきだろう。それにしても、「世界最高の頭脳たち」って、誰?・・・と思いながら、図書館に行くと、なんと予約が341件(!!!!!)入っていた。こんな数字は今まで見たことがなかったので、試しに村上春樹の『1Q84 BOOK1』の予約件数を調べてみた。結果は1999件で、余計に不安になってきた。まあ、村上春樹はともかく、もし本書のタイトルが、『それでも、日本人は侵略を選んだ』だったとしたら、まったく売れていなかったと思うのだが・・・。

 というわけで、本屋で軽く立ち読みをしてきたが、第1章「日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの」でさっそく、日清戦争は日本の中国侵略という見方ではなく「日本と中国が競い合う物語」として見る必要がある云々、という「公平」で「客観的」な主張が展開されていた。

 いちいち突っ込むのもバカらしいが、日清戦争の戦場は、朝鮮(王宮に対する日本軍による攻撃と占領、甲午農民軍の虐殺)に始まって、中国東北部に及んだが、清国軍兵士が日本に攻めてきたわけではまったくない。ちなみに、日露戦争でも一方的に戦場にされたのは朝鮮(東北部)と中国(東北部南部)で、日本もロシアも自国は無傷のままだった。そもそも、明治以降、アジアの民衆が日本に対する侵略軍として立ち現れたことは、その逆が数え切れないほどあるにもかかわらず、一度もない。日清戦争は、朝鮮の植民地化をめぐっては、確かに「日本と中国が競い合」っていたと言えるが、だからこそ、日本による朝鮮と清国への二重の侵略戦争だったのである。

 ちなみに、図書館で代わりに借りてきた、加藤陽子著『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』(岩波新書、2007年)では、私の見落としでなければ、著者が自分の言葉で(つまり引用以外で)日本国家の行為を侵略と名指した箇所は一つもない。代わりに使われているのは、「国防」(▼1)やら「防備」やら「保護」(▼2)やら「進出」(▼3)やら「開発」(▼4)やら「追撃」やら「攻略」(▼5)やら・・・といったDV史観ご用達の学術用語である。「非武装地帯の境界である長城線を突破」(p.192)という言い回しもなかなか笑える。「「侵略・被侵略」では見えてこないもの」とはよく言ったものだ。こんな本をいくら読んでも日本の近代史は何もわからないだろうが、こんな本がご大層に出版されている日本の現在位置だけはよく「見えて」くる。

 そもそも、加藤は『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』(講談社現代新書、2002年)で、こんなことを述べているのである(傍線部は原文太字の箇所、強調は引用者による。以下同様)。


国家の元気を回復するために

 ここにわたくしたちは、日本近代の一つの特徴であるといえる、「内にデモクラシー、外に帝国主義」といわれるものの一つの源流をみることができるのではないでしょうか。明治六年の政変時の西郷と、『評論新聞』に共通しているのは、「国家の元気」という観点です。維新当時のような国家の元気を取りもどし、国家の覆滅を回避する道としての、立憲と征韓という組み合わせです。

 ですから、国内改革と対外侵略を密接不可分として考える態度は、教科書的な説明にみられるような、士族の内乱を防ぐために対外侵略をガス抜きとして使おうとしたという態度とは、まったく違うものです。正理真道から遠く離れてしまった日本を、名分論によってどうにか救うにはどうしたらよいかという、むしろ、自己本位な動機からきていました。

 このような日本人の感覚は、近隣の諸国にとっては非常にありがたくないものであり、それがのちに、甚大な被害を近隣諸国に与えたことについては議論の余地はありません。しかし、征韓論にみえる論理は、日本人の目からみて文明開化を肯定しない国家――この場合は朝鮮が想定されていますが――に対する優越感に満ちた侮蔑の感覚から生じているのではないという点は確かでしょう。侮蔑するか、しないかという感覚よりも、よりせっぱつまった感覚、みずからが救われるかどうかという感覚、これに突き動かされて征韓論は主張されたと思われます。(加藤陽子、『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』、講談社現代新書、2002年、pp.48-49)


 あまりにも非論理的すぎて、何を言っているのかも不明だが、朝鮮侵略を正当化する当時の論理を差別と見なさない、現代における加藤の「感覚」こそ、「日本人の目からみて」植民地支配「を肯定しない」民族「――この場合は朝鮮が想定されていますが――に対する優越感に満ちた侮蔑の感覚から生じている」「という点は確か」だろう。加藤は主観的には「侮蔑するか、しないかという感覚よりも、よりせっぱつまった感覚、みずからが救われるかどうかという感覚、これに突き動かされて」こうした主張をしているのかもしれないが、それならなおのこと、自らのリアリティを検証・批判・解体の対象とするべきだと思う。こんな人物に『シリーズ日本近現代史』の執筆を依頼する岩波書店も、さっさと自己解体した方がよい。

 『満州事変から日中戦争へ』には1900年から1940年までの略年表があるが、三・一独立運動はもちろん、五・四運動さえ載っていない。中国東北部における抗日闘争と日本帝国主義によるその徹底的な弾圧(例えば、日本軍による1920年の間島侵略、朝鮮独立軍の根拠地である各農村での「三光作戦」など)もないし、恐ろしいことに重慶爆撃すらスルーされている。無論、これらは本文でも言及されていない。日本軍「慰安婦」や中国人・朝鮮人に対する強制連行についても、そうである。本書は、「満州事変」を植民地支配と切り離して特権的に参照して(▼6)、しかもそれを侵略と名指さないのだから、そうした「物語」に対置される記憶を語らない(語れない)のは当然とも言える。加藤の言説は、詰まるところ、歴史修正主義との親和性を免れないのではないか。

 次回はこの点をもう少し詳しく見ていこう。


▼1 「このように、資源開発、治安維持・国防の鍵を握るはずの鉄道敷設計画は、対中国政策の実行にあたるべき人々を広く集めた東方会議での決定を無視するかたちで、田中〔義一首相〕と満鉄ラインによって無造作に進められていった。」(加藤陽子、『満州事変から日中戦争へ――シリーズ日本近現代史⑤』、岩波新書、2007年、p.83)

▼2 「関東軍は、日露戦後、関東州の防備および満鉄線の保護を任務として置かれた軍隊であった。一九年四月、武官制の関東都督府が廃止され、関東庁が設置されるのにともない、独立の在満軍事機関として発足した。鉄道守備にとどまらず、日本の在満権益を軍事力によって保護する役割、対ソ戦略を遂行する主体としての役割を、しだいに強めていく」(前掲書、p.5)

▼3 「洮南と昂昂溪を結ぶ本線は、日本の対ソ戦略上の布石となる鉄道であり、日本の北満進出を可能とする鉄道であった。」(前掲書、p.84)

▼4 「国民政府は、二九年四月、満蒙鉄道を東北政権から中央に移管し、外資系貨物輸送に割高運賃を課す方針を打ち出した。現地政権と満鉄の交渉によって鉄道問題が解決される時代は去ったのである。田中は退陣し、東三省の現地政権を通じて北満を開発する路線はここに潰えた。北伐軍との戦闘のため奉票を乱発し日本人の商工業者に打撃を与えた張政権、南京の国民政府と競うように東三省でも二・五%付加税を徴収し始めた張政権に対する日本側の怒りには根深いものがあった。「はじめに」でも述べたように、日本側には、条約を尊重しないばかりか、ボイコットを政策遂行の手段に用いる南北中国への怒りが蓄積していった。」(前掲書、p.93)

▼5 「対する日本側は、上海派遣軍司令官に松井岩根、第一〇軍司令官に柳川平助が就いた。日本軍は中国軍を追撃し南京に向かう。当初は南京攻略の意図がなかった陸軍中央も、第一線の進軍をみて、一二月一日、南京攻略を追認した。」(前掲書、p.217)

▼6 「満州事変を歴史的に考えようとする時、なぜこのような事変が起こされたのか、人は、まずその理由から考えようとするだろう。歴史の因果関係に注目するのは自然であり、大切なことでもあるからだ。

 しかし、たとえば、二〇〇一年九月一一日、アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接した時、我々は、テロを「かつてなかった戦争(war like no other)」と呼び、まずはその新しい戦争の形態上の特質に注目した。瞬時にして世界の情景を変えてしまうような暴力の実態に迫るには、「かたち」から入るのが適していると本能的に感じたからなのかもしれない。さらに本書に引きつけていえば、満州事変を主導した石原自身、日露戦争、第一次世界大戦に際して、戦争の形態上の変化や特質について、最も緻密に研究を加えていた人物にほかならなかった。

 よってこの章においては、満州事変がもっていた形態上の特質について明らかにし、本書全体の導入としたい。」(前掲書、pp.2-3)

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