日本人原理主義/レイシズム Archive

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福祉排外主義とは何か――その言説構造を問う(中編)

前編の続き)


2.宮本太郎「新しい右翼と福祉ショービニズム――反社会的連帯の理由」

 次は宮本太郎の2004年の論文「新しい右翼と福祉ショービニズム――反社会的連帯の理由」(斎藤純一編著『講座・福祉国家のゆくえ⑤ 福祉国家/社会的連帯の理由』、ミネルヴァ書房、2004年、pp.55-85)を見てみよう。この論文は大半が先行研究の紹介に当てられており、むしろ解説論文と言うべきかもしれないが(もっとも宮本の論文全般にそうした傾向があるように思うが)、重要なのは、宮本が福祉ショービニズムを「福祉国家と排外主義の結合」とした上で、その主要な原因を「アクティベーションあるいはワークフェア」(p.61)の「政策のバランス」(p.81)に求めていることだろう。宮本の主張を簡潔にまとめると、次のようになる。

●北欧では、デンマークで国民党(▼4)、ノルウェーで進歩党(▼5)といった福祉ショービニズム政党が存在するが、「政治制度、政党制、政治文化などでデンマーク、ノルウェーと共通の特性を指摘されるスウェーデン」で、「(少なくとも現在までのところ)組織された福祉ショービニズムが確認されないのはなぜだろうか」(p.78)。

●その理由としては、選挙制度の相違や政治情勢の歴史的相違(▼6)、スウェーデンにおける労働組合の組織率の高さが社会民主党の基盤を維持していることも挙げられるが、最も重要なのは、スウェーデンのワークフェアが、「基本的には就労支援に重点をおいた懲罰的な要素の少ないものであり、今のところ、周辺層を構造的に切り離すものとはなっていない」(pp.81-82)ことである。

●逆に言えば、「就労支援を前提とし、その中での業績に応じた給付を提供するという」「ある種の業績原理」――「ただしその業績原理は、市場主義とは異なり、就労支援の制度を前提とし社会的連帯の原理とも融合している」(p.81)――、「このワークフェア的な政策のバランスが、業績原理あるいは就労の義務へと強く傾くならば、人々の関心は、特定の理由からこの原理に沿った義務を果たしていない(と見える)社会集団、たとえば政治難民に対して向けられ、人種主義を刺激していくことが考えられる。たとえば近年のノルウェーのワークフェア改革は、こうした就労の義務を徹底する方向ですすめられている」(p.81)。

 宮本の主張の核心は、福祉排外主義をもっぱら業績原理(能力主義)に基づく福祉規範の帰結(反動)として捉えていることにある。わかりやすく言えば、福祉排外主義におけるレイシズムは、福祉国家において「フリーライダー」(p.62)を許さないという<空気>が支配的になってきた際に、フリーライダーとして見なされやすい移民や難民がバッシングの対象となることで、結果的に「刺激」されていくものである、というわけだ。逆に言えば、宮本においては、福祉排外主義の台頭を防ぐためには業績原理(能力主義)が行き過ぎないような福祉規範・政策を打ち出すべきである(レイシズムはあくまで付随的な問題にすぎない)、という論理になってくるだろう。

 この論理の問題点については後編で扱うことにして、中編ではもう一つ別の論文を紹介しておこう。水島治郎が2006年に執筆した「福祉国家と移民――再定義されるシティズンシップ」(宮本太郎編『比較福祉政治――制度転換のアクターと戦略』、早稲田大学出版部、2006年、pp.206-226)である。私見では、この論文の最大の見所は、上記の宮本の主張が水島の言説にどのような変遷をもたらしたかという点にあると思う。


3.水島治郎「福祉国家と移民――再定義されるシティズンシップ」

 水島は2006年のこの論文で、再び「フォルタイン現象」と福祉排外主義を分析している(福祉排外主義、福祉ショービニズムの用語も頻繁に登場する)。ここで注目したいのは、水島が上記の宮本の見解を全面的に受け入れることで(▼7)、(少なくともこの論文においては)「フォルタイン現象」の背景が「「ワークフェア」の原理」(p.208)にほぼ収斂されていることである。もっとも、水島はワークフェアに関して極めて的確な指摘もしているので、以下に引用しておこう。


 しかしながら,このワークフェアの導入とともに,従来の福祉国家と明らかに異質の発想が入り込んできたことも否定できないだろう。〔中略〕「権利」の前提として「義務」「責任」を強調し,社会への「参加」をキーワードとするワークフェアにおいては,福祉に対する権利を認められるのは,基本的には自らの属するコミュニティに対する「責任」を果たす者のみに限定される。〔中略〕国家の過剰なまでの就労促進政策「にもかかわらず」職に就くことのできない者,あるいはそれに代わる社会活動などに参加する意欲がないと見なされた者は,その結果は個人の責任において引き受けるべきものとされたうえで,最終的には福祉国家から排除されるほかない。〔中略〕

 このような福祉国家の再編,そしてそれと不可分に進行するシティズンシップ概念の変質のもとで,移民や難民をはじめとするマイノリティが容易に「コミュニティへの義務を果たさない」シティズンシップの不適格者と見なされ,道徳的非難のターゲットになることは想像に難くない。ワークフェアの言説は,教育の場や労働市場において移民・難民が実際に直面する困難な状況よりも,むしろ彼らがコミュニティたるホスト国の社会にどれだけ貢献するのか,どれだけ参加する意思があるのか,を第一に問うものだからである。しかしこのことは現実には,彼らの多くを福祉国家に「包摂」するのではなく,福祉国家の構成メンバーたるシティズンシップそのものから「排除」する方向に働いていく。〔中略〕

 たとえばオランダでは,近年の移民政策の転換にあたって新たに重視されているのは,やはり移民の側の「義務」「責任」である。(pp.209-211)


 水島はさらに、「「福祉国家を守るために移民を排除」することを掲げる福祉ショービニズムは,アングロサクソン諸国よりも,福祉国家の発達したヨーロッパ諸国,とりわけ中西欧や北欧において広がりを見せているが,その背景には」(p.213)「〔引用者注:解雇〕規制の強いヨーロッパ型の労働市場においては,雇用者側は同一の高水準の賃金のもとでリスクの少ない自国民労働者の採用を選好するため」(p.212)「これらの国で移民が労働市場に参入することが困難である一方,高水準の福祉給付の対象には該当するために,福祉国家の一方的な受益者,あるいは福祉国家そのものへの「脅威」として可視化されやすい状況にある」(p.213)と述べ、「福祉国家の「ゲイテッド・コミュニティ」化(p.214)=福祉排外主義の台頭を説明している。

 繰り返すが、ここで注意したいのは、こうした水島の分析が妥当かどうかということではなく(私自身もこの分析が間違っているとは思わない)、2006年のこの論文では、「フォルタイン現象」の原因として水島が2002年当時に挙げていた、(1)主要政党の「オール中道化」、(2)レイシズム(もっとも水島はレイシズムを明示していたわけではないが、読者としてはそうした読み方が容易に成立しうる)、(3)新自由主義的改革の反動といった視点が、かなりの程度まで薄められてしまっていることである(▼8)前編で、私は2002年の水島論文について、「まさに自らをリベラルかつ「普遍的」価値の担い手として規定する、レイシスト的な国民マジョリティによって福祉排外主義が促進することを示唆している」と評したが、2006年の水島論文をそのように読むことは難しい。参考までに、2006年の水島論文の結論がどのようなものであるかを紹介しよう。


移民は果たして福祉国家にとって「負担」としてのみ論ずることが妥当なのか。最後にこの点について簡単に指摘しておこう。

 確かにヨーロッパ諸国においては,労働市場参入に困難の多い移民における失業手当や生活保護の受給率は相対的に高く,そこがまさに福祉ショービニズムによる移民批判の論拠となっている。

 しかし他方で,見過ごしやすいことだが,移民は概して年齢構成が若く,またそれゆえに健康で医療機関を受診する頻度も少ないことから,老齢年金や医療保険給付の受給率はむしろ当該国の国民より低いことが多い。移民は「福祉依存」どころか「福祉国家に貢献」している面もあるのである。〔中略〕

 福祉ショービニズムが「福祉国家の一方的な受益者」とのレッテルを貼りやすい公的扶助を中心に取り上げて移民を批判し,その主張が一般に受容されることで,「移民から福祉国家を守る」方向に進むことが現在のヨーロッパ諸国の流れとなっている。しかし老齢年金や,負担と受益の関係がみえにくい医療保険などに目を転ずれば,その論理は必ずしも成立しない。そして今後ヨーロッパ各国の高齢化が一層進み,若年労働力の不足が確実視される中で,ある時点で再びロジックが逆転し,「福祉国家を維持するために」移民労働力がやはり必要であるとする議論が浮上する可能性も否定できない。〔中略〕

〔中略〕女性や高齢者,失業者などの就労強化を進めるワークフェア改革によっても,将来に生ずるであろう大幅な労働力不足に対処しえないことが明らかになったあかつきには,再び福祉国家と移民との積極的な関係に光が当てられるのではないだろうか。「移民から福祉国家を守る」という現在のロジックが,「移民が福祉国家を守る」という新しいロジックに再反転する日は,そう遠いことではないのかもしれない。(pp.222-223)


 ・・・・・・要は、福祉排外主義は移民の受け入れが福祉国家の「国益」に適うようになれば弱まっていくのではなかろうか、というあまりにも他人事すぎる結論なのであった。これでは排外主義を容認することとほとんど変わらないのではないか。少なくとも、福祉排外主義を明白なレイシズムとして名指し、先進国の国民にその解体を迫る論理には程遠いと言わざるを得ない。もちろん、移民を福祉国家の「国益」のために排除・包摂することを実質的に容認するような、福祉排外主義をめぐる水島の言説は、日本の反貧困運動とレイシズムの関係性に見事に対応しているのである。

(後編に続く)


(▼4) 

 高齢者および障害者の看護と介護は公的責任である。我々は、こうした人々が国中どこでも同じ条件で、威厳のある安全な生活を送ることができるように保障しなければならない。医療および公共の病院は、最上の質を有し、原則として、税金によって公的財源を有しなければならない。予防的な医療に重点が置かれるべきである。(デンマーク国民党綱領)

 一見、社会民主主義政党と見紛うこうした主張は、他方において同じく綱領を貫く排外主義的な主張と併せて見る必要がある。デンマーク進歩党〔引用者注:デンマーク国民党の前身〕はケアスゴーが党首となった段階から、移民に対してはきわめて抑制的な政策を掲げるようになった。移民は原則としてこれを認めず、例外的に受け入れる場合でも、デンマーク語およびデンマーク文化についての知識が要求された。それでもケアスゴーが割って出るまでは、進歩党には創立以来の新自由主義的な主張が残っていたが、ケアスゴーの国民党はナショナリズムを前面に掲げることになる。より具体的には、在住三年で得られる外国人の地方参政権を剥奪し、さらには可能なかぎりの本国送還を実現することすら主張する。(pp.75-76)


 小川有美は「北欧福祉国家の政治――グローバル化・女性化の中の「国民の家」」(宮本太郎編著『講座・福祉国家のゆくえ① 福祉国家再編の政治』、ミネルヴァ書房、2002年、pp.79-116)で次のように述べている。


ヨーロッパの他の右翼政党と同様、北欧の右翼政党の支持基盤は「男性的」である。しかし(奇妙な防衛論理の)福祉国粋主義、国際化とEU統合への懐疑等は、女性を含む広範な有権者にとってセンシティヴな争点である。デンマーク国民党の党首ピア・ケアスゴーは女性であり、彼女は一九九九年の党大会で次のように演説した。「彼ら〔引用者注:移民〕は男性ショーヴィニズム、儀礼的屠殺、女児性器切除、女性を抑圧する服装と伝統、我々が暗黒の中世に耳にしたものを満載してやって来る」。(pp.109-110)



(▼5) 

一方において進歩党は、とくに近年、かつての反国家主義とは対照的に、高齢者政策などを中心に福祉政策に積極的な態度を強調している。たとえば一九九七年の選挙で、ノルウェー進歩党は「オイルマネーをもっと福祉に」というスローガンを掲げ、北海油田の収入を医療サービスの向上と高齢者福祉の充実に向けることを訴えた。この選挙では、進歩党は一五・三パーセントの得票を得て第三党に躍進する。二〇〇一年の選挙時の調査では、有権者の二六パーセントが進歩党こそ最善の高齢者政策をもっていると答えている。労働党を含めて、高齢者政策にかんしてこれだけ高い支持を得た政党は他にない。

 他方において、進歩党にとって、こうした福祉政策の展開は厳格な移民政策がその前提となっている。移民政策については進歩党は、まだ新自由主義的な政策が残っていた八〇年代半ばの段階から、排外主義的な基調を強めている。その具体的な政策は一定しないが、八五年の綱領では、スイス的な「ゲストワーカー」政策を提起した。また、九三年の綱領では、民族的に純粋な社会こそが理想であると公言し、非西欧からの移民については、年間千人に限定するというクォーター制度を打ち出した。さらに近年では、市民権取得にあたって言語テストを課すことを要求している。(pp.76-77)



(▼6) 

〔前略〕どのような要因がスウェーデンにおける新しい右翼の進出を抑制し、この点での北欧諸国内部の分岐を生み出したのであろうか。いくつかの点について指摘がある。

 第一に、もっとも単純には、選挙制度の相違であり、三カ国とも比例代表制を採っているが、議席配分に必要な得票率はデンマークが二パーセント、ノルウェーの場合は一部の議席を除いて制限がないのに対して、スウェーデンでは四パーセントと比較的にハードルが高い。第二に、スウェーデンでは七六年まで右派政党が政権をとることができなかったのに対して、デンマーク、ノルウェーではすでに六〇年代の半ばに右派政党が政権入りをして、福祉国家の解体に失敗していた。その結果、体制への不満票は行き場を失っていた。第三に、デンマークとノルウェーで進歩党の創立が相次いだ時期は、両国でEC加盟の国民投票が行われた後で、反EC意識が拡がる条件があった。これに対して、スウェーデンでEU加盟についての国民投票がおこなわれたのは九四年であり、さらにこの時には反EU票を吸収する政党が存在していた。(pp.80-81)



(▼7) 

〔中略〕本稿では,90年代以降とみに強調されており,ブレア政権下の「就労のための福祉」(welfare to work)をはじめとして国際的な広がりを持った,「ワークフェア」の原理に注目したい 2)。(p.208)



注〔中略〕
2) ワークフェア型福祉国家における業績重視の発想と福祉ショービニズムとの関連性についての指摘として,宮本,2004b を参照。(p.223)



宮本太郎,〔中略〕
――,2004b 「新しい右翼と福祉ショービニズム」 斎藤純一編著 『福祉国家/社会的連帯の理由』 ミネルヴァ書房,55-85頁。(p.225)



(▼8) このことは、同書の編者である宮本が、本論文を以下のように紹介していることからも明らかである。


 水島論文は,オランダを舞台として,さきにも取り上げられた「新しい右翼」の動向を分析すると同時に,それが移民制度にいかなる転換をもたらしつつあるかを明らかにする。雇用保障の強い保守主義レジームでは移民が新規に労働市場に参入するのは簡単ではない。にもかかわらず,オランダでは就労規範を強調するワークフェア型の改革が進行している。こうした制度特性と制度転換の相乗作用が移民排除の感情を方向づける。制度改革の帰結として,居住実態のある難民申請者の送還や移民への福祉給付の制限がすすめられているという。(vi はじめに)


 この論文でもフォルタイン(党)の「「啓蒙主義的排外主義」のロジック」(p.218)は取り上げられてはいるが、その位置づけは以前とは明白に異なっている。


 このような〔引用者注:フォルタイン(党)による移民・難民に対する〕「福祉濫用」批判が支持を集めた背景には,先述のような,オランダにおけるワークフェア型福祉国家への転換があった。1990年代半ば以降のオランダでは,労働党のコック(Wim Kok)を首班とする連合政権の下で,就労・社会参加促進を第一に掲げる福祉・雇用政策の導入が進み,その傾向は現在も継続している。生活保護受給者への就労努力義務の強化,就労不能保険給付認定の厳格化,福祉政策と雇用政策のリンクによる福祉給付受給者の労働市場復帰のルートの設定など,さまざまな改革が進められた(水島,2003)。(p.217)



 以上見てきたように,オランダにおいては90年代以降,移民や難民,ときには不法滞在者をも包摂する普遍的射程を持つ福祉国家が,選別的な発想を含むワークフェア型福祉国家への転換を果たしていくとともに,「移民から福祉を守る」ことを唱える福祉ショービニズムのロジックへの反転が急速に,しかも鮮明に進行した。しかもその変化は,「義務」や「責任」を前提とするシティズンシップの再定義と連動し,現実に労働市場や言語習得において不利な立場に立つ多数の移民や難民を「シティズンシップの不適格者」として排除する作用をも果たしている。そしてこれらの動きが,他の「豊かな」ヨーロッパ福祉国家の近年の変容――とりわけ,新右翼の進出による福祉ショービニズムの噴出――と通底するものであることは明らかだろう。(pp.221-222)

続:大震災に便乗する佐藤優

 いやー、さすがにこれはないだろ。


現在、われわれがかけなくてはならないのは「頑張れ東京電力!」というエールだ。


 【佐藤優の眼光紙背】:「頑張れ東京電力!」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5412425/

 これは民主党―東電の原発(輸出)利権と何か関係があるのでしょうか・・・と思ってしまうが、ここまで言うからには佐藤にはよほどの勝算があるのだろう。この大震災を機に「国家翼賛体制」を完成させることの勝算が、である。実際、この記事が更新されてからのコメントには佐藤に肯定的なものが圧倒的に多くなってきているし、個人的にも(原発に反対している)友人から、今さら政府や東電を批判しても仕方がないのではないかといった意見を聞かされた(もちろん反論したが)。

(1)原発事故はあってはならない。
(2)しかし、現実に原発事故があったからには、原発を推進してきた政府や東電(上層部)を全力で支えるのが国民の責任というものである(批判は後からいくらでもできる)。
〔中略〕
(4)途上国に原発を輸出して日本経済を復興させよう(「大震災の教訓」はむしろセールスポイントになるかもしれない)。

 佐藤に(4)の意図があるかどうかは知らないが、(1)・(2)の論理は、まさに日本の左派が――とりわけ「七・七事変」(いわゆる「盧溝橋事件」)以降――アジア侵略を容認し、積極的な加担に転じる際の自己弁明として用いたものだと言える(佐藤は国家翼賛体制の総仕上げをしようとしているのだから当然だが)。

(1)侵略はあってはならない。
(2)しかし、現実に天皇制政府が侵略を始めた以上、それを全力で支えるのが国民の責任というものである(批判したり抵抗したりする連中は非国民だ)。
〔中略〕
(4)途上国に自衛隊を派兵して日本企業の海外展開を支えよう(憲法9条はむしろセールスポイントになるかもしれない)。

 佐藤は3月12日の記事で、「地震専門家は今後1カ月は大きな余震と津波の可能性があると述べている。その期間はきわめて緊張度が高い国家非常事態だ。これに対応した翼賛体制が必要とされるのである。この危機を乗り切るという明確な目的意識をもって筆者も言論活動を行う」と述べている。国家翼賛体制を実質的に容認する左派に向けて自己弁明の餌を投げ与えるような佐藤の「言論活動」にも拍車がかかるだろう(何も「こんなとき」にあえて、朝鮮学校に対する「無償化」排除について、政府の責任を追及しなくてもよいだろう、云々)。日本人よりもはるかに孤立した厳しい状況に置かれている外国人に対する支援も、後回しにされて当然だという<空気>が、一層支配的になるだろう。


 最後になるが、諸外国も東日本大震災に対する日本政府と日本国民の反応を注意深く観察している。国際社会では弱肉強食の論理に従い、自国の権益を露骨に拡張しようとする帝国主義的傾向が強まっている。ここで大震災に対して日本人が団結し、対処する姿勢を示せば、中国は尖閣諸島に対する挑発行為を躊躇するようになり、ロシアも北方領土問題で対日強硬策をとることの危険を察知するようになる。


 【佐藤優の眼光紙背】:「国家翼賛体制の確立を!」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5409634/

 今回の大震災を受けて、中国政府は約3.8億円に相当する援助物資の提供を開始した。ロシア政府は救助部隊や救援物資の提供を検討しているし、韓国からはすでに100人以上の救助隊が送られ、地方自治体や民間団体でも20億円以上の募金が集められているという。朝鮮赤十字会からも、「貴国の東北部地方で発生した前例のない地震と津波により、多くの人命被害と物質的損失があったという不幸な便りに接し、朝鮮民主主義人民共和国赤十字会の名であなたと被害者、その家族に深い同情と慰問を伝える」という哀悼が寄せられている3月14日付の聯合ニュースは、「日本の地震被害に、北朝鮮が哀悼の電文を発送するのは、極めて異例のことだ」などと報じているが、これは異例でも何でもない。日本ではまったくと言ってよいほど知られていないが、朝鮮民主主義人民共和国政府は、2004年10月の中越地震の際にも国際赤十字社などを通じて日本に計13万ドルの支援を行っている)。

 大震災に便乗して「国家翼賛体制の確立」を絶叫している佐藤は、こうした「国際社会」の対応が、自身の言説と比べてどれほど「帝国主義的傾向が強」いのか、誰にでもわかるように説明してみせろ(と言いたい)。

大震災に便乗する佐藤優

 佐藤優がさっそく大震災に便乗して「国家翼賛体制の確立」を連呼している。


 今後3カ月は国家非常事態と認識し、日本社会が団結し、国民1人1人、企業、労働組合、宗教組織などの団体が自発的に日本国家を翼賛することを訴える。


 【佐藤優の眼光紙背】:「国家翼賛体制の確立を!」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5409634/


いま必要なのは、言葉の正しい意味で菅首相を翼賛することである。翼賛とは、本来、国家指導者を国民がそれぞれの立場から助けることを意味する。1人1人の国民、団体がそれぞれの立場から、菅首相が日本国家と日本人のために最適の決断ができるように努力することだ。菅首相は、能力主義の観点から、与野党を問わず、官民を問わず、必要とされる人材を登用して、危機に対応するべきと思う。

 われわれ日本人には大和魂がある。日本人が日本人であることを支えるのが大和魂だ。日本が危機に陥ったときに、われわれの大和魂が自ずから働き出す。政治、イデオロギー、経済的個別利害を超えて、危機のときに団結する能力がわれわれに備わっているから、日本人も日本国家も生き残ることができたのである。危機を乗り切るためには思想が必要だ。大和魂こそがその思想だ。危機になると自ずから働き出す大和魂の力を私は信じる。


 【佐藤優の眼光紙背】:「大和魂で菅直人首相を支えよ」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5410094/
 
 佐藤の高揚感がそのまま伝わってくるかのような、読めば読むほど気色の悪い文章だが、佐藤が「大和魂」の使途として端的に提示しているのは、福島原発に関するマスメディアぐるみの情報統制と「超法規的措置」に対する翼賛である。


 しかし、ここでマスメディア関係者に考えてほしいことがある。いまは非常事態だ。1人の日本人として、現在の状況がはらむ内在的危険を理解して欲しい。〔中略〕現行の法体系に不備があるならば、日本国家と日本人同胞を救うために首相は超法規的措置に踏み込む必要がある。マスメディアが責任追及の姿勢をとると官僚と原子力専門家が萎縮する。そして、規則やマニュアルの範囲内でしか行動しなくなる。〔中略〕破滅的結果が生じることを防ぐためには官僚や東京電力関係者を萎縮させてはならない。マスメディア関係者は是非そのことを理解してほしい。国民、マスメディア、政府が一体となって危機を脱する方策を、誠実に探求することがいま求められている。

 そこで具体的提案がある。福島第一原発、福島第二原発を巡り政府と主要マスメディアが緊急に報道協定を結ぶことだ。政府は、持っている情報を迅速にマスメディアに対して提供する。確認がとれた情報だけでなく、未確認情報や錯綜する情報もただちに提供する。ただし、マスメディアに対しては、それが報道された場合、国民心理にどのような影響があるかについて十分配慮した報道を行うよう要請し、いくつかの合意をする。こうすれば、国民の知る権利と国益、公益の折り合いをつけることができる。

 まさに日本国家と日本民族の存亡の危機がかかっている。政治家、官僚、マスメディア関係者も「われわれは同胞である。日本の生き残りはわれわれにかかっている」という意識をもって職務を遂行して欲しい。


 【佐藤優の眼光紙背】:「福島原発に関する報道協定を結べ」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5410331/

 さすがに記事のコメント欄には佐藤批判が殺到しているが、それだけにこのタイミングにおける佐藤の発言は菅政権や東電にとってありがたいものだろう。ところで、佐藤はマスメディアに対して情報統制の必要性を主張しながら、すでにマスメディアが「自発的に」(とりわけ福島原発に関する)報道を抑制していることを「歓迎」している。


 マスメディアに国民心理の動揺を避けようとする集合的無意識が強く働いている。このような状況で、新聞、テレビ、ラジオがセンセーショナリズムに走っていないことを筆者は歓迎する。東日本大震災に対し、日本人がパニックを起こさずに対応していることは、わが民族が危機に対応する基礎体力を備えていることを示している。日本人の能力を日本人自身が過小評価してはならない。国民が団結して、民主的手続きによって選ばれた国家指導者である菅直人首相を支えなくてはならない。


 【佐藤優の眼光紙背】:「大和魂で菅直人首相を支えよ」
 http://news.livedoor.com/article/detail/5410094/

 要するに、佐藤は、「日本人がパニックを起こさずに対応している」=「わが民族が危機に対応する基礎体力を備えている」のは、情報統制のおかげであると言っているようなものだと思うが、国民をナメ切った、上から目線丸出しの佐藤の言説とは異なり、「日本人は(外国人とは違って)やっぱりすごい」ことを素朴に褒め称え合うような言説は、マジョリティからの反発を受けることなく急速に浸透している。そして、こうした「素朴」な(=「個人的な」)「オール・ジャパン」言説の文脈から、結局は佐藤と似たような主張が垂れ流されていたりもする。


今更マスコミや政府、原発の批判をしないでください

普段から批判してる人もそうでない人も、今はお休みしましょう。
特に原子力発電所の設置を反対していた人達も、ここぞとばかりに前に出てきていますが、今のあなたがたにそんな批判をされている人達こそが、放射線との恐怖と戦い、被害をこれ以上大きくしないように頑張っている人達なのです。それこそ設置批判をしているあなた方こそが今一番いらない存在です。

〔中略〕

被災地とその他を別に考えるのもおかしな話かもしれません。今は日本全体で頑張る時だと思っています。頑張りましょう。そして応援しています。日本。

ほんとに個人的なお願いですがよろしくお願いします。


 ホームページを作る人のネタ帳:「被災地ではない地域のツイッターユーザーにお願いしたい5つの事」
 http://e0166.blog89.fc2.com/blog-entry-866.html
 
 「こんなとき」であろうとなかろうと、「オール・ジャパン」現象には与したくない。

福祉排外主義とは何か――その言説構造を問う(前編)

 日本の反貧困運動とレイシズムの関係性を考える上で、欧州で近年――とりわけ9・11以降――顕著に見られる福祉排外主義について、その特徴と(日本国内の)言説構造を分析することは、なかなか興味深いテーマになると思う。今回は手始めに、宮本太郎と水島治郎の言説(の変遷)を通じてその概観を探ってみたい。


1.水島治郎「オランダにおける反移民政党の躍進――「ポストモダンの新右翼」の出現?」

 福祉排外主義(「福祉ショービニズム」)とは、福祉国家体制の改革・再編にともなって出現する、福祉国家を擁護する立場から移民などの民族的マイノリティに対する抑圧・排斥の必要性を唱える言説・運動である。水島治郎は、2002年の論文「オランダにおける反移民政党の躍進――「ポストモダンの新右翼」の出現?」(「海外事情」2002年10月号、pp.64-79)で、オランダにおける「「リベラル」かつ「リバタリアン」な価値を承認する「ポストモダン新右翼」の登場」(p.78)と福祉排外主義の台頭を分析している(ただし、水島の分析の重点は「ポストモダン新右翼」にあり、論文には福祉排外主義や福祉ショービニズムといった用語は出てこない)。前編ではまずこの水島論文を紹介する。

 外国系市民の比率が18%に達する移民大国オランダ(▼1)は、「ドイツやベルギー、フランスなどの周辺国と比較して」、従来「極右の弱さ」が「きわだってい」たが、2002年5月の総選挙では突如として、移民排斥による福祉の充実化を選挙公約とする新党フォルタイン党(正式名称はピム・フォルタイン・リスト Lijst Pim Fortuyn)が、「一五〇議席中二六議席、得票率で一七%を獲得して、第二党に躍進し、連立与党入りを果たした」(p.64)。総選挙直前に党首ピム・フォルタインが「オランダ人の動物愛護運動家によって射殺され」(p.64)たため、フォルタイン党自体はその後事実上崩壊していくが、「フォルタイン現象 Verschijnsel Fortuyn」(p.72)はオランダにおける福祉国家体制の維持と排外主義の全面化を端的に表すものであった。フォルタインへの「弾丸は左から来た」(p.78)という主張が、それまでフォルタインを批判してきたリベラル・左派を沈黙させている事情も手伝って、オランダ社会の「フォルタイン化」はフォルタインの死後もなお進行中である。

 (2002年当時の)水島は、「フォルタイン現象」の背景として、(1)1994年から2002年まで続いていた保革連合の長期政権――「労働党、自由民主人民党(自由主義右派)、そして民主六六(自由主義左派の小党)の三党」(p.65)――のもとでの主要政党の「オール中道化」(p.67)、(2)「移民・難民問題」(p.67)――政府による「マイノリティ統合政策」の費用対効果をめぐるマジョリティからの批判と、9・11以降に噴出したマジョリティの「反移民感情」(p.68)――、(3)新自由主義的改革による公共セクター全般の劣化を挙げている。このような状況下で、フォルタイン党(▼2)は既成政党の政治家を「ハーグの寡頭支配階級」(p.67)=「政治的・社会的エリート」(p.73)と呼んでひとまとめに批判し、国民マジョリティをターゲットに福祉排外主義を唱えて躍進したのであった(強調は引用者による。以下同様)。


 〔引用者注:フォルタイン党の選挙公約について〕移民政策では、人口密度の高いオランダで「秩序を保つために、移民を最大限防止することが絶対に必要である」とし、従来移民や難民のために支出してきた費用は「オランダのすべての合法的な住民の状況改善のために充てるべき」とする。従来の主要政党の政策と大きくかけ離れた公約だったことは言うまでもない。

 三月には自治体選挙が行われたが、フォルタインの住むロッテルダムではフォルタイン党の支部というべき「住みよいロッテルダム」が三五%の得票率を獲得し、驚愕が走った。しかも労働者やマイノリティが多く、伝統的に労働党が強固な基盤を築いていた同市で同党が大敗北を喫したことも衝撃的だった。フォルタインは選挙戦で、貧困な移民が多数を占め、治安も悪いロッテルダムの問題を明確に指摘し、「このままでは健全な中産階級が逃げてしまう」と主張して支持を集めたのである。選挙後同市では、キリスト教民主アピール、自由民主人民党、そして「住みよいロッテルダム」からなる市執行部が発足し、治安強化などが約束された。これ以後総選挙にいたる二カ月間、選挙戦は事実上「フォルタインか否か」をめぐって争われる様相を呈した。

 もちろんフォルタイン党は、移民問題のみを争点にして支持を拡大したわけではない。むしろフォルタインは、上述したような紫連合〔引用者注:保革連合政権〕の問題点、特にその公共セクターの軽視を容赦なく批判した。(pp.72-73)



〔中略〕フォルタインは、この合意形成なるもの〔引用者注:「多極共存型」あるいは「合意型」デモクラシーと呼ばれるオランダ政治に特徴的な合意形成モデル〕は実は一握りのエリートによる、内輪の取引きに過ぎないと厳しく断じる。「全員で〔決める〕、というその全員は、もちろん普通の市民ではなく、政治的・社会的エリートのことである」〔中略〕

 「オランダに住む一七〇〇万人になろうとする住民のうち、わずか三〇万人に過ぎない政党の党員」が排他的に主要職を独占していることは、「才能の無駄遣いであるばかりか……民主主義に対する侮辱表現だ」という。「政治を市民に近づける」ためとして、選挙綱領には市長公選はもちろん、首相公選の導入も掲げられた。「オランダの寡頭支配体制との戦い strijd tegen het Nederlandseregentendom」を呼びかけるフォルタインのスタイルは、コンセンサスや妥協を重視してきたオランダの政治文化そのものへの挑戦であったといえるだろう。(pp.73-74)


 ところで、この論文で水島が重点的に分析しているのは、フォルタイン(党)が近年特に注目を集めたイスラム(系移民)批判についてである。やや長めに引用するが、ここには単に福祉排外主義の特徴を考えるという以上に重要な論点が提起されていると思う。


 ここで注意すべきは、フォルタインは人種差別・民族差別的な主張に基づきイスラム移民を排撃するのではなく、あくまで西洋啓蒙の伝統に由来する普遍的な価値観に立って「遅れた」イスラムを批判する、という論法をとっていることである。たとえば彼は自らが同性愛者であることを公言し、女性解放や同性愛者への差別撤廃をなしとげた六〇年代以降の西欧諸国の社会運動を高く評価するが、それとあわせて女性差別・同性愛者差別を認めるイスラム社会を厳しく批判する。「女性は自らの意思でベールをかぶり、全身を覆っているというのか……そのような女性たちの住む遅れた地域に対しては、全面的な差別撤廃政策を進めたい」。「(イスラム社会では同性愛者であることを)公言する勇気を持つ者には、社会的にも、家族からも完全に孤立する状態が待っている。これほど野蛮なことはない!」。オランダ国内のイスラム社会においても、「異性愛者の男性」が「絶対的な地位」を占めている状態が存在するが、イスラムの女性や同性愛者たちにも通常のオランダ人が享受しているのと同じ人権が保障されねばならない、と彼は主張する。

 このようにフォルタインは、男女平等や人権・自由といった近代的価値を積極的に認め、議会制デモクラシーの存在なども自明視した上で、その「普遍的な」価値に立脚するがゆえにイスラムを批判するという手法をとる。これは周辺諸国の新右翼、たとえばフランスの国民戦線やベルギーのフラームス・ブロックのようにファシズムや暴力的極右運動に由来する部分を持ち、民族的・国家的価値を重視して排外主義的主張を行ってきた勢力とは一線を画している。フォルタイン党も議会外の過激な移民排斥運動とは一切関係ない。むしろフォルタイン党は、デンマークの進歩党、国民党、ノルウェーの進歩党のように、やはり西洋的価値を唱えつつ移民規制を説く新右翼と共通する点が多い。国民戦線やフラームス・ブロックと異なり、「リベラル」な価値に立脚する論法をとるフォルタイン党や北欧の新右翼政党が、「極右」と呼ばれることがほとんどないのはその結果である。

 しかもフォルタインは妊娠中絶などの女性の権利、同性愛者の権利を積極的に擁護するのみならず、安楽死や麻薬も容認する立場をとっており、むしろリバタリアンにも近い。その点で中絶に強く反対し、伝統的家族の価値を重視する国民戦線などの極右とは対照的である。その背景には、そもそもオランダや北欧では、議会制デモクラシーや人権・自由といった近代的価値が幅広く根付いているのに加えて、リバタリアンな価値観もかなりの程度浸透しており、これ自体を批判する勢力が支持を集めることは困難という状況がある。むしろ「リベラル」かつ「リバタリアン」な価値を認めた上で、しかもその価値観を逆手に取る形で「遅れた」宗教を批判し、移民を排撃する方法には可能性が残されている。その意味でフォルタインの運動は脱産業化した先進国における新しい形の右翼、いわば「ポストモダンの新右翼」と呼べるかもしれない。(pp.70-71)


 水島はフォルタインの言説を「人種差別・民族差別」(レイシズム)として名指してはいないが(もっとも、水島は「二〇〇一年の同時多発テロ以降」のオランダ国内における「モスクやイスラム学校への脅迫」についても、レイシズムではなく単に「反移民感情」という表現を用いているのだが)、それがどれだけ「リベラル」なものであっても、イスラム系移民の自己決定権や民族自決権を事実上否定しているからには、フォルタインの言説が植民地主義的・レイシスト的であることは疑いようがないだろう。水島論文は、まさに自らをリベラルかつ「普遍的」価値の担い手として規定する、レイシスト的な国民マジョリティによって福祉排外主義が促進することを示唆している。

 さらに言えば、自国がかつて侵略・植民地支配し(インドネシア)、現在も新たに侵略を重ねている(イラク、アフガニスタン)国家における(国家を横断する)民衆のアイデンティティの紐帯(イスラム)を、人権や自由といった「普遍的」な立場から攻撃する言説は、欧州の「ポストモダン新右翼」の専売というわけではなく、むしろ反植民地主義を抑え込むことに共通の利害を持つ先進諸国に広く見られるものだろう。日本国内における朝鮮民主主義人民共和国バッシングは、こうした「普遍的」な言説によって(も)煽られ続けているし、在日朝鮮人の民族教育を「普遍的」な見地(実際は日本人原理主義)から批判するリベラル・左派の言説――朝鮮人社会における民族教育の「後進性」から子どもたちを「守る」という「日本人の重荷」――は、そこら中に転がっているように見える。こうした言説は、朝鮮人の民族自決権を否定したり(教育内容への介入)、逆にその言説を裏返したりすることで(▼3)、朝鮮学校に対する「無償化」排除批判を展開することさえある。

(中編に続く)


(▼1) 

オランダでは、移民一世、および両親のいずれかが外国生まれである移民二世を合わせて「外国系市民 allochtonen」として分類し、統計を作成しているが、二〇〇二年現在でこれは二九六万人、全人口比で一八%に達している(なおオランダ国籍の取得が比較的容易である結果として、外国人人口じたいは四%に過ぎない)。特に多いのはトルコ系(三三万人)、モロッコ系(二八万人)、スリナム系(三二万人)である。しかも移民の流入が依然として続いていること、出生率も高いことから、外国系市民の総数は過去五年間だけで四〇万人以上の増加を示している。

 オランダは、移民関連の政策には相対的に熱心な国として知られている。外国人は通常オランダ滞在五年、家族招致による入国の場合は三年で永住許可を取得できる。また五年以上滞在している外国人には市町村の選挙権・被選挙権が与えられる。難民についても七〇年代以降広く解釈して受け入れる運用方法が続いており、難民として庇護申請を行った者の半数以上は、最終的に何らかの在留許可が与えられている。さらに一九九八年までは、違法滞在の外国人であっても生活保護など社会保障給付を受ける道が開かれていた。

 住宅や教育・文化面の配慮も進んでいる。マイノリティを対象とした低家賃の公共住宅が大規模に建設されており、多くの移民は都市部で安価な住宅に居住することが可能となっている。公費によってまかなわれるイスラムやヒンドゥー系の小中学校も次々建設されており、移民の多い学校には追加予算が配分され、児童はオランダ語と並んで母語による教育を学校で受けることができる。これらの政策の背景には、自らの文化的アイデンティティの保持が自己イメージを高め、社会的統合を促進するものとする考え方がある。(p.67)


 やや長めに引用したが、これは植民地支配の結果として日本に定住せざるを得なくなった在日朝鮮人の諸権利を執拗に侵害し続けている日本国家・日本社会との彼我の差を際立たせるためというだけではなく、マイノリティの「社会的統合」を目標に掲げる移民・難民政策がいつでもマジョリティによる「仕分け」の欲望に晒されうることを示すためでもある。事実、上記引用箇所の続きは次のようになっている。


 しかしながら、従来の政策が現実にマイノリティの統合に成功しているとする見方は少ない。マイノリティのほとんどは都市部に居住し、しかも特定の地区に集中することが多いが、これらの地区は往々にして貧困・犯罪といった問題を抱えており、「後進地区 achterstandswijk」とも呼ばれている。特に四大都市ではマイノリティが多く、非西洋系の外国系市民の比率はアムステルダムで三一%、ロッテルダムで三〇%、ハーグ二八%、ユトレヒト二〇%に達しているが、いずれもこの「後進地区」問題は深刻である。しかもマイノリティの子弟には中途退学者が多く、十分な教育を受けないまま、失業者の比率は平均の三倍に達している。

 紫連合政権〔引用者注:労働党、自由民主人民党、民主六六による連合政権。労働党と自由民主人民党のシンボルカラーがそれぞれ赤と青であることから「紫連合」の名で呼ばれる〕は、むしろマイノリティ統合政策に積極的に取り組んできたといってよい。移民に対するオランダ語講習の提供や職業教育、企業のマイノリティ採用の促進など、移民の社会的地位の向上をめざす政策が進められた。特に政府は二〇〇〇年には中小企業団体、二〇〇二年には大企業と協定を締結し、マイノリティ社員の採用の促進を約させている。他方では、違法滞在外国人への社会保障給付を廃止し、難民の庇護申請の審査を厳しくするなどの措置もとっている。しかし、これらの施策の多くは効果が出るまで時間がかかる上、経済状況が好転したにも関わらず都市の犯罪はほとんど減少していない。オランダ人の多くが身体的危険を身近に感じているなかで、移民と治安の悪化を結びつける議論が増えていく。そして住民の安全を守ることのできない政府への批判が高まり、移民・難民の流入が依然として続いていることとあいまって、不満を増大させる一因となった。さらに二〇〇一年の米国同時多発テロ以降、モスクやイスラム学校への脅迫といったかたちで反移民感情が表出することになった。(pp.67-68)



(▼2) ピム・フォルタインは当初「住みよいオランダ」――90年代半ばから既成政党と距離を置いた住民参加重視の政策を掲げて都市部を中心に市議会へ進出していた地域政党(「住みよいユトレヒト」、「住みよいヒルフェルスム」等々)の勢いを受けて、2001年に結成された全国政党――から出馬することになっていたが、「結局彼の移民・難民制限を求める急進的な主張は執行部の許容範囲を超え、二〇〇二年二月、執行部はフォルタインを筆頭候補者から外すことを決定」し、「地方支部も、フォルタイン自ら率いる「住みよいロッテルダム」を除いてほぼすべてがこの決定を支持した」ため、「フォルタインはただちに個人政党フォルタイン党を結党し、独自に五月の選挙に参加すること」(p.72)になった。「住みよいオランダ」――「党の中心人物は労働党を離党したヤン・ナーヘルら左派出身者が多く、政党的にはむしろ中道左派政党というべき政党」――が、「右寄りでも人気が高く、既成政治批判という点で共通するフォルタイン」を「選挙戦の顔となる筆頭候補者」(p.72)に選択するほどポピュリズム化していたことは注目に値する。

(▼3) 例えば、以下では民族教育が「愚行権」(!)として擁護されている。

 Togetter:「朝鮮学校が無償化されて当然である理由」
 http://togetter.com/li/53096

山口二郎、レイシストとして本格デビュー

 最近、「社会保障改革に関する集中検討会議」のメンバーのインタビューやら著作やらを拾い読みしている。「社会保障と税の一体改革」のための「検討会議」が消費税増税の地ならしであることは、佐賀県警の論理の崩壊ぶりになまじ引けを取らないほど自明なため、あらかじめネタバレの推理小説を読んでいるような気分が味わえるが、個々のプロットにはそれなりに衝撃的な発見もあったりする。その筆頭が、宮本太郎「幹事委員」責任編集の『自由への問い②社会保障――セキュリティの構造転換へ』(岩波書店、2010年)に収録されている山口二郎の巻頭論文(「生活保障としての安全保障へ」)だろう。

 最初に、本シリーズの意図らしきもの(「編集にあたって」)を押さえておこう(強調は引用者による。以下同様)。


 本シリーズは、自由をキー・コンセプトとして現代社会の問題状況を具体的に明らかにするとともに、私たちが自由を相互に享受することを可能にする規範や制度のあり方を探求する試みです。〔中略〕社会統合、社会保障、公共性、コミュニケーション、教育、労働、家族、生という八つの問題領域において、どのような規範や制度が誰のどんな自由を可能にし、逆に誰のどんな自由を制約し奪っているのかを具体的に問い返しながら、同化や排除のない、より公正な自由はどのように考えられるべきかを構想するものです。

 各論考が、読者の皆様ご自身による「自由への問い」に少しでも資することを願います。

 編集委員一同(p.)


 次に、山口の「論考」を読んでみよう。


 本稿の目的は二つある。第一に、リスクを管理する仕組みがどのように確立され、それが一九九〇年代以降どのように変容しているかを分析する。第二に、リスクが普遍化している状況に対して、民主政治という手段によってどのようにリスクを共同管理する体制を再構築するかを考察する。

 高度な文明生活においては、リスクをゼロにすることはできない。しかし、リスクを適切に管理し、リスクが顕在化した時の災禍を受忍可能なものにすることはできるはずである。そのようなリスクの管理は、人間が自由に自己実現を追求するための必須条件である。生活の安全・安心がある程度確保されてこそ、人間は自由を追求できる。(p.30)

〔中略〕そこで、改めてリスクの全体構造について考えてみたい。

 リスクにはいくつかの段階がある。第一は、戦争、テロ、犯罪など人間生活の基本となる秩序を破壊し、生命や身体に対して脅威となるリスクである。これを「生存のリスク」と呼んでおく。直接身体を脅かすものでなくても、人間のアイデンティティを揺るがす脅威もある。たとえば、外国人、カルト集団など、言語や文化を共有できない人間が周囲に目立つようになると、人間は不安に陥る。これらのアイデンティティに対する脅威も、生存のリスクに含まれる。(p.40)


 ・・・・・・いつの間にか「外国人」と「カルト集団」が普通に同列化されて「人間」にとっての「生存のリスク」にされているのであった。こんな「論考」が「同化や排除のない、より公正な自由」を「構想」するために堂々と出版されているのだから、日本社会で「在特会」のような連中がはびこるのも当然である。どうやら山口も「外国人」の「増加」(人口割合からすれば極小)にアイデンティティ・クライシスをきたすレイシストの一人なのかもしれない(そんな「アイデンティティ」などさっさと崩壊すればよろしい)が、山口の恐ろしいところは、レイシズムが、(ネット右翼のように)言動の中核にあるのではなく、素で言動の(単なる)前提にされているらしいことである。さすがは国立大学教授と言うべきか、そこらの不安定雇用層レイシストとの「格差」を見せつけてくれているかのようだ(▼1)。本書の「編集委員一同」に名を連ねている(山口の同僚の)宮本太郎もなかなか只者ではないと思える(在日外国人に対する宮本の言説も近いうちに取り上げてみたい)。

 ところで、この「論考」における山口の結論は、「リスクの社会化の仕組みは、そのような普通人の身の丈にあった自由を支えるものとして再建されるべきであ」(pp.52-53)り、それは「所与性や自然の限界を自覚しつつ、主体的に所与性や自然の中に身を置く選択も許容するという形で自由を再構築すること」(p.52)を通じて実現される、というものである。といっても、これだけでは訳がわからないだろうから、少し長めに引用しよう。


政治や社会の諸制度を自然の所与と考えるのではなく、人間の作為によって構築されるものと考えるところに、近代的な思考が始まったと丸山眞男はいう(関谷 二〇〇三)。政治学を志す者にとってはおなじみの枠組みであるが、新自由主義時代に席巻した新自由主義的政策がもたらした社会経済の疲弊を考えるとき、これに対してある種の限界を感じざるを得ない。(p.51)

〔中略〕

 新自由主義イデオロギーに基づく地方分権論は、住処や仕事など、本来人間が自由に選択できるとは限らない事柄にも選択の自由というフィクションを当てはめる。〔中略〕

 生まれ育った地域に住み、家業を受け継いで地道にコミュニティを支えている人々が途方に暮れるような社会で、人々は地道に慎ましく暮らすという自由を奪われている。〔中略〕

 もちろん、身分、性別の上下関係をすべて自然の所与とみなすような時代に戻ることはありえない。今求められているのは、作為と自然の新たなバランスである。たとえば、長年住み慣れた地域であっても、そこの住民であることを時々選びなおすという思考実験をしてみる。地域のコミュニティに帰属し、家族と一緒に生活するといった一見所与の生活も、自らの意思によって選び取り、大事にするという感覚が生まれてくるはずである。所与性や自然の限界を自覚しつつ、主体的に所与性や自然の中に身を置く選択も許容するという形で自由を再構築することこそ、ポスト新自由主義の時代において自由を再生させる道であると考える。リスクの社会化の仕組みは、そのような普通人の身の丈にあった自由を支えるものとして再建されるべきである。(pp.52-53)


 ここでは「コミュニティ」という言葉が多用されているが、次のような山口の歴史観(「戦時」に日本のインフラを構築させられたのが誰か、「平時」の日本の「民間経済の発展」とアジアとの関係をめぐる歴史(要するに日本の侵略責任)は、まるで存在しないかのようである)や、山口の議論の適用範囲が先進国(の国民)に限定されている(▼2)ことからも、読者としては、多少なりとも行間を読んであげるのが親切というものかもしれない。


 もちろん、戦争は国民にとって生存を脅かす巨大なリスクである。しかし、戦時に構築された動員体制は、戦争終了後も、人々の生活に関わるリスクを管理する仕組みとして作用した。戦争目的で建設された道路、鉄道、空港などは平時に戻ると民間経済の発展を支える社会資本として機能した。戦争遂行のために構築された社会・経済の管理体制が、戦後は福祉国家を支える基盤となったのである。(p.34)


 山口は要するに、「人間」=日本人に対して、先進国の国民としての特権を「自然の与件」として、その「所与性や自然の限界を自覚しつつ、主体的に所与性や自然の中に身を置く選択も許容する」(日本国民としての排他的特権をあえて解体しないという「選択」=「主体的」なレイシズムを容認する)「という形で自由を再構築する」ことを暗に推奨しているのだと思う(単純に言えば、「日本はもう落ち目かもしれないけど、なんだかんだでやっぱり日本人に生まれてきてよかったなあ~」、と日本人が思える日本にこれからもしがみつこうよね、と仄めかしているのだと思う。何と言っても、山口にとって「これだけは譲れないという最後の一線」は「日本人の生活の安定」であるのだから)。

 日本の社会運動には、レイシズムの克服を怠った代償として、なし崩し的に体制に回収され、その補完物となっていくという、大日本帝国時代からの情けない「伝統」がある。本書が反貧困運動界隈でどれほど読まれているのかはわからないが(たいして読まれていないと思うが)、山口のようにレイシズムを明け透けに語る「政治学者」を内部できっちり潰していかなければ(潰すというのが言いすぎであれば、せめて公的に自己批判させない限り)、反貧困運動もその轍を踏むことになってしまうと思う。


(▼1) 念のために述べれば、山口はヨーロッパのレイシズムに批判的なことも何やら述べている。


 生存のリスクの強調による政治の転換は、ヨーロッパでも起こった。特に、中東やアフリカ系の移民の存在を強調して、身体的な恐怖感、アイデンティティの崩壊に対する危機感をあおる言説が流布されると、人々は雇用や年金など豊かで文化的な生活を送ることに関するリスクよりも、人間としての生存そのものに関心を持つようになる。(p.44)


 「外国人、カルト集団など、言語や文化を共有できない人間が周囲に目立つようになると、人間は不安に陥る。これらのアイデンティティに対する脅威も、生存のリスクに含まれる」という超差別言説を自ら流布したわずか4ページ後に、「アイデンティティの崩壊に対する危機感をあおる言説が流布される」ヨーロッパの情勢を他人事のように憂えるなど、白々しいにも程がある。

(▼2) 

〔中略〕なぜ二一世紀に入って、アメリカや日本で生活のリスクを管理する仕組みが解体され、それに対してむしろ政治的な支持が集まったのであろうか。

 最初に思い浮かぶ理由は、同時多発テロ以降、生存のリスクが強調され、これに対処するという議論が政府のあらゆる行動を正当化するようになったことである。〔中略〕グローバル資本主義の象徴のような高層ビルが自爆攻撃によってあっけなく崩壊したという事実が、少なくとも先進国の人間の秩序感を揺るがした点が重要である。

 先進国の文明的な生活にとって、安心して町を歩けることは基本的な前提である。また、公共交通機関、消費財の流通システムは不可欠である。同時多発テロは、そのような秩序や生活の基盤が、悪意をもった攻撃に対してはまったく無防備であり、脆弱であるという現実を見せつけた。〔中略〕悪意をもった攻撃に備えるためには、それまで先進国の市民が享受してきた様々な自由を大幅に制限することが必要になるという現実であった。

 リスクの階層構造の中で、生物としての人間にとって最も根源的な生存に対するリスクが高まったという意識を、「九・一一」を契機にアメリカをはじめ多くの先進国の人間が持つようになった。(pp.42-43)

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